噂の令嬢
「あらあの方。たしかバルトマン伯爵家のエレナ様は、お身体に障りがおありなんですって」
久しぶりに出席した茶会での席の扇子の陰でささやかれた声は、小さいはずなのによく聞こえた。
あえて聞かせているのかもしれない。
エレナは聞こえないふりをしながらテーブルの上の紅茶に視線を落とした。
最近の我が家では味わうことができない香り高い紅茶だ。
久しぶりのおいしい紅茶なのにゆっくりと味わう事もできない。
エレナ・バルトマン19歳。
貴族の娘であればとうに婚約者がいて嫁ぎ先が決まっていておかしくない年であった。
結婚はまだ先でもこの年齢で婚約者のいない娘には、何か理由がある。
そして理由が表だって語られなければ、人は勝手に作る生き物だ。
病弱だ、気性に難がある、人前に出せない事情がある。
このあたりでのエレナについての噂は年を追うごとに尾ひれを増やし、
やがて「何かしらの欠陥がある」という、曖昧で都合のよい言葉に落ち着いた。
実際には、欠陥があるのはエレナではなく、家の財政のほうだった。
三年前の春、長雨で領地の川の堤防が切れた。
麦畑の三分の一が泥水に沈み、領地にあるそれなりの数の水車小屋は流され壊れ、
すぐの復興は厳しい状況に陥った。
そこで領民の半分が冬を越すために伯爵家の支援を受けた。
父は家の蓄えを崩すして領地を守ることに迷いはなかったし、
エレナも正しかったと思っている。
けれどその代わりに、先祖代々からの家の蓄えも減り、
またその後も何度も小さく堤防は決壊を起こし、
その度に家の蓄えともに最後には娘の持参金にと準備していたはずだった金も少しづつ消えていった。
持参金のない娘をまともな貴族家は迎えない。
主な産業が農業である我が家とは縁を結ぶうま味も少ないため政略で
バルトマン家でなければという家も今のところ聞かない。
かといって「持参金が払えない」と口にすれば、家名に傷がつく。
だから父も兄も、あえて噂を否定しなかった。申し訳なさそう顔はするけれども。
そうしてエレナ自身も、あえて訂正して回ることはしなかった。
訂正すれば理由を話さねばならず、理由を話せば実情以上に領地の窮状が広まる。
貴族間の噂は怖いのだ。
それは領民の信用にも、借財の交渉にも響く。
噂を否定せず、極力お茶会や夜会の参加を最低限にしていると
訳アリのおとなしくて目立たない令嬢。
いつしかそれが、彼女の評判となった。
そうなるとエレナはたまの夜会では広間の壁際で茶会では隅の席。
家では帳簿の積まれた小部屋で日々を過ごすようになった。
「エレナ、またそんな顔をして」
隣に座っていたアンネリーゼが、小声で言った。
ローゼンベルク伯爵家の娘で、エレナの屋敷から馬で半刻ほどの領地に住んでいる。
このあたりでは珍しいほど暮らし向きの豊かな家だが、彼女自身は少しも気取らない。
「あら、どんな顔?」
扇の下でアンネリーゼはおかしそうに微笑んで
「何も聞こえていませんって顔。聞こえているくせに」
その答えにエレナは少しだけ顔をかしげて
「聞こえていても何も言えないんですもの。仕方ないでしょう」
と答えるとアンネリーゼはふんと令嬢らしくなく
「仕方なくないわ。私、あの人たちの扇を全部折ってあげたいくらい」
小さく鼻をならしながら、扇で顔を隠した。
あまり令嬢らしくはないがアンネリーゼだとなぜかかわいらしい。
エレナは思わず笑った。
リーゼだけは、本当のことを知っている。
三年前の冬、薪を満載した荷馬車を黙って送ってくれたのも彼女の家だった。
恩を返せる見込みもないのに、リーゼは一度もそれを話題にしない。
「ありがとう。でも、扇は折らないで。弁償するお金がないから」
「ひどい冗談」
「ほんとうのことよ」
二人で声を殺して笑っていると、
広間の向こうで、誰かが
「そろそろ王都から管理官様達が来る時期ですわね。これが終わりますと
社交シーズンの始まりですわ。楽しみですわね。」と言った。
王宮は毎年一度管理官を各地に派遣して国内の査察を行っている。
その領地の問題点を洗い必要な支援だったり、改善を提示したりするのだ。
視察に入る領地はその年その年で変わり、この地方で今年はバルトマン領が
その査定の対象に入ったと兄のユリウスからつい三日前に聞いた
エレナは笑いを引っ込めた。支援が受けられれば、堤防を直せる。
直せれば、麦が戻る。麦が戻れば、また元の生活が戻ってくるかも。
そこまで考えて、エレナは考えるのをやめた。
「いつか」の先に何があるのか、彼女は自分でも見ないようにしていた。




