割れた手鏡とシルクハットの落とし物(2)
ショックから動けずにいた少女の元に駆け付けたルイは何も言わず割れた手鏡の破片を手のひらに集め始める。
「中へお入りください」
零れ落ちる涙を袖で拭うばかりの少女をリュカはアトリエの中へ案内し、ルイに代わって鏡の破片を集め始めた。
少女はソファーに座り、テーブルに置かれたハンカチ上の手鏡とその破片を呆然と見つめている。
「少々あの子が身支度を整えるまで待っていてもらえますか?」
少女は何も答えない。リュカの言葉は耳に届いていないようだ。
「ホットミルクをどうぞ、落ち着くよ」
「ホットケーキもあげるね」
ぬいぐるみや食器類は誰に言われるでもなく少女へおもてなしを始める。ひとりでに動く物たちに驚いていたものの「魔法だよ」と言われればすぐに信じた。こども故の純粋さだろう。
「どうしてここに?」
少女の向かいの席に身支度を整え座ったルイは優しく尋ねる。
「わからないわ。気が付いたらここにいて……。本当よ! ただ朝のパンを買いに来ただけなのに、こんな場所知らないわ」
「わかりました。では、見たい記憶と言うのは?」
「……ずっと前に出て行ったお父さんの記憶よ」
その一言を零し、彼女は再び涙を流し始めた。嗚咽を上げながらゆっくりと話していく。
「顔、が、お父さんの顔が、わからないっ……。お母さんがお父さんを、嫌っているから家に写真は、なくて。だから3歳までの記憶にしか、お父さんはいなくて」
「それなのに、だんだんとお父さんの顔が、わからなくなってきていて……」
少女は目の周りの皮膚が赤くなるほどに手で涙を拭った。
「……だから、記憶を見せてもらえればもう一度思い出せるかなって……。この鏡もね、お父さんが家を出て行く前に、最後にくれた物なの」
少女は頬を両手で掴むように抑えると涙に濡れた顔をルイに向けた。
「お父さん、きっと怒っているわよね。大切な手鏡を割っちゃったから……!」
「でも、ずっと大切にしていたのでしょう?」
「うん」
「きっと怒っていないと思いますよ」
「ほんとう?」
「本当です。あなたのお名前は?」
「エマよ」
「エマさん、僕が力になってもいいですか?」
立ち上がったルイはエマの元へ近づくと、割れた手鏡に魔法をかけた。
「きっと思い出せます。‘Olu Makana」
淡く光った手鏡に目を奪われていたエマだったが、
『エマ!』
ふと背後から聞こえた声に顔を振り向かせる。
男性はエマに手を広げて笑顔を浮かべた。
エマの脳裏でぼやけていた顔がはっきりと浮かび上がる。そこにいたのは紛れもなく父だった。
「……あ、おとう――」
『パパ、おかえり』
エマの声と伸ばす手を遮るように、幻影のエマが幻影の父に飛びついた。
『おりこうさんにしていたか?』
『うん! てかがみもね、たいせつ、たいせつ、したよ』
『そうか、そうか』
父は小さなエマを抱き上げる。在りし日の二人の愛おしい記憶だ。
「……お父さんだ……。お父さんが、そこにいるよ」
エマは涙を流しながら微笑んだ。
――――――
『エマ、プレゼントだよ』
『なあに?』
父はエマに小さな箱を手渡した。時間をかけながらエマが箱を開けると、中からは赤くて可愛らしい手鏡が出てきた。
『お母さんのを見て欲しいって言っていただろう? 一緒のはなかったけど、エマに似合うものを買ってきたんだ』
『うわあ! すてき、ありがとう、パパ!』
その日からエマは手鏡を肌身離さず持ち歩いていた。一緒に寝ようともしたが、両親から危ないと止められたのでナイトテーブルに置いて、ハンカチのお布団を掛けてあげた。
『……じゃない!』
『……くれ!』
夜、父と母の言い合う声にエマは目を覚ます。
まだ3歳だったエマ。言い合いの内容はわからなかった。でも、父と母の怖い顔を見てそれが喧嘩だと知った。
『……パパ、どこにいくの?』
『お仕事さ』
『帰ってくる?』
『……行ってきます』
父は最後のエマの質問には答えず、小さくて丸い彼女の額にキスをして寂しそうに笑いながら家を出て行った。
その日から父が家に姿を見せることはなくなった。毎晩毎晩玄関で父が帰ってくることを待ったが、誰も扉を開かない。
『ママ、パパはかえってこないの?』
『ええ、他の人を好きになったんだって』
『それって、ダメなの?』
『……っ! ダメに決まっているじゃない!』
初めて母に強い言葉を投げかけられ、エマは怖くて泣いた。
それから約9年後、エマは母の言っていた言葉の意味を理解した。そして父に失望する。だが、忘れることなんてできなかった。
エマが見ていた父は本当の笑顔を浮かべていたからだ。
でも、それも次第に思い出せなくなった。それでいいのだ、と自分に何度も言い聞かせた。
けど、見たい記憶がいつでも見ることのできる『記憶の小瓶』の噂がエマの耳にも入ったのだ。せめて一度だけでも、とエマは母に内緒で探しに出た。
――――――
ふわりと消えていく、父と小さなエマの幻影。
エマの目からはもう涙は止まっていた。
「ありがとう、小さな魔法使いさん。それじゃあ、あたしは帰るわ」
あっさりと立ち上がったエマは割れた手鏡をハンカチで大切そうに包みカゴにいれる。
最後にもう一度ルイにお礼を述べ扉から出ようとしたのだが、彼女はふと何かを思い出したかのように立ち止まった。
「……ねぇ、あのシルクハットの持ち主は?」
「それはお答えできません」
「じゃあ、あたしその持ち主知っているわ。間違いない、お父さんよ。私がお母さんと選んで誕生日に渡したものだもの。間違えるはずない。でも、どうしてここに?」
ルイは彼女の言葉に思い当たる行動を思い出した。
「……もしかして、あの時急いで帰ろうとしたのって……」
「うん。お父さんのシルクハットを見つけたってお母さんに伝えようと思って。でも、あたし失敗するところだったわ。お母さんも嫌いなお父さんのことなんて知りたくないものね。あんな人のことなんて、思い出したくないわ。きっと……」
一転して父を突き放すような言葉を口から次々と出していくエマ。
「どうしてそこまでお父さんを?」
ルイは聞いた。気になったからというのもあるが、彼女が聞いて欲しそうにルイに視線を送っていたからだ。
「あたしたちを裏切ったからよ」
「裏切り?」
「浮気よ、浮気! 他の女の人とこのシルクハットをかぶって歩いていたの! 家族の前でしかかぶっていなかったこのシルクハットを、かぶっていたのよ……」
エマは泣きそうな顔でシルクハットを一瞥すると扉を開く。
「またね。もう会うことはないかもしれないけれど、あなたのことは忘れないわ」
――ランカ、ランカ
扉のベルは人の感情にはお構いなしに一定の音を響かせた。
ご高覧いただき感謝の至りでございます。
歪んだ形の家族が行きつく先とは何だろうか。




