『震える悪魔』①
秋の朝はふたりに等しく光を与える。
空にあるその光はわずかな冷気を帯び、温かいはずなのに、どこか寂しさを感じさせる。しかし、同時にはっきりと夢から覚めるような空気は木々の彩を清かに見せることもある。
サヴォタへ行く、そう決めたカーサスは、そんな秋の朝のようにすっきりとした気持ちで目覚め、朝食をとり、エイカーにその旨を伝えていた。
七日後に、サヴォタへ向かおうと思うと。そして、その準備をしておくように、と。
それから、通いの文官――サミュエルが屋敷にやってきたので、昨日の報告書の答えを返し、進む方向を決める。
これからは、冬支度への準備だ。
「サヴォタを通してセファゾドールの毛織物の買い付けを再開し、ダファーラとして大々的に開始させたい、という旨だったが……」
ダファーラの冬の朝の土は凍り、シャリシャリと音が鳴るらしい。だから、毛織の衣服などを一商人の手腕に任せておくのではなく、大きな事業の一つとして、ダファーラが握る。
大きく仕入れれば、価格を抑えられる利点もある。
中央部にはあまり需要はないのだろうが、この辺りなら確かに需要は見込める。もちろん、サヴォタが今もセファゾドールなら国王の力がいるのだが、今のサヴォタは、エルバーグリーク領だ。そして『デュ』を持つ文官は、持たない文官よりも自由が利く。
そういうところがあるから『デュ』を取り合うのだ。
そして、ここにもサヴォタだ。
それが、カーサスの背を後押ししているようで、気分も良かった。
「昨日町の方を歩いてみたのだ。交易再開を望む者も多い。ダファーラ領主として一度、サヴォタ領主に声をかけてみようと思う。他に何か売り込めそうなものなどはないか?」
その問いかけに、すぐさま彼が言った。
「クエルクス様は、鱒のオイル漬けというものを知っていますか?」
「いや、鰯のオイル漬けは知っているが、それはどういうものなんだ? 同じようなものか?」
サミュエルが気さくな男であることは知っていたが、カーサスが興味を示すと、彼は地元を語ることが最大の幸せかのように話し出した。
その様子は、前領主からなされたサミュエルの、気さくではあるが向上心のないつまらない男という引継ぎとは異なるように思えた。
町の様子も同じく。
表面的な人懐こさと警戒心が深い商人の町。
しかし、実際は、彼らの懐に入りさえすればよく語る。
あぁ、そうか。ルシアが悪魔だと言われていようとも、セファゾドールの娘を娶った俺は、一応信頼されているのか。
だから、セファゾドールにいる自分の身内の心配まで打ち明ける。
そう考えれば、ここの民は心を開いてくれている、と考えてよいのかもしれない。
「クエルクス様、元国境の小山の麓の川で、鱒が獲れるんですよ。春になったら禁漁が解けるんで、ぜひ。あ、でもこの春に妻が漬けたものがまだたくさん残ってるんで、持ってきますよ」
そして、ふと、セファゾドールにも同じものがあるのかが気になった。
「それは、セファゾドールにもあるものなのか?」
「あぁ、その心配はないですよ。あちらは味噌を使うんです。こっちよりもずっと寒冷だからかもしれませんが、確か……胡桃味噌で鱒を漬け込んでいたはずですよ」
サミュエルはカーサスのその問いを、需要の心配と取ったようだ。そして、ルシアはそれを懐かしがるのだろうか、と一瞬でも思ったことには気づかれず、「そうか」と秘かに胸を撫で下ろしていた。
どこか、ルシアに興味を持ち始めていることを、気づかれたくない自分がいるのだ。
それは、きっと、兄に関わること。
ルシアが兄を殺したわけではない。王族が直接兄の死に関わったわけでもない。
むしろ、兄ジョバンニはルシアの兄である第二王子を討ち取った隊にいた。
頭の中で事実を並べたカーサスは、サミュエルに笑顔を向けて「少し出てくる」と言い、執務室を後にした。
玄関までくると、エイカーが忙しさを装いながら、カーサスに挨拶に来た。
「旦那さま、お出かけですか?」
「あぁ、庭へな」
エイカーには言葉少なに応じる。それなのに、エイカーがまた喋り出した。
「まぁ、奥さまをご注意してくださるのですね。奥さまったら、こんなに忙しい中、庭で鳥に餌などを与えているのですよ。旦那さま、やはり奥さまは人間よりも、動物に近くていらっしゃるのです……今など馬と喋って……」
「馬だと!」
カーサスはエイカーの言葉を遮り、自分で玄関の扉を引き開けて、庭を走り出していた。
馬は一頭しかいない。
そう、兄の馬。
アーク。
秋晴れの高く広がる空の遠くに、鈴を転がしたような声がしている。
ルシアの声。
あんなに、軽やかな声を出せるのか。
だが、その馬は、兄の……。
お前の国に殺された、兄の……。
目の前に現れた光景は、馬を手懐けているルシアの景色。カーサスは、切れ切れの息を補うように肺いっぱいに大きく息を吸い、そのまま吐き出した。
「アークに触れるなっ!」
と。
ルシアが凍りついたようにカーサスを見つめた。
驚いたその表情は、深い恐れの中にあるようでいて。
馬を掻いていたブラシが足元に落ち、その両手が胸の前で握られている。
赤く震える唇が、開いた。
震える声が漏れてくる。
「申し訳ありませんでした。勝手なことを……して、しまいました」
と。
カーサスの胸の奥が、ずんと沈んだ。
違うんだ……そう答えようにも、何が違うのかすら分からなかった。ただ、深くお辞儀をしたルシアが、うつむいたまま足早に去っていく姿すら、見留められないくらいカーサスは動揺していたのだ。














