『笑わずの姫』⑥
ギャバンズとの話を終え、長居してしまったことを詫びる頃には、ヤーチェもカーサスの前に現れるようになり、別れの挨拶に参加していた。
「いつでも来てください。この町を共に守る者として、歓迎しております」
「クエルクス様のお好みを教えてくだされば、昼餉も準備して待っておりますから」
夫妻はにこやかに別れの挨拶をし、ヤーチェが黒い瞳をきょろきょろさせながら、その両親の様子をじっと見守る。
カーサスはそんな彼女に身丈を合わせ「また来るからね」と声をかけた。そうすることで、危険のない人間だと知らせておこうと思っての行動だった。
そんなカーサスを見つめるヤーチェの黒い瞳が和らぎ、コクンと頷く彼女に笑みを向けたカーサスが立ち上がろうとした時、大きく息を吸い込んで勢いづいた口のままヤーチェが言葉を発した。
「あたらしい領主様、あのね、領主さまの奥さまは、黒い髪の悪魔なの?」
目を見開いたサーシャが慌てて「こら、なんてことを」とヤーチェを小突き、息を呑むギャバンズが「申し訳ありません」と続けて頭を下げる。
夫婦の行動の意味が最初は分からなかった。
どうしてヤーチェを小突くのか、謝るのか。
カーサスが動けないでいる間に、サーシャは娘をまるでカーサスから守るようにして、抱き上げていた。
しかし、その様子を見たカーサスの心臓が、激しく打ち始める。
……黒い髪の悪魔とは……、
――ルシアのことを指しているのか?
俺は、そんなことで人を罰したりは……。
セファゾドール王家ファゾリナのように、重税を課したりは……。
そして、ルシアが嫁いできた日の狂乱が一瞬閉じた瞼に再現される。
美しい装身具が無惨にも散らばった部屋。
いや、俺自身が、あの娘を悪魔だと思っていたのか? そうだ。思っていたから、こんなに動揺するのだ。
「クエルクス様、この町はセファゾドールに近い場所にありました。その王族が、ここでどのように思われているのか、お分かりでしょう?」
ギャバンズの声が聞こえた。
「えぇ」
この戦争は『聖戦』だった。しかし、それはアレキサンドル王が仕組んだ聖戦。
悪はセファゾドール『王家』とした。
セファゾドールの民と近いこのダファーラでは、きっとファゾリナ王家は、エルバーグリーク中央部よりも『悪』なのだ。
しかし、ルシアは、泣き疲れて眠っていたのだ。同じように失った者に苦しんでいた。
カーサスはしゃがんだまま、もう一度ヤーチェを見上げる。
「いいや。とても美しい人間の姫君だよ。君と同じように、怯えるし泣くんだ」
上手く微笑めていたのかは分からない。しかし、カーサスを見ていたギャバンズの面からは、警戒の色が消えていた。
「だから、怖がらなくていい」
どうして小突かれ、抱き上げられたのか分からないヤーチェは、きょとんとしながら、カーサスを見下ろし、もう一つ、彼にしこりを与えた。
「じゃあ、町の噂は嘘なのね。ヤーチェ、そのお姫さまと同じ黒い髪だから、お友だちに言われるの、嫌だったの」
娘の言葉に、言い募ろうとするギャバンズを押し止めて、カーサスは立ち上がった。
「ヤーチェ、おじさんが悪魔と契約しているように見えるかい?」
「けいやく? けっこんのこと?」
おそらく、カーサスの使った契約の意味が分からなかったのだろう。
首を傾げたままのヤーチェは言葉を繰り返した後「みえなーい」と笑った。
カーサスは微笑みを繕いながら、ギャバンズ家を後にし、やはり町を眺めながら帰ってきた。町の者は相変わらず賑やかで、遅い昼餉を呼び込む声や、仕事に戻る声に溢れていた。
活気があり、国で働くような者が少ないおかげで、境界のない民たちが多く住む町なのだ。
しかし、往路に比べると、その景色は重く感じられる。
カーサスの屋敷はそんな町をずっと進んでいき、やや中央寄りの場所にある。そして、町の反対側には農村部があり、酪農をしたり、豆小麦などが育てられたりしている。
おそらくあのミルクもそこにある酪農家のものだ。
民の家々がなくなり始めると、ポプラ並木が現れて、カーサスの屋敷が現れる。
見上げた先にあるポプラは、既に色づき始めている。しかし、あの日、まだまだ青かった並木道を、着飾らされたルシアは馬車に揺られ、ひとりここに来たのだ。
「お帰りなさいませ、旦那さま。もうすぐ見頃ですね」
町を歩きながら帰ってきたカーサスに一番先に声をかけるのは、そのアレキサンドル王から遣わされている門兵のひとりだ。薄茶色の髪を持つカーサスよりもさらに明るく赤に近い髪に、明るい表情。
その人懐っこそうな笑い方を見る限り、カーサスよりも少し年は下かもしれない。
「あぁ、帰った。屋敷の様子は?」
なんの偏見もない様子の彼は、エイカーよりも信用出来る。
「王妃様の使者が来たこと以外、特に大きなことはないと思われます」
「そうか。予定通り来られたのだな。ご苦労」
敬礼をし、カーサスを見送る。
この男も本当はカーサスの無事のための兵ではないのかもしれない。
ルシアを、逃がさないようにするための者かもしれない。
使者を使い手紙を寄こすこと自体、ルシアの存在を確かめさせているだけかもしれない。
そして、屋敷の扉を開くと、エイカーが小間使いを連れてやってくる。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
その声には無言で頷き、小間使い数人を引き連れるエイカーに上着を持たせたカーサスは、執務室へ入った。
暖炉に火が入れてあった。
「これは?」
「これは、奥さ……いえエイカー様が旦那さまに寒い思いはさせないようにと、部屋を暖かくしてお待ちしておりました」
小間使いからふと零れた言葉に、カーサスはエイカーを眺めた。
どちらでも良いことだ。ただ、エイカーは、このアレキサンドル陛下方面での心配はないため、気を付ける必要がないのは気楽かもしれない。
しかし、本当にどうしてエイカーはこんなにも認められたがるのだろう。カーサスはそれが不思議でいて、それを文官気性に重ねていた。
国に勤める者は『デュ』の称号のために、手柄を取り合う。
同じようなものか……。
「そうか。ありがたいよ」
エイカーに言ったわけでもないのに、エイカーが嬉しそうに胸を張っていた。
カーサスはダファーラ出身の通いの文官であるサミュエルが机の上に置いていっただろう報告書の束の中から、ルシアのものを見つけ、手に取った。
『エルバーグリーク王妃殿下より使者あり。息災にしていることを伝えております』
たった一行の報告だが、添えられていた手紙の内容からもそのようにしか答えなかったのだろう。そして、その文書から目線を上げると、まだエイカーが控えていた。
そうか。下がらせるのを忘れていた。
「エイカー、今日は冷え込む。温かいスープを用意してくれ」
「はい、旦那さま。さっそく調理の者へ伝えさせていただきます」
やはり嬉しそうにするエイカーにカーサスが付け加える。
「ルシアにも同じものを」
面白いように彼女の顔が曇った。本当にどう育てばこんなにも主従を弁えずに働けるのだろう。
その夜、ベッドに横になっていたカーサスは手元灯りの下、ヤーチェの言葉を考えていた。
『領主さまの奥さまは、黒い髪の悪魔なの?』
黒い髪の悪魔……。
確かに重税はあっただろう。民もそれで苦しんでいたのだろう。
王族を打ち取ったことで英雄が生まれたのだろう。だが、王族だけが悪かったのかといえば、それは違う。カーサスはいつしか、エルバーグリークに準えて考えていた。
王が本当に間違っているのなら、文官が指摘する。それに耳を貸さずとも、王の側近たちが、反発する。正常な国でまずあるのは、民の反乱ではない。
王城内での内乱だ。
そして、その内乱はあと数年待てば起きたかもしれないのだ。
あの城跡の整理に関わった者たちの噂に聞けば、王太子が体制を整える準備も、確かにあったそうだ。
セファゾドール王族の親類縁者がアレキサンドルの信用のおける者の監視下にあるのも、この噂が理由だろう。
だから、ルシアはじめ、なぜ奴らを生かしたのか、それだけが、カーサスには疑問なのだ。
しかし、内乱が起きる前に、それを利用したのも、アレキサンドルだった。
カーサスの脳裏にアレキサンドルのしたり顔が過る。
アレキサンドルは、さらに北にあるフィドガルからの『護りの壁』としてセファゾドールを従属国にしたかった。
自国を犠牲にすることなく、都合よく使える裏切らない防壁として。
もちろん、カーサス自身は与り知らぬことだった。しかし、比較的近い場所でそれを見ていた父が言ったのだ。
「表向きは仲睦まじく、陛下はそう仰っておられたが、はじめは望んでいなかったという形を、お前はとるべきだ。それがお前を守ることになる」と。
あの日、カーサスがルシアの花嫁衣裳と並ぶ時間すら取らなかった理由もここにあった。
だが、カーサスが思うすべては、様々を並べた結果の推測でしかない。
悪魔がいるのだとすれば、本来はエルバーグリークの方だ。
あのお方が悪魔なのだ。そうだ、カーサスは正しく悪魔と契約している。
そして、思った。
セファゾドールとはどのような国だったのだろうと。
ルシアが生まれ育った国は、悪魔の国だったのだろうか、と。
仰向けになっていた体を横に戻す。揺らめく蝋燭の火が、カーサスにも揺らめきを与える。悪魔と噂されるルシア個人は、傲慢でも虚栄心の塊でも、ない。
今もその国の雰囲気を残しているだろうサヴォタへ行けば分かるのだろうか。
それに、久しぶりに兄の忘れ形見である愛馬、アークに乗ればこの不穏な気持ちも治まるかもしれない、そんな思いを胸に、手元の燭台の灯を消した。
『笑わずの姫』了














