『そしてふたりは』②
この状況がルシアにはよく分からなかった。
町を抜け、小山に向かって平原を駆ける。晩秋の風がルシアの頬を撫でるように吹き抜けていくが、寒さは感じない。
それは、ルシアがこの寒さに慣れているからではなく、カーサスの腕がそこにあるからで、その背は彼の胸の中にあるからで。
そして、ルシアの胸は怯えでも高揚でもなく、ただ打ち鳴らされていて、その鼓動がルシアに不安を覚えさせるのだ。
だから、彼女はその腕の中で食べ物のかごを落とさないようにただじっとしていた。
じっとすることで、自分を守るような。
しかし、何から自分を守ろうとしているのか、それすらも分からない。
理由を付けようとしては、ルシアの中で『それは違う』と声がする。
カーサスが『よく来た』と言った際は、勝手にアークに触れていた時を思い出し、怖かった。だからこそ、アークに乗るだなんて滅相もないと思った。
誰の馬なのか、それは教えてもらっていないルシアだが、普段、声を荒げるような真似をしないカーサスがあれほど声を荒げたのだ。
――きっと、わたしが触れてはいけないもの。
それだけが、ルシアの中の揺るがない真実だったのだ。
それなのに、今、そのアークに乗り、カーサスに包まれるようにして馬の揺れを感じているのだ。
それが、怖いと感じる。
こうして馬に乗ることは、はじめてではないのに。
ちぃ兄さまにも乗せてもらったことがある。兄さまにも乗せてもらったことがある。
大兄さまにも。
いつでもこの揺れはとても楽しく、不安など感じたことはなかったのに。
何が違うのか。
スピードだろうか。
小山までの距離を走らせるため、馬は駆け足である。
並足だったら……。
だけど、屋敷の門まではもっとゆっくりとアークは歩いていた。
その時も同じような不安があった。
その不安に名前を付けようとさまざまを思い浮かべるが、やはり全ての候補が異を唱えるのだ。
そんな不安を抱えたまま、アークは無事に小山の麓に広がる森にたどり着いた。カーサスが言っていた通り、木々が赤や黄色の装いに変わっている。
普段なら『綺麗』だと感想を述べることもできただろうが、今のルシアには ただ紅葉が始まったのは本当だったのね、と思うだけが精一杯で、まったく言葉が出てこなかったのだ。
馬の軽い嘶きがして、アークが完全に止まったことが分かる。
そして、カーサスがアークから降りると、手を伸ばしてきた。
あ、食べ物のかご。
そう思って、そのかごを渡すと、なぜか不思議な顔を返されて、ふたたび両手を差し出された。既に食べ物のかごは、彼の足元にある。
恐る恐るその両手に自分の手を乗せると、その大きな手がしっかりとルシアを掴んでいた。
そして、ルシアの足がちゃんと着地するまで、手を離すことなく、丁寧に下ろされ、気遣われた。
「疲れはないか?」
疲れたとは思えない。いや、疲れているのかもしれない。だけど「大丈夫です」と答える。そんなことすらよく分からないルシアが唯一分かること。それは、食べ物のかごだけは自分が持っていたいということだった。
いつもと違う、そんなカーサスが分からず、ルシアはただ縋りたいと思う気持ちから、パンと果物が入ったかごだけは、カーサスから奪うようにして自分の腕にかけていた。
一瞬だけ、カーサスの茶色い瞳が寂しそうに揺れたように思えたが、すぐにアークを労うようにこう言った。
「少し待っててくれよ」
アークを木に繋ぐカーサスの声は穏やかで、その声のままルシアに言葉を繋いだ。
「心配ない。そんなに遠くには行かないし、アークは賢い馬だから」
そんなに心配そうな顔をしていたのだろうか……。
ルシアは、かごを持たない片方の手で、自分の頬に触れていた。
カーサスとふたりで森の中歩き、小山の方へ少し向かうと、水が流れる音が聞こえてきた。小川が流れれているのだ。この川はセファゾドールへも向かう川であり、こちらがほんの少し上流になっているのだろう場所で、ふたりは立ち止まる。
歩く先だけを見つめて歩いていたルシアは、視線のやり場に困り、かごを持つ自分の手を見つめていた。
見つめてどうなるわけでもないのに、自分がちゃんとかごを持てていることを知っておきたかったのだろう。
しかし、そんな川に視線をやったカーサスが、「綺麗だ」と呟いた。
ずっと自分の持つかごを見つめていたルシアも、その声に自然と視線が上がった。
木々の彩りを映しながらも、白い泡を立てて流れる気性の激しそうな川だった。
カーサスが示す綺麗がどこを指しているのか、分からなかったが、ルシアも頷く。
ルシアがその川を眺めたことを確かめたカーサスが、ふたたび歩き出してしまった。ルシアには彼がどこへ向かうのかが全く分からず、その後を追いかける。
ただ、いつもは淡々とすべてをこなすカーサスが、どこかぎこちないとだけ感じているだけで。ルシアは、彼に付いて行くしか、道はない。
そう、食事係だから……。
そう、だからお食事の入ったこのかごが心配なの。
そんな風に自分の行動に意味を付けながら。
歩いていると、足元から落ち葉を踏みしめる音以外の、パキっという音が聞こえてきた。
小枝を踏んでしまったのだ。
「あっ……」
予想以上に大きな音を立ててしまったルシアが、思わず立ち止まり、カーサスを眺めると、カーサスが心配そうに振り返ったところだった。
「すみません。小枝を踏んでしまったようで」
「いや……慣れない道を歩かせてしまった私が悪い」
そう言って戻ってきたカーサスが、唐突にルシアの手を引き歩き出した。
遅いと思われたのだろうか……。
そんなルシアの心配を余所に、カーサスはどんどん森の奥へと進んでいった。そして、少し拓けた場所にたどり着くと、急に場所の説明をした。
「この辺りは、木こりもよく入ってくる場所らしい。だから、あの切り株に座って待っていてくれ」
「はい」と返事をし、言われるまま切り株に座るルシアを確かめた後、カーサスが黒い地肌が見えるまで落ち葉をよけ始め、大地に不思議な空間を作った。
ルシアは不思議な『夫』をただ眺めて待つ。
ルシアから見たカーサスはずっと不思議だった。
空間を作ったかと思えば、落ちている小枝を選び始め、ルシアの傍に貯めていく。
何を基準なのか分からないが、長さはまちまちで、太すぎないものを選んでいるようだ。
不思議な収集癖をお持ちなのかしら……。
ルシアも幼い頃、地面に落ちている綺麗な小石を集めたことがあるから、それと同じような気がしてしまうが、ルシア自身その小枝が美しいとも綺麗とも思えなかった。
そして、枝をその空間に組み上げたカーサスは、枯れ果てた落ち葉を入れると、肩から掛けていた鞄から黒い石と何か少し黒ずんだ金属、それと麻布らしきものを取り出した。
「少しだけ待っていてほしい」
「はい」
ルシアはただ返事をした。
それなのに、カーサスは満足そうに微笑み、今度はその石と金属を麻布に向かって打ち始めた。
打ち付けられた石と鉄が、麻布に何度も火花を落とす。
打ち付けるその音が、数回。麻布が燃え始めた。ルシアは思わず「えっ」と言葉を漏らしてしまった。
「初めて見るのか?」
「はい。とても不思議です」
偽りなく驚くルシアのそんな表情に、カーサスはやはり満足そうに微笑んだ。
※ ※ ※
こうして見ると、ルシアはやはり王女だったのだな、とカーサスは思わざるを得ない。
カーサスはそんな風に思う。
屋敷でも、火を熾す場面など使用人しか見ることはないだろう。そして、今度は自分の鞄から錬鉄のポットを出した。
ずいぶんと使い込んできた一人用のポットだが、短時間過ごすくらいなら、このくらいの湯沸かしで十分だろう。そんな風に思って持ってきたものだ。
「川の水を汲んでくるから、火の番を頼むよ」
まだ幼い子どものように、不思議な焚き火を見つめているルシアにカーサスは言い残して、川の音が聞こえる方向へ歩いて行った。




