34:異国の本
残暑も和らぎ過ごしやすくなってきた頃。その日はしとしとと雨が降っていて、静かだった。
いつも通りの指定席に腰掛けたまま、真利はマグカップに口を付ける。カップの中で揺れているのは、温かな紅茶。少し、渋く出てしまっている。けれどもスパイシーなシナモンの香りとよく合っていた。
雨が降っているから、今日は余りお客さんが入らないかも知れない。そう思いながらゆっくりと紅茶を楽しむ。
カップのお茶が空になり、ポットのお茶も空になり、暫く経った頃。ふと不思議な気配を感じて真利が入り口に目をやると、静かに扉を開いてひとりの男性が入ってきた。煉瓦色の髪を前髪だけ上にあげて結い、紬の着物と袴を着て、手に持ったパゴタ傘を畳んでいる。
「いらっしゃいませ」
真利がそう挨拶をすると、彼はにこりと笑って店内を見始めた。木箱に入った博物画、茶ずんだガラスのプレパラート、星座早見盤、古いノベルティカード、それから、ホーリーカードを見てくすりと笑った。
「なるほど、こんなのがあるんだ」
確かに、海外のホーリーカードというのは、珍しい物かも知れない。そう思いながら真利は男性の様子を見ている。
ホーリーカードを棚の上に戻した彼は、今度は立てかけられている古本に手を伸ばした。手に取った赤い布張りの本には金色の箔でタイトルが押されている。マザーグースを集めた本だ。
「へぇ、なかなかに面白いことが書いてある」
ページを捲ってそう言う男性が、ふと真利の方を向いて訊ねた。
「ところで、この本って何語なんでしょうか」
「その本でございますか? ブリティッシュイングリッシュでございます」
内容が読めている様子だったけれども、気のせいだったのだろうか。不思議に思っていると、男性が納得した様に言う。
「ああ、ありがとうございます。
読めるけど、何語かはわからないんですよね」
「そうなのですか?」
一体どう言うことだろう。真利の疑問を察したのか、男性がぱたりと本を閉じて言葉を続けた。
「言霊さえわかれば、何とかなるので」
「えっと、はい」
これは答えなのだろうか。言霊さえわかればと言うのは、なんとなくの雰囲気で読むことが出来ると言う事なのだろうか。もしそうなのだとしたら、彼は余程語学が堪能なのだろう。どの言葉がなんなのかがわからなくても、不自由が無いほどに。
「もしかして、学者さんなのでしょうか?」
真利がそう訊ねると、男性はにやりと笑って答える。
「どうでしょうね。でも、近い物は有るかも知れません」
どうにもはぐらかされてしまう。真利はつい苦笑いを浮かべてしまう。
男性が古書を二冊と、ホーリーカードを一枚手に取って、真利の元に来た。
「これをお願いします。
このカードだけ別の袋に入れてくれると助かります」
「かしこまりました、ありがとうございます。
では、先にお会計を失礼します」
真利は電卓に合計金額を打ち込み、男性に提示する。男性が会計の準備をして居る間に、真利はホーリーカードをクラフト紙の袋に入れ、『C』の文字が入った封蝋風のシールで留める。それから、古書二冊にそれぞれクラフト紙でブックカバーを掛ける。それらを、赤い紙袋に入れた。
会計を済ませ紙袋を渡しながら、真利が男性に言う。
「ありがとうございます。
ところで、この後お時間が許すようでしたら、お茶を一杯如何ですか?」
男性は少し驚いた顔をしてから、にこりと笑って答える。
「時間はたっぷり有るので、いただいていきます。
どんなお茶でしょうか?」
真利はレジカウンターの裏から木製の折りたたみ椅子を出しながら答える。
「そうですね、これからまた淹れるので、ある程度ご希望は承れます。
紅茶か、中国茶かと言った感じですけれど」
随分とふんわりとした提示だけれども、余り細かく挙げてもお茶に詳しく無い相手だった場合、逆に選びづらくなるだろう。だから、真利は大雑把に分けてこう言った。
男性は少し迷う様子を見せた後、思いついたように言う。
「それじゃあ、今丁度オータムナルが入る頃でしょう。ダージリンのオータムナルはありますか?」
「ダージリンのオータムナルですね。かしこまりました」
真利は男性に椅子を勧めてから、ティーポットを持ってバックヤードへと行く。中に入っていた茶葉を捨て、軽く洗ってからよく拭いて、店内へと戻る。レジカウンターの裏にある棚には、色々な茶葉が入っている。ダージリンのオータムナルは、先日藤沢の紅茶専門店に行ったときに丁度買ってきてあった。
真利は透明なパックに入った茶葉を銀色のティースプーンでティーポットに入れながら、男性に話しかける。
「ジュンパナ茶園のお茶は、召し上がったことはありますか?」
「ジュンパナ? キャッスルトンは有名だけれど、初めて聞きますね」
「キャッスルトンも有名ですが、ジュンパナ茶園の物も美味しいですよ」
「そうなんですか、楽しみですね」
話をしながら、ティーポットにお湯を入れ、蓋をして蒸らす。その間に、棚の中からカップを出す。男性用に用意したのは、蓮の花が描かれたカップだ。それから少し待って、蒸らした紅茶をふたつのカップに注ぐ。少し渋みのある、素朴な香りが湯気と共に立った。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
真利がカップを男性に渡すと、男性は軽く礼をいってカップに口を付ける。それから、真利に訊ねた。
「ところで、あなたの名前を伺っても良いですか?」
興味深そうに真利を見る男性に、真利は一礼をして答える。
「真利と申します。
よろしければ、お客様のお名前もお聞かせ願えますか?」
「僕は思金と言います」
「思金さんですか。以後お見知りおきを。
このお店はお気に召していただけましたか?」
真利の問いに、男性はにこりと笑って答える。
「そうですね、こう言った日本国以外の過去の知識が置かれた店は好きです。
それと、僕は博識な人も好きです」
それを聞いて、真利は照れたように笑う。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
真利もいつもの赤い椅子に座り、お茶を飲む。外から聞こえてくる雨音を聞きながら、暫しふたりでお茶を楽しんだ。




