第1話「俺の神対応、何だったんだろう」
神崎歩がカスタマーサポート部に配属されてから、ちょうど三ヶ月が経った。
特に何もしていない三ヶ月だった、と本人は思っている。
クレームの電話を受け、マニュアルを見ながら回答し、難しいやつは「少々お待ちください」と言って保留にして、隣の席の室田遥先輩に「どうすればいいですか」とメモを渡す。遥が赤ペンでメモに返事を書いてくれる。歩がそれを読み上げる。お客さんが「わかりました」と言う。歩が「ありがとうございました」と言う。電話が切れる。
以上。
それの繰り返しだった三ヶ月である。
だから今日、田所係長に「神崎、お前の対応力、なかなかすごいぞ」と言われたとき、歩は三秒ほど固まった。
「……俺、ですか」
「そうだよ。先週の山田電機の件、お前が丸く収めたんだろ? あれ、かなりこじれてたやつじゃないか」
「あー……」
歩は記憶を辿った。山田電機。確かにあった。三十分以上、お客さんが怒鳴り続けて、歩は正直パニックで、ずっと遥先輩にメモを渡し続けて、遥先輩の書いてくれた言葉をそのまま読み上げ続けた。最終的に「承知しました。その方向で上の者と協議いたします」と言ったら、なぜかお客さんが「わかった、頼む」と言って電話を切った。
あれは先輩が全部書いてくれたやつだ、と歩は思った。
「えっと、あれは先輩が——」
「謙遜するな」と田所係長が笑った。「室田さんもお前のこと褒めてたぞ。よく頑張ってるって」
歩は隣の席を見た。遥先輩はパソコンのモニターをまっすぐ見つめていて、こちらを一切見なかった。キーボードを叩く指が、わずかに速くなったように見えた。
「……そうなんですか」
「新人でここまでできるやつ、珍しいよ。このまま続けてくれよな」
係長が去って、歩はもう一度隣を見た。遥先輩はまだモニターを見ている。
「先輩」
「なに」
「俺、何かしましたっけ」
遥先輩はキーボードを叩く手を止めて、少しだけこちらを向いた。眼鏡の奥の目が、何かを測るみたいに細くなった。
「……何でもない」
それだけ言って、また正面を向いた。
歩はしばらく「何でもない」の意味を考えたが、わからなかった。
そのとき、歩のパソコンに社内メールの通知が届いた。
差出人:田所係長。件名:「神崎くんの件、部長に報告します」。
隣から、かすかに「あ」という声が聞こえた気がした。
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話は三日前に遡る。
あの山田電機の対応が終わった直後、遥は自分のデスクで深呼吸を三回した。
電話の保留中、歩から渡されてくるメモに赤ペンで返答を書き続けるというのは、端から見れば「何か書いてる人」にしか見えない。実際そうだ。だから誰も気づかない。保留のたびに歩がメモを渡してきて、遥がそれに回答を書いて返して、歩がそれを読み上げる——という連携が、席が隣というだけで成立してしまっている。
最初は「ちょっと助けてあげよう」だった。
新人なんだから当然、と思った。自分も最初は先輩に助けてもらった。
問題は、助けた件が「神崎くんが上手く対応した件」として記録に残ってしまったことだ。
遥が「あれは私が書いた回答です」と言えばいいだけの話だが、そのタイミングで部長に「室田さんが神崎くんを指導してるんだって?」と声をかけられた。
「は、はあ」と答えたら、「そういう姿勢が大事だよ」と褒められた。
そこで「実は違います」と言えなかった自分が悪い。
言えなかった理由はシンプルで、その一週間前に「後輩の育成には積極的に関わります」と部長面談で宣言してしまっていたからだ。有言実行のふりをしてしまった形になっている。
だから遥は訂正できない。
山田電機の件も、その前の鈴木商事の件も、その前の長田クリニックの件も、全部「神崎歩が丸く収めた」という形で積み上がっていく。
遥がやったこと:隣でメモに回答を書いた。
世間(社内)の認識:神崎歩、天才。
「……どうしてこうなった」
遥は誰にも聞こえないように呟いて、新しいメモ用紙を引き出しから出した。
明日も歩はクレームの電話を受ける。明日も保留のたびにメモを渡してくる。明日も遥は回答を書く。
やめればいい、と頭ではわかっている。でも書かないと歩が詰まる。歩が詰まるとお客さんが余計に怒る。余計に怒ると遥が後で後処理をしなければならなくなる。後処理をしながら「最初から書けばよかった」と後悔する。
だから書く。書き続ける。
隣の席の新人は今日も「なんか係長に褒められました、なんでですかね」とのんきな顔で言っている。
遥は「さあね」と言った。
本当のことを言う気は、今のところ、ない。




