選択の余白
問題は,大きな音を立ててやって来るとは限らない.
むしろ,静かな顔をして忍び寄ることのほうが多い.
王都西区の旧給水路.
かつては生活を支えていた魔導設備だが,
今では補助的に使われるだけの,半ば忘れられた区画だった.
「……水位,安定しています」
「結界反応も,問題なし」
報告が次々と上がる.
現場は,整っている.
整いすぎている,と言ってもいい.
リリーは,その違和感に気づいた.
(……静かすぎる)
音ではない.
数値でもない.
流れだ.
魔力と,人の動きが,噛み合いすぎている.
「このまま進めても,大丈夫でしょうか」
問いは,副団長ではなく,
現場責任者に向けられた.
最近のリリーは,
「確認」を挟む位置に自然と立っている.
「問題はないはずだ」
「想定通りに進んでいる」
その言葉に,リリーは頷いた.
だが,足は止まったままだった.
「……一つだけ,
余白を残してもいいでしょうか」
「余白?」
「はい」
「完全に整えず,
調整可能な部分を」
説明は,短い.
だが,意図ははっきりしている.
「何か起きると?」
「起きないかもしれません」
「ですが,
起きたときに,
戻れる場所がありません」
現場責任者は,少し考えた.
そして,ため息をつく.
「……団長がいたら,
同じことを言ったかもしれんな」
その一言で,
判断は決まった.
「よし」
「余白を残す」
作業が進む.
完全な安定ではなく,
“動かせる安定”.
数分後,
魔力の流れが一瞬だけ乱れた.
ほんのわずかだが,
余白を残していなければ,
連鎖的に崩れていた可能性が高い.
「……今の」
「想定内です」
リリーは,静かに答えた.
補助魔法は,発動していない.
だが,判断が場を救っている.
その報告は,
簡潔な形で王城にも上がった.
同日の夕方,
学舎の資料室.
リリーは,いつもの席にいた.
「今日は,余白の日でしたね」
声に,驚かなくなっている自分に気づく.
セシリオだった.
「……見ていらしたのですか」
「ええ」
「私は,
“起きなかった事故”を見るのが仕事です」
冗談めかした言い方だが,
内容は正確だった.
「完璧に整えるより」
「逃げ道を残す」
「いい判断でした」
「ありがとうございます」
素直に受け取る.
以前なら,
団長の言葉でなければ,
こうはならなかったかもしれない.
「最近」
セシリオは,椅子に腰を下ろす.
「あなたは,
自分で“止まる”ことが増えましたね」
「……止まる?」
「ええ」
「前は,
誰かのために,
最後まで整えてしまっていた」
リリーは,少し考える.
「今は」
「途中で,
考えるようになりました」
「それは,
とても面倒な変化です」
「……悪い意味でしょうか」
「いいえ」
セシリオは,すぐに首を振る.
「世界にとっては,
ありがたい」
「あなたにとっては,
少し重たい」
その言い方に,
リリーは小さく笑った.
「確かに,
少しだけ」
「でしょう」
「考えなくていい人は,
考えないで済む位置にいる」
それは,
団長の立場を指している.
だが,責める調子ではない.
「団長が戻れば」
セシリオは続ける.
「あなたは,
また楽になる」
「……はい」
即答だった.
その答えに,
彼は少しだけ目を細める.
「ですが」
「今のあなたを,
手放す必要はありません」
リリーは,返事をしなかった.
胸の奥で,
二つの感情が並んでいる.
安心と,
不安.
「選ばなくていい」
セシリオは,軽い調子で言う.
「今は,
両方持っていて構いません」
「……そんなことが,
できるのでしょうか」
「ええ」
彼は,肩をすくめる.
「私は,
ずっとそうしてきました」
それが,
強がりなのか,
本音なのかは,分からない.
ただ,
その言葉に,
リリーは少し救われた.
ガレオンは,まだ戻らない.
だが,
世界は,彼の不在を埋める形を覚え始めている.
その中心に,
自分がいることを,
リリーは,はっきり自覚していた.
補助魔法は,
前に出ない.
だが,
選択の余白を作ることはできる.
そして今,
その余白に,
誰の言葉を置くのか.
リリーは,
まだ決めていなかった.




