降り立ったのは温泉地・2
(ここ……どこなんでしょう)
見たことがない景色が、ロザリーの目の前に広がっていた。
にぎやかな街だ。街全体が独特の匂いに包まれていて、まるで酔ってでもいるように街の人は機嫌良さそうに働いている。
ロザリーはその街の宿屋の入り口にいた。ちょこんと座って、宿屋に入る人をじっと見つめている。
お客は彼女を見つけると、柔らかく微笑んだり、頭を撫でたり、ぎょっと体を後ずさりさせる人もいる。
(どうして私、こんなところにいるのでしょう? それに……)
あまりに違和感があり、ロザリーはそれがなぜなのか考えた。ふと気づいたことは、いつもよりも視線が低いことだ。通りすがる人の足が目の高さだなんて、小さい子供のようではないか。
それに、こんな町中に令嬢であるロザリーがひとりでいることもおかしいのだ。
「……ワン」
つぶやいた言葉が、人のそれではないことに驚いて、ロザリーは目を見張る。
(え? え? どういうことですか?)
視線を足元にずらすと、見えるのは、獣のものと思われるベージュの毛並みの足だ。
前へ動かそうと思うと動く。上に持ち上げてみる。地面に何度か足踏みをする。
ロザリーの意思通りに動くそれは、彼女の体ということになる。
(えええええー! どうして? わ、私、犬になってますー!)
焦るロザリーのもとへ、手に野菜の入った籠を抱えた年配の女性がやって来る。
『リル、今日も元気かい?』
さらりと頭を撫で、裏口から宿屋へと入っていく。
(リル……? 名前? 私の?)
疑問に思っているうちに、今度は茶色の髪の少年がやってきて、自分に手を差し伸べてくれる。
『リル、今日は旦那忙しいって、俺が散歩に連れて行ってやるよ』
(散歩って……完全に犬じゃないですか)
だけど、心は勝手に嬉しいと思ってしまう。お尻のあたりがムズムズするのが気になってちらりと後ろを見ると、自分の尻尾がバッサバッサと元気よく揺れていた。
少年は『さあ、行くよ』と歩き出す。
動いてもいいのか、とようやく気が付いて、リルは歩き出した。
四つ足での移動に、頭の中では変な感じがするが、体のほうは自然に動いている。風の動きが全身で感じられて、とても気持ちがよかった。尻尾も軽快に揺れている。
『リル、急に走ったらだめだよ』
少年が追い付いてきて、隣を歩く。
見知らぬ人、見知らぬ街。ロザリーが暮らした男爵領の景色とは違う。なのにすべてが懐かしい。
自分のもののようなそうでないような、曖昧な感覚だ。
(犬として散歩してるなんて変な感じです。でも私はロザリーですもん。これはきっと夢なんだわ)
自覚すると同時に、景色がふっと変わる。
場所は男爵邸の庭。そこに咲く名前も知らない白く小さな花を摘んで、ロザリーは父のもとに急いだ。今よりも幼い日のロザリーだ。
『やあ、ロザリー可愛らしい花だね』
抱き上げられた自分は、ちゃんと人間の女の子に戻っていた。
ロザリーがホッとして息をついた同時に、母はあきれたような顔をして、『そんなことをしてはドレスが汚れますよ』と苦言を呈した。
『琥珀色の美しい目が映えるようにと、せっかく青紫のドレスを仕立てたのに』
(あれ、目の色を褒めてくれた人は、他にもいたような……)
そう思った途端、また景色が変わる。先ほど散歩に連れて行ってくれた少年が、『リルの瞳は綺麗だなぁ』と笑った。
二つの記憶が、どんどん混ざり合ってくる。それはやがて中心に向かって回転し始め、脳内の画像は引き延ばされ、ただのマーブル模様と化してくる。
頭がぐらぐらして、ロザリーはめまいに似た感覚に襲われた。回転が速くなるに従い、馬車に酔ったときのような吐き気を感じ始める。
(どうしましょう。気持ち悪い。誰か……)
「……誰か、助けてください!」
叫んだと同時に、ロザリーは長らく閉じたままだった瞼を開いた。
最初に見えたのは、茶色でダマスク柄が描かれた天井だ。ガラスで作られたシャンデリアが、部屋の中を照らしている。肩で息をしながらロザリーはあたりを見回した。
汗のせいで夜着が肌に張り付いている。服をぱたぱたと引っ張ることで、火照った肌に空気を送った。
(それにしても……ここはどこでしょう)
ロザリーは一見で判断することができなかった。
先ほどの夢のせいで、頭の中がごちゃごちゃになっている。見たこともないはずの景色が脳内にこびりついて離れない。ただ漂ってくる匂いに、眉をしかめた。
「なんか……匂います」
鼻をすんすんと動かすと、いろいろな匂いが判別できた。
今いるベッドを包むリネンの匂い、階下から漂うスープの香り、そして年配の人間の匂いがする。いわゆる加齢臭というものだ。
(でもうちにそんな年齢の人はいないはずだし……)
ゆっくりあたりを見回して、壁に飾られた家族の肖像画を見つけたロザリーは、ようやくこの場所がどこなのか思い当たった。
「そっか。おじい様のお屋敷ですね」
祖父は五年前に隠居すると言い、本邸から二キロ程離れた土地にこの屋敷を建てて暮らし始めた。
当時は祖母も生きていて、ふたりは夫婦だけの暮らしを満喫していたはずだ。その祖母は、二年前に亡くなっていたけれど。
やがて、扉をノックする音が聞こえた。もとから返事を期待していないのか、ロザリーが声を出す前に扉が開く。
入ってきたのは長らくこの屋敷に仕える執事だ。眼鏡をかけた五十代の執事は、起き上がったロザリーを見るなり、自らの正気を疑うように頬をたたき、恐る恐る問いかけた。
「……ロザリンド様?」
「はい」
「お目覚めになられたのですか?」
「は、はい?」
なぜ驚かれるのかも分からずに返事をすると、執事は大慌てで「旦那様ー!」と声を張り上げて出ていった。
呆気にとられたまま、とりあえず起きようとしたが、体が痛くてうまく動けない。
そのうちに祖父が入ってきて、目覚めたロザリーのもとへ駆け寄ってくる。
(あれ、なんか、おじい様の匂いが……)
老人特有の匂いに、ロザリーは思わず顔をしかめる。祖父とはつい三ヶ月ほど前にも会ったが、その時はこんなに気にならなかったのに。
(く……臭いです。なんでこんなに加齢臭が強いのですか。おじい様にいったい何があったのでしょう)
「目覚めたのか、ロザリー。良かった……」
ロザリーの内心になど気づかぬように、祖父である前ルイス男爵エイブラムは彼女を痛ましそうに見つめた。
祖父が近づくにつれて強くなる匂いに眉を顰めたくなるが、神妙な祖父を前にそう思うことにも罪悪感がある。そのせいなのか、祖父に対していつものような親しみあふれる感覚は湧いてこなかった。
この人は祖父であるという認識はあるものの、感情は全くついてこず、むしろ匂いによる不快感のほうが強い。
改めて祖父を見つめれば、父親とよく似た顔だ。目もとと口もとにはしわが寄っていて、昔は豊かだった金髪はやや薄くなっている。それに関しても何の感慨も湧かない。
(……なんか、変。たしかにおじい様なのに、なんだか知らない人に会ったときみたいです)
心が、感情がついてこない。分かるのは“この人は自分の祖父である”という事実だけ。
「お、じい様」
ロザリーがかすれた声で呼ぶと、エイブラムは表情をやわらげ、ロザリーの前髪をそっとかきあげた。
「事故に遭ったんだ。覚えているか?」
「事故?」
記憶は全くなかった。けれど、そう言われて体が痛む理由が分かった。
針で刺されたような痛みが頭に走り、記憶がほんの僅か零れ落ちる。
「馬車で……そうです。劇を見た帰りに」
「そうだ。並走していた二台の馬車が、暴走した挙句に衝突したんだ。横転したほうに乗っていたのがお前たち一家で……」
エイブラムはそこで一度言葉をきり、潤んだ目を隠すように手をかざした。
「ダドリーとアデラ……お前の両親は亡くなった」
「……え?」
「ダドリーはお前を守るように抱いていたよ。アデラさんもな。お前が全身打撲だけで済んだのは、両親のおかげだ」
「死んだ……?」
ロザリーの脳裏に、父母の顔が浮かんだ。
けれど、祖父に感じるのと同じように、それだけだ。
“父母が死んだ”という事実だけが文字のように認識されただけで、悲しいという感情は湧いてこなかった。