降り立ったのは温泉地・1
ロザリンド=ルイスことロザリーは乗合馬車の中で鼻をクンクンとさせ、近づいてくる温泉地独特の匂いに確信する。
(間違いないです! きっとこの街です!)
そう思ったら、お尻のあたりがムズムズする。馬車の座席でお尻を振りそうになり、ロザリーは慌ててその衝動を抑えた。
隣に座っていた年配の女性が、怪訝そうな目で彼女を見つめる。
「すみません。次に着く街はなんて名前ですか?」
「アイビーヒルというのよ、お嬢さん。ご存知かしら。イートン伯爵のお屋敷もすぐ近くにあるの」
「そうなんですね! ありがとうございます」
はつらつとしているものの、やや幼い言動に女性は怪訝な顔をしたが、ロザリーは気にも留めず、馬車の窓から外を見た。
小高い丘に、石塀で囲まれた大きなお屋敷が見える。その下に連なるように街が広がっていた。一番高い建物は、教会の鐘楼。その隣にある礼拝堂の高さと同じくらいの建物が、ひしめき合って並んでいる。白壁の建物が多く、町全体から明るい印象を受ける。
馬車は街の入り口をくぐり、石畳で整備された広場で止まった。
「あ、降ります!」
大きなスーツケースとは別に、体から離さないようにぴったりくっつけたポシェットから乗合馬車の運賃を支払い、ロザリーはついにアイビーヒルに降り立った。
「お嬢ちゃん、荷物はこれで全部かい? ひとりでもてるのかい?」
「大丈夫です。これ、車輪がついてるんですもん!」
馬車の御者も、あまりに無邪気な様子のロザリーに心配になる。耳打ちするような小さな声で、「お嬢ちゃん、この街に知り合いでもいるのかね?」と尋ねた。
対するロザリーはあっけらかんとした笑顔だ。
「いえ? でも大丈夫なんです。ここはよく知っているところなんですもの」
「そうかい。じゃあ気を付けていくんだよ」
「はい!」
スーツケースを転がしながら歩き出すロザリーを御者は心配そうに見送った。
「街の名前も知らないのに、……ほんとかね」
ひとりごちたのは、先ほどまでロザリーの隣に座っていた年配の女性だ。
乗合馬車は、世間知らずそうな娘に後ろ髪を引かれつつも、次なる街を目指して動き出した。
一方のロザリーは意気揚々と石畳の街を歩き出した。
ここは初めて来た街だ。だけど記憶にはある。
入ってすぐのこの大きな広場から、三又に分かれた道の先に何があるのかもちゃんと知っている。
知っているのは、ロザリーの記憶の中にいる“リル”
「懐かしい香りです」
ロザリーは大きく手を伸ばし深呼吸をした。するとお尻がムズムズとしてくる。まるで、そこに尻尾があって揺れているように。
「やっぱりリルはここで暮らしていたんですね。間違いないです」
スーツケースを再び押し、迷いもなく三又の道の真ん中を行く。
すぐに、いい匂いを漂わせるパン屋が見えてくる。その先には仕立て屋や細工師が集う一角があり、リルはそこに行くと嫌がられたものだった。
だが今、ロザリーがそこを通ると、店主のほうから声をかけてくる。
「お嬢さん、そんな地味な服ばかり着ていないで、こんな色のドレスを仕立ててみない?」
客引きをした女性が持っていた生地は綺麗なパールピンクだ。素敵だと思うけれど、今のロザリーには過ぎたものだ。それにこの薄緑色のワンピースは旅に出る前に祖父が仕立ててくれた大事なものなのだ。
「ごめんなさい。私今、あまりお金が無いんです」
ぺこりと頭を下げ、スーツケースを押しながら先を急ぐ。
“リル”のときなら、しっしっとすぐ追い払おうとしていたことを思えばおかしくなってくる。
「犬と人間ってこんなに扱いが違うもんなんですねぇ」
ふふ、と笑って先を急ぐ。だってここは知っている街だから。
前世の自分――垂れ耳と垂れた尾をもち、ふさふさの飾り毛を持つ犬――リルが住んでいた街なのだから。
* * *
その日は、ロザリーの十六歳の誕生日で、両親からのプレゼントは観劇だった。
演目はかねてより観たいと思っていた『カーセルメルトの長い夜』というコメディ劇。
地方劇場であるエタニア劇場で人気を博したこの演目は、王都の劇場でも上演されることが決まっている。その日はエタニア劇場での最終夜とあって、客席は満席だった。
おかげで劇が終わっても道路の渋滞はなかなか解消されない。熱気のこもる夏の夜に待たされた馬はすっかり機嫌を損ねていて、どこの御者も制御するのに苦労していた。
ロザリー一家の馬車も、そんな渋滞の列に交じっていたが、中では和やかな会話が繰り広げられていた。
「今日はとても楽しかったです。お父様、お母様」
「それはよかった。お前の誕生日の祝いだからね。十六歳おめでとう、ロザリンド」
「ありがとうございます」
「来週の夜会で、いよいよ社交界デビューよ、ロザリー。素敵な男性に出会えるといいわね。あ、でもすぐに誘いにのってはダメよ。慎みを忘れないようにね、ロザリー」
「わかっています、お母様」
ロザリーは、丸顔にクルミのような丸い琥珀色の瞳を輝かせている。観劇の感動が冷めやらず、頬はうっすらと染まっていた。
美しくなる素養は十分に感じさせるが、今はまだあどけなく可愛らしいという表現がぴったりのこの一人娘を、ルイス男爵は目に入れても痛くないほどかわいがっていた。
「それにしても、馬車はなかなか進みませんわね」
夫人がため息とともにこぼし、「そうだな。……おい、もう少し急げないのか」と男爵が御者に声をかける。
狭い馬車の中はすぐに熱がこもってしまう。小窓を開ければ風は入ってくるのだが、同時に虫も入ってくるので開けるのを夫人が嫌がるのだ。
道を大通りから一本それたあたりで、馬車が軽快に動き出した。男爵一家はホッとして背もたれに背中を預ける。しかし、様子がおかしかった。馬車のスピードが、軽快と言うよりは身の危険を感じるほどだったのだ。馬車は大きく揺れ、ルイス男爵は不安で身を寄せ合う娘と妻を両腕に抱きかかえた。
「おい、一体どうなっているんだ」
「もっ、申し訳ありません、旦那様。馬が……。うわっ」
御者の声が響いたかと思った同時に、激しい衝撃がルイス一家を襲った。
馬車の外壁がめり……と音を立てて割れ、木片がまるで意思を持っているかのように三人に突き刺さってくる。
「きゃあっ。お父様っ」
ロザリーが声を上げたが、視界は一瞬で真っ暗になってしまった。それでも父のぬくもりが感じられていたが、もう一度大きな衝撃が走ったとき、馬車は横倒しになって一家はひと固まりとなって投げ出された。
ロザリーは痛みを自覚する間もなく意識を失ったのだ。




