第四章 旅立ち
書庫へ向かう足は、いつもより速かった。理由はうまく説明できない。ただ、近づいてはいけないものに近づいているような、落ち着かなさがあった。扉の前で足が止まる。鍵が変わっている。見慣れたはずの書庫が、別の場所のように感じられた。入れない。
背後から足音がして、エレノアが現れる。「どうしたの?」エリアスは短く答えた。「鍵が変わっています」言った瞬間、自分の声がわずかに硬くなっていることに気づく。エレノアは扉を見て、言葉を失った。「そんなはずは……」その動揺を見て、エリアスは僅かに安堵する。少なくともこの人の意思ではない。
書庫を離れる足取りは、思ったより重かった。昨日まで当たり前のように入れていた場所に、もう簡単には入れない。その事実が、無力感として残った。
エリアスは、書架整理のために一時的に設けられた仮保管室の存在を思い出し、そちらへ足を向けた。
仮保管室は本来、書庫の再編に伴い廃棄前資料を一時的に集めるための場所で、鍵の交換も予定されていた。
しかし使用人の作業は遅れており、エリアスの持っている鍵で中に入ることができた。
エリアスは古く埃をかぶった資料を手に取り、ページをめくる。
資料の中から、自分の名前を見つける。養子としての登録だった。養父クラウスと養母エレノアとの血縁関係は存在しないと記されていた。見つけた瞬間、理解より先に、指先がわずかに止まる。呼吸が一拍遅れて落ちたあとで、納得のようなものが遅れて追いつく。
養子の情報を隠す理由が思い当たらない。なぜ知ってもいい情報として扱われていなかったのかという違和感だけが残る。
ふと、ルークの言葉が脳裏をよぎる。
――隠される情報には、必ず得をする側がいる。
その瞬間、胸の奥に形のない不快感が広がった。
さらに記録の端に、意味の分からない地名や人物名、施設名が残されていた。今はまだ繋がらない。それでもエリアスは、その文字列を記憶の奥に押し込むように刻みつける。資料を戻し、部屋を出た。
曲がり角で、一人の男とすれ違う。使用人とも違う立場で、クラウスの側近として屋敷にいるセバスティアンだった。顔は知っているが、言葉を交わした記憶はほとんどない。距離があることが当たり前の存在だった。男は立ち止まらない。ただ一瞬だけ視線が交わる。その目はいつも冷たく、そこに感情らしいものはない。見られた、というより値踏みされたような感覚が残り、エリアスはわずかに息を飲む。
翌日、クラウスが告げる。「本日よりルーカス・グレイヴスの任を解き、後任をセバスティアンとする」その言葉に、理由の説明はない。決定だけが置かれる。
「以後よろしくお願いします」
セバスティアンの声は穏やかだった。しかしその穏やかさに温度はない。人に向けられているはずなのに、人に向けられている感じがしない。
「知る必要のないことまで知ろうとすると、不幸になりますよ」
まるで“知るかどうか”は最初からこちらに選択権がないと言われているようだった。エリアスはすぐに反応できず、少し遅れてから何も言えないことに気づく。
「前任者は少々、余計なことを教えすぎました」
その言葉に、エリアスはわずかに眉をひそめる。理由はすぐには分からない。ただ、その言い方に引っかかるものが残った。
その日の廊下で、使用人たちの声が断片的に耳に入る。「坊っちゃん、もう前みたいにはいかないらしい」「新しい先生の方針だとか」「自由時間が減るらしい」
断片的な言葉なのに、息苦しさが広がっていく。自由が削られていく、というよりも、最初からその形に作り替えられていくような感覚だった。
このままでは、この家の中で何も見えなくなる。真実に近づく以前に、近づく手段そのものが消えていく。
そしてもうひとつ。自分という存在が、この場所の中で“管理されるもの”に変わっていく感覚があった。
決断は、気づけば固まっていた。
ここを出る。
夜、荷物をまとめる手は驚くほど冷静だった。迷いがないわけではない。ただ、ここに留まる方が、もう現実的ではないと理解していた。
思い出すのはルークの授業だった。地図、街道、宿場町、旅人の話。かつては退屈だった知識が、今はそのまま外へ出るための手段になっている。ルークは答えを与えていたわけではない。ただ、考える材料を渡していたのだと気付く。
裏門へ向かう。誰にも告げないまま、屋敷を抜ける。その先に、ルークは立っていた。
「任を解かれたはずだ」
「その通りです」
「止めに来たのか」
「いいえ」
短いやり取りの中で、妙な安心感と、同じくらいの緊張が同時に存在していることに気づく。
エリアスは息を整え、現実を言葉にする。「子供一人で関所をどう通るつもりですか」
沈黙が落ちる。その問いは、自分自身への問いでもあった。
悔しさを押し込むようにして、エリアスは続ける。「……同行してくれ」
ルークはわずかに目を細める。「支払いは?」
すぐには答えられない。だが視線は逸らさない。「……いくらだ」
「高いですよ」
軽く言うその声に、嘲りはない。ただ当然の事実のようだった。
「……後で払う」
ルークは小さく肩をすくめる。「では契約成立ですね」
こうして二人は夜の屋敷を離れた。まだ師でもなく、まだ仲間と呼ぶには早い。ただ、それぞれの理由を抱えたまま、同じ方向へ歩き出しただけだった。




