File12 -幽玄実行
いらっしゃい。
……どうしたんだい、かなり機嫌が悪そうだが。
ふぅん、仕事でミスをしたと。
……うん、正直どうでもいいかな。
君がどんなミスをしたのか、それにまつわる話も……まぁ、今は聞きたくないね。
なんでって……。
ここは私の話を聞く場所だ。
その事を忘れてやしないかい?
ふふ、そうだとも。
じゃあ早速話をしようか。少しでも機嫌が良くなる様にね。
題して「幽玄実行」だ。
◇◆◇◆◇◆
我思う、故に我あり。
哲学者デカルトが提唱した倫理学の命題だ。
『自分は存在するのか、それを考えられる時点で存在は証明されている』
という、ちょっと分かりづらい証明になる。
コギト・エルゴ・スム。こっちの方が耳に馴染むかもしれないね。
ともかく"考えられる"ということは、"存在している"ということだ。
だが考えすぎるのも、考えものだ。
というのも、とにかく考えすぎる男がいた。
彼は様々な事に対して、あらゆることを考えるんだ。
それもマイナスの方に。
するとどうなるか?
なにをするにも、悪い結果がつきまとうのではと怯え、仕舞いには体調を崩し入院してしまった。
まぁここまでは、ありふれてはいないけど、あり得る話だ。
彼の特異はここから。
考え過ぎた彼は、すべての事象は自身を追い詰めるためだけに存在すると思い至った。
そうして、破滅の未来を回避しようと考えた。
では、どうするか。
「ラプラスの悪魔」を利用することを思いついた。
それは因果律に基づいて未来を決定づける超常的存在。
彼はどうにかして、全知の、アカシックレコードと言えるものにアクセスを試みた。
だが上手くいくわけがない。
だって、既に「あらゆる事象を理論で記述する」量子力学というものにより否定されているのだから。
……ならば、否定されている方を否定してしまえばいい。
そうして、彼は"量子力学そのもの"の否定を思いついた。
量子力学の否定のためには、力学、つまりエネルギーを否定する必要がある。
そのため、エントロピー減少を目論み全ての秩序を保とうとした。
ここで言う秩序は、あくまで彼の中での秩序。つまりルール付けだ。
なんでエントロピーを減少させようとしたのかって?
それはね、混沌とした世界を少しでも整理されたものにしたかったからさ。
エントロピーが減れば、物事は均一で整った状態になる。
つまり、彼の中では──未来が読みやすくなると考えたんだ。
そうして彼は何をするにもルールを決め、それを愚直に守り続けた。
そんなもので論理を覆すことはできないのにね。
だが天の助けか、悪魔が微笑んだか。
彼を構成する量子は次第に揺らいでいった。
手が透けて向こう側が見えたり、前を向いているのに後ろの様子が目で見えるようになったり。
……思い込みの力はすごいものだよ。
さて、その揺らぎに身を任せた。
任せてしまった彼は、ついに悪魔に謁見する。
全ての未来の把握だ。
未来を、森羅万象全てを、その身に受けた彼は考えた。
果たしてこの現象は事実なのか。
彼は"考えすぎる"人間だったね?
せっかくの成果すらも疑いにかかったのさ。
これは単なる妄想なんじゃあないか。
そんなことを考えたが、彼はすでに揺らぎに委ねてしまっていた。
量子の崩壊、自己認識の欠如は始まっている。
考え過ぎて、未来を把握したかった彼は、自分で自身の存在を否定してしまった。
我思う、故に我あり。
崩壊の中で彼は何かを考えられたのか。
今となっては、誰も知ることはできない。
◇◆◇◆◇◆
なぜ、存在しなくなった男の話を出来るか?
……人間に限らず、この世の存在は全て不安定なんだよ。
その中をもがいて生きていくしかない。
この話も、そんなもがいている時に聞いたのかもね。
タイトルも「存在しないもの(幽)を深遠な理(玄)として実行に移す」と言う意味でね。
私にしては中々ひねって作ったんだよ。
……そうだ。少し気になったんだが。
存在しない男の話を聞き、その身に宿した君は──
……本当に、しっかり存在しているかい?




