描いた未来
夏見総合病院、医院長室。
千恵子が私的な用事でここを訪れるのは初めてだった。
「淳也の学費の件、ありがとうございました……でも、この話は白紙にしていただきたいのです」
白衣姿で椅子に腰かける竜之介に向かって彼女は言った。
「……何故に?」
「親が果たすべき務めだからです」
あくまで親としての義務だと言う娘を、竜之介は苦笑した。
「淳也にはどう話す」
「あの子には黙っていて下さい。また色々とうるさく言ってくるでしょうから」
彼女は肩をすくませる。
淳也がどのような道を選ぼうともそれを支えるのは自分であるという気持ちが、千恵子の中で固まりつつあるようだった。
「もともと昔から、私はお前の教育に関して必要以上に干渉してこなかった。だから今回もお前の言うとおりにするよ」
「ありがとうございます」
そう言って軽く会釈する彼女に、竜之介は気になっていたことを訊いた。
「自分のした事は、間違っていたと思うか」
シビアな問いに、千恵子は毅然としていた顔を崩して下を俯いた。
「……私は、経営者としてなら間違った事はしていないと思ってます。でも母親としてなら……間違った事をしたのかもしれません」
少し声を震わせながら、彼女はそう言った。
竜之介はやさしく微笑んだ。
「―――お前は頑張ったよ」
それは父親としての、娘への労いと同情の言葉だった。
千恵子はようやく、肩が軽くなるような感覚を覚えた。
* *
三者面談の前に淳也が提出した進路希望調査書には、「H大学 教養学部」の文字が書かれてあった。
そのことを里花に告げると、彼女は目を丸くした。てっきり千恵子に反抗して他の大学を受けるのかと思っていたからだ。
「……あんな母親でも、俺を産んで育ててくれた人だから……まあ、せめてもの親孝行っていうか」
ぶっきらぼうにそんな事を言う淳也を、里花は微笑ましく思う。
あれほど嫌っていた母親との関係は徐々に再構築されつつあるようで、それは里花にとっても喜ばしいことだった。
―――夏休みの美術室。
そこには里花と、なぜか淳也がいた。
『木曜は部活は休みなんだけど、文化祭で展示する絵がなかなか進んでなくて、その日も登校しようと思ってるの』。
ある日里花がそんなことを話したのをきっかけに、おもしろ半分にN高に潜り込みたいと言い出したのは淳也の方だった。これも高校最後の冒険だと上手い具合に説得され、結局彼女はそれを了承してしまったのだ。
そして未咲の男友達から借りた制服を着込み、木曜の今日、彼はまんまとここへ忍び込んだのだ。
部活や自習、文化祭の準備に学校を訪れている生徒とすれ違う度、内心ドキドキしていたのは里花の方で、淳也はこの状況をかなり楽しんでいるようだった。
いつものようにエプロンを身に付け、キャンバスに向かって筆を動かす里花。その傍らで、淳也は頬杖を突きながらその姿を見守る。ちょうど、未咲がいつもここに居座っている時のように。
キャンバスはまだ描き出しの段階で、そこに何が描かれているのかはっきりとは分からない。
里花はパレットに出した何色もの色を使い、輪郭を取りながら少しずつ描いて行く。
「何を描いてるのか教えてくれないの」
「文化祭に来たら分かるよ」
「それまでのお楽しみ?」
里花は筆を置きながら可笑しそうに頷いた。
「夏見くんの方は文化祭いつなの?」
「さあ、全然分かんない。ていうか俺、高校に進級してから1度も参加してないや」
「今年はどうするの?」
「行くよ。だって彼女と一緒に回りたいじゃん」
淳也はそう言って、里花の脇腹を指で突いた。
「里花ちゃんと出逢わなきゃ、文化祭なんて行かなかっただろうな」
「それは言い過ぎだよ」
「いや、本当だよ。電車の乗り方が分からなくて良かったって思ってる」
その言葉に吹き出しながら、彼女は駅の前で不自然に突っ立っている彼の姿を思い出した。それが全ての始まりだったのだ。
「……私も夏見くんと出逢わなければ、きっと勉強だけに追われる日々で終わってたかもしれない。誰かを好きになる嬉しさも、切なさも知らないままで……」
「……」
感慨深そうにする彼女の横顔を、淳也は愛おしそうにじっと見つめる。
「大学生になったら、何をしたい?」
ふいに里花が無邪気にそんなことを訊く。
「そうだな……友達をつくって、バイトも続けて、まだ知らない分野を学んで、それで……夢を見つけられたら良いな」
将来に希望もなく、冷めた眼で“現実”を眺めているだけの、あの時の彼はもういなかった。それは前向きに自分の道を歩み出す、生気に満ちた彼の姿だった。
その活き活きとした瞳に吸い込まれるように、いつの間にか里花は彼の柔らかな頬に短くキスをしていた。
不意を突かれた淳也は、驚きを湛えた表情でキスされた頬を押さえた。
彼女は顔を赤らめながら、淳也を見つめる。
「来年は、もっと楽しい事があるよね」
「……そうだね」
コツンと、2人の額が合わさった。
開け放たれた窓からは、蝉の合唱が絶えず聞こえてくる。
微熱を孕んだように、互いの額が熱い。
彼らは瞼を閉じたまま、自分たちの未来を思い描いた―――。
完結です。
書き切れなかった部分もあり、そこが少し心残りです。
今まで読んで下さった方、本当にありがとうございました!