第2話 ミルシードとユリ 2/4
タクヤが診察室に入った。
古い書籍と消毒薬、そのもともとの部屋の匂いが、今は開け放たれた窓から流れ込む海風と心地よく混ざり合っている。
60歳くらいに見えるドクターは、椅子に腰掛けたまま、王子にむかって軽く頭を下げた。
「わざわざお越しいただいてすみません」
「いや、こういうのは自分で動かないとね」
「お元気そうでなによりです、どうぞこちらに」
タクヤが革張りの診察台に腰掛けると、ドクターはメガネを外して質問した。
「メリルさんの話ですと、ご記憶に問題があるとか。ここのことは、憶えてらっしゃいますか?」
タクヤは、すまなそうに首を横に振った。
「なんとなくなつかしい感じはします。でも、それだけ。具体的なことは思い出せません」
「なるほど。まず、私は、ドクターのスベリエ・コーネスです。大病院のような専門治療は無理ですが、こう見えて戦場や貧困村も経験してきました。ご信頼ください。もっとも『降霊祭』については部外者ですが」
「その『降霊祭』って?」
「王子が、真の王子になる伝統儀式です」
「なにか難しいことでも?」
「特別なことをやっている、ということは察しております。しかし公開はされていません。タクヤ様のご健康に関しては、やはり王宮の専門家にご相談なさるのがいいはずですが、しかしあいにく今はみなさん国外に出てらっしゃる。そこで、私がうかがわせていただくわけです」
「なるほど」
「さて、他に、思い出せないことは?」
「たとえば、母のこととか」
タクヤはさらっと口に出したが、ドクターは目を見開いた。
「まさか、タカコ様のことが思い出せないですと?」
「はい、メリルさんは『それは悲しいけど、いいことでもある』って言ってました。思い出せると、とてつもなく悲しくなるから、って」
「そうですな。そういえば、今日はタカコ妃のお誕生日でした。そして来月で亡くなられて一年」
「思い出せません、ごめんなさい」
「いや、あやまることではございません。事実なら、まずは事実から知る。それが科学者たる医者のつとめ」
「で、もう一つ、いいですか」
「どうぞ」
「右足の裏側に、龍の紋様みたいなものが浮き上がっているんです」
「拝見しましょう。ベッドの方へ」
タクヤは、そばのベッドに移って、ズボンを脱いでうつ伏せに横になった。皮膚の凹凸による紺色の模様は、確かに怒り舞い登る龍の図柄のよう。
「すごいでしょ? 気がついてみると、かなり気持ち悪い」
「なるほど」
龍の図柄については、スベリエ医師にも基本的な知識はあった。
「タクヤ様、私は、ウソはつかないようにしているのです」
「はあ……、それはいいことだと思います」
「医師が、ウソを言わないということは、どういうことか、おわかりになりますか?」
「風邪なら風邪……ってこと?」
「もっと重い病気なら?」
「それなら、言われた方は、ショックだろうね」
「だから、タクヤ様、ご覚悟ください」
「いや、え、なに? なになに? ヤバいこと?」
ドクターは、待機していた看護師に、手振りで外すように伝えた。
彼女は理解し、外に出て扉を閉めた。
「タクヤ様の症状は、たしかに『降霊祭』の後遺症と思われます。記憶の不完全さも、おそらくその一つですし、下肢に現れた図柄も同様。今、痛みは?」
「いいえ。長い寝起きで、腰や膝が痛かったけど、そんなのはここに来る前にだいたい治りました」
「では……少しお待ちください」
ドクターは奥の部屋に入っていった。倉庫と書庫をかねた小部屋に。
しばらく物を探す音がしたあと、一冊の古い本を手に取ってもどってきた。
ドクターはページを探し、探り当てたページを、横になったままのタクヤに見せた。
しげしげと見つめたタクヤだったが、すぐに白状した。
「これ、なんて書いてあるんですか?」
「古プキン語は読めないと?」
「ドクターは読めるんですか?」
「もちろん。この時代の医学は、今に至っても多くの示唆を含んでおります。そもそも『降霊祭』のルーツもプキン時代に由来すると」
「で、内容は?」
「ここに書いてあるのは、ある植物についての説明です」
「たしかに、イラストがありますね」
「ヤマトザミ、危険な植物です。いや、今は品種改良によってあつかいやすくはなっているようですが、それでも毒がないわけではありません」
「それを飲んだら、記憶が飛ぶ、みたいな?」
タクヤは軽く聞いた。
しかしドクターは、彼をにらみつけた。
「記憶ではありません。命が飛びます。肌に紋様が表出し、ただれ、やがて内臓が破壊されていく」
「え……」
タクヤはせき払いをして姿勢を正した。
「つまり、僕がこうなっているってことは、死ぬってこと?」
「ちがいます」
「ではどういうことですか」
「王は、血筋として引き継がれるものにあらず、試練を経て継がれるものなり。タクヤ様、あなたは、今まさに『本物の試練』に直面なさっているのですよ」
ドクターの厳しい物言い。
タクヤは理解できずに首を振った。
「じゃあ、いいよ、べつに、僕は王の世継ぎとか興味ないです。こんなのやめて、元のところに返してください」
「戻る? 不可能です」
タクヤは立ち上がり、イライラして、叫びそうになったが、それはなんとかこらえて、部屋ぐるぐると歩き回った。
「ドクター、だったら僕はどうしたらいいんですか?」
「克服するのみです。病に勝つ。もしくは、病と和をとりもつ」
「そんなこと、できるんですか? できた人いるんですか?」
「まずは、祈りから始めましょう。それで道がひらけるかもしれません」
「祈り? 『治りますように治りますように』と唱える、みたいな? そんなのでよくなるわけないじゃん」
「いえ、我が国では、きちんと国家資格があります。スーサリアの祈り師のみが持ちうる特殊技術。私の娘が、祈り師です。ユリと言います」「わぁ!」
タクヤが叫ぶと、ドクターはひっくり返りそうになって驚いた。
「そうか、祈り師って、そういう!」
「ご、ご存じでしたか?」
「知ってるもなにも、僕のほとんど唯一の記憶がそれなんです。祈り師になった子供時代の友だち。ニュースで見ました。あと雑誌でも。芸能人みたいにインタビュー受けてた。めちゃくちゃかわいい写真付きで」
「新規で祈り師になった人は国民に報じられることがありますからな。わが国の伝統として」
「やっぱり、僕はここには縁があるんですね」
タクヤはあらためて診察室を見回した。 ドクターは、ゴホン、とせき払いをした。
「とりあえず、それはそれとして、タクヤ様には、祈りの治療が必要なのはまちがいない。すぐに来させましょう」
ドクターは扉を開けて伝えた。
「ユリは入江だと思う、呼んできてくれ」
呼ばれた看護師は、診察室をよこぎって、ドアから庭に出ようとした。
「ちょっと待って」
タクヤが呼び止めた。
「海って、あそこ?」
タクヤは、窓の外に見える防波堤を指さした。
ドクターはうなずいた。
「はい。あの防波堤の向こう。たぶん親しくなったイルカに餌をあげているところだと思います。いつもそれが長くて」
「自分が行っていいですか?」
「ん?」
「祈り師の人を連れてくるんでしょ? 僕が行けば一石二鳥」
タクヤの前向きな提案。
「タクヤ様は海がお好きでしたな。しかし、いいですか、今日は泳いだりしてはダメですぞ。見るだけ。そして、娘を連れてくるだけ。わかりましたか?」
「うむ、ご理解、感謝する。……って、今の言いかた、少し王子っぽくなかったですか?」
ドクターと看護師は目を合わせて苦笑した。