第1話 目覚め 1/5
「おはようございます」
澄んだ女性の声が聞こえた。
え?
やばい、僕、寝過ごした?
めっちゃ熟睡してた。
まさか寮まで先生が起こしに来たの?
彼は目をこすり、あわててベッドから上体を起こした。
あいさつを返そうとする。
しかしまだ目が慣れず相手がよく見えない。
霞んだ視界の中からも、あざやかな緑色の衣装と、銀色の髪はわかった。
フォーマルな姿。
でも、高校の女性教師ではなかった。
たぶん、もっと高貴な……
「あら、蚊が」
と、一瞬、飛び去ろうとした蚊を、女性はサッと指でつまんで「失礼しました」と紙に包んで捨てた。
その一瞬の気迫に、彼はビクッとして、目がさめてしまう。
「ど、どうも。おはようございます……」
「ようやくお目覚めになりましたね。ご気分はいかがですか?」
ご気分?
「ぼー、としてます……」
「今朝は、とてもよい朝ですわ」
彼女の態度は、礼節をわきまえながらも、人としてのやさしさにあふれていた。
それはよくわかった。
眠りからさめて、そこにこのようなお姉さんがいることは、むしろとても幸せなことだった。
しかし、彼はとまどう。
「すみません、あの……ここは、どこですか?」
「王宮の東の塔、タクヤ様の寝室です」
「え゛」
王宮って、なんだ?
王宮と言えば、普通は王の暮らす城を意味するが、それとはべつに小さな王宮があったりするのだろうか?
病気になって、運ばれた、とか……
「あの……王宮って……どうして僕はここにいるの?」
「もちろん『王子タクヤ様』ですから」
「僕が? あれ? え? そうだっけ……」
見覚えのない状況。
小説で読んだことがある異世界転生みたいなこと?
しかし過去の人生の記憶があるわけではなかった。
なにより、周囲にあるものは、ベッド、ソファー、カーテン、どれも一見して歴史と伝統を感じさせる本物ばかりだった。
僕が、王子……巨万の富を得た? いやいや、きっとこれには裏がある。だまされないぞ……
内心、庶民的な思考を続けるタクヤに、メリルは温かい言葉を伝えた。
「あわてることはございません。本当に長くお眠りでしたからしから。少しくらい思い出せないことがあったとしてもしたがありません。気になさらずに」
気になさらずに、と言われても……
たしかによく寝た気はするけれど、そういう問題かな……
ムリに思い出そうとすると頭痛が襲ってきた。
さながら重装備の門番に突き返されたかのよう。
自分の無力さ。
願いがかなわない、悲しみ。
彼が救いを求めるように視線をずらすと、窓にかかった長いカーテンが風にゆれていた。
「いい天気みたいですね……」
「最高です。ごらんになりますか?」
「いいの?」
「では、そのまえに、点滴とバルーン、お抜きしましょう」
女性は、なれた手つきで彼を横にならせ、腕から点滴の針をぬくと、すぐにはいているものを下げ、尿道に通されていた管を引き抜いた。
彼は言葉もなく、なされるままに受け入れるしかなかった。
女性は、彼の衣類をもどし、尿のたまったパックをケースにしまうと「さあ、窓辺へどうぞ」と、キョトンとした顔の彼をいざなった。
「は、はい、ありがとうございます」
「歩けますか?」
彼は身体を曲げて、ベッドから足を下ろした。そこまではできた。しかし立ち上がろうとすると、膝や腰に力が入らずよろけてしまった。
女性がすぐに支える。
「あわてずに、ゆっくりどうぞ」
「あ、はい……」
本当に病気だったらしい。
医療処置を外されて、歩こうとしても歩けないほど足腰が弱っている。
なんとか窓辺にたどり着き肘をつく。
「まぶしい」
「大丈夫ですか?」
「すぐなれると思う。でも、ここ、本当に海を見下ろせるんですね」
「王子の間ですから」
当然のこととして断じるメリルに、タクヤは首を傾げた。
「わからない。寝過ぎて記憶がないというのもちがう気がする。でも、あなたが作りごとを言っているとも思えない」
「ありがとうございます。私は、あなたにつくす者。戯れごとではございません。逆に……」
彼女は知的な眼差しを彼にむけた。
「何か、おぼえていらっしゃることはございませんか?」
「おぼえていること……?」
メリルは、うんうん、とうなずいた。
彼は首を傾げて、視線を海原にむけた。
キラキラと晴れた海……それは、確かに何かとつながっていた。
心がざわつく。
「そうか! 僕は、とらえられたんだ。だからここに!」
思い出した記憶に、彼は萎縮する。
暴力の恐怖を顔に浮かべる。
そんな彼の背に、メリルはそっと手をあてた。
「大丈夫、私がいます」
彼は、メリルの目を見た。
本物の温かい信頼。
そうだ……たしかに、その記憶は、もともと楽しげで、こんなふうに海がキラキラしていた……