愛知川の関所
私(三成):(……なんで三成は、秀吉の言う通り。筑前の大名になっていたら……。こんな目に遭わなかったのだけれど……。)
畿内の境目。江北に所領を持つが故。会津へ向かう大名を足止めするための関所の設置を言い渡された私(三成)は独り愚痴るのでありました。関所を設置したのは佐和山での会合と同じ7月12日。まだ正式に『家康打倒』を公表していないこの早い時期に何故三成は関所を設置したのか?
所員:(かなり早い段階で決まっていたことなのかもしれませんね……。)
私(三成):(毛利についても吉川広家と安国寺恵瓊が対立していることになってはいますが。その後、毛利家と吉川家は存続したことから考えますと、全ての責任を断絶した安国寺家の恵瓊に押し付けただけだったのかもしれませんね……。)
所員:(どちらに転んでも良いように、家康との衝突を避けるべく広家は家康との連絡を怠らず。一方、家康が敗れても良いように輝元は秀頼を保護=人質すべく大坂城に入る。と……。)
私(三成):(……でもそれって、大将の採るべき道ではありませんよね……。)
所員:(家康もしくは秀頼の部下としての判断。増田長盛と同じ発想で動いていしまっていますね……。これが許されるのは前田や九鬼。真田のような臣下の立場で争いに巻き込まれてしまったものであればいざ知らず。輝元は自分の立ち位置を理解していない。)
私(三成):(関ヶ原では広家の妨害により参戦出来なかったのではなく、端から毛利は家康と戦うつもりは無かった。と……。)
所員:(結果。家康は勝った。と……。黒田や福島から所領安堵の話も得た。と安心して大坂城を離れた瞬間。輝元の上司である家康は……。)
私(三成):(結果毛利家は、大減封の責任の全てを吉川広家に被せる形で江戸時代を過ごす破目に遭ってしまった。と……。こんなんしか総大将に出来る人間が居なかったのが西軍敗退の一因とも言えますね……。秀頼があと10年早く生まれていたら……。もしくは豊臣の各家臣が、家康と対抗することの出来る石高を有していたら。……もっともそうなりますと次の秀吉を生むことにもなり兼ねないので。秀吉は出来なかったのでありましたが……。)
所員:(で。関所の設置でありますが。)
私(三成):(三成が設置した愛知川で鍋島勝茂と前田茂勝が。長束が設置した水口では長宗我部盛親が行く手を阻まれ。西軍に与せざるを得なくなった。と……。実際の関ケ原の舞台において、彼らが果たした役割は皆無であったことを考えますと、この関所の効果の程は……。)
所員:(辞めておきますか?)
私(三成):(いや。設置しよう。)
所員:(何故ですか?)
私(三成):(私も家康のもとへ行きたかったから。だから設置する。)
所員:(嫌がらせですか?)
私(三成):(それも否定はしないけれども、関所で行く手を阻まれた彼らは関ケ原の場において戦力にならなかったとは言え、小早川秀秋のように西軍の害になったわけでは無い。で。仮に関所を設けず彼らを家康のもとへと歩を進めた場合。間違いなく家康方として関ヶ原にやって来ることになる。直接相対することになる敵を増やすことになる。家康に今以上の戦力の補強は回避しなければならない。故に関所を設けることにする。)
関所が設置されたから5日後の7月17日。それぞれの思惑渦巻く中、大坂城で『家康打倒』の挙兵が宣言されるのでありました。




