保守本流は……
7月17日。増田、前田、長束の三奉行と宇喜多秀家が協議し、毛利輝元を正式に西軍の総大将とすることを決定。これを受け輝元は大坂城西の丸に入城。それと共に三奉行により家康への宣戦布告を諸大名に公布するのでありました。その内容は
「今回の家康による会津遠征は、亡き太閤殿下が遺された遺命に背き、秀頼様を見捨て出陣したものである。我々三奉行相談の結果。武力により家康を制裁することを決定した。これに同意される諸将は大坂に馳せ参じ、秀頼様に忠節を尽くすべきである。」
これに付け加える形で、
・五大老の1人前田利家の死去後、その息子・利長の母を人質に取ったこと。
・なんの落ち度もない上杉景勝を征伐しようとしていること。
・家康の勝手で大名の知行地をいじっていること。
・伏見城の占拠。
・禁止されている五大老と五奉行以外のモノとの誓紙のやりとり。
・政所様を大坂城西の丸から追い出し、家康の住居としていること。
・その西の丸に天守を設けたこと。
・自分の都合の良い人物の妻子のみの帰国を許していること。
・禁じられている大名同士の縁組を家康は2度に渡り謝罪しているにもかかわらず、今も続けていること。
・五大老と五奉行の10人が連判しなければならない文書を家康は独りで署名押印していること。
など13の罪状を列挙したのでありました。
この檄文に応じ、五大老の1人宇喜多秀家ほか毛利、小早川、島津に鍋島。小西に立花、長宗我部など諸大名が続々と大坂に集まり、その数兵力にして9万5千にも膨れ上がるのでありました。しかしその実情は?と言いますと……。
私(三成):(皆が皆。家康が憎かったわけでは無かったんですよね……。)
所員:(たまたま大坂に居て巻き込まれたものや、本当は家康のもとに行きたかったけれども……。と言いましたもの。更には家康に対する告発文を書いた張本人はおろか総大将に任命された輝元ですら家康に対し保険を掛けようと模索している……。)
私(三成):(勝ち馬目当てで集まっているのはむしろ家康に従った側でありますし、いざ政権を担うことになった時動かすことが出来るのはこれまで実務を経験して来たこちら側。)
所員:(家康にしましても、秀次後。豊臣政権の中に入ってはいましたが、朝廷工作のところまでは踏み込むことは出来ていない。故に関ヶ原後。奉行の中で、朝廷に明るい前田玄以の所領は安堵されることになった。と……。)
私(三成):(豊臣家における保守本流は、こちら側なのではありますが……。)
所員:(如何せん。それを束ねるものが存在しない。家康打倒後のことを考えますと、強烈なリーダーシップを発揮する野心の無い毛利輝元がトップに居たほうが、秀頼の政権確立がスムーズに進むことにはなるのではありますが。故に輝元以下毛利家が家康との戦いに対し、全てを賭けているわけでは無い。)
私(三成):(同じことは大坂城内の増田長盛にも言えることでありまして、檄文を書いた手前。秀頼の名を用い家康打倒を発した責任者に巻き込まれた事情はあるにせよ。味方である西軍方への資金提供を拒む。そのため西軍は関ヶ原の当日に兵糧を確保するため、稲を刈らなければならなくなった……。)
所員:(一方の家康のほうは、東海道筋の大名がこぞって家康に対し、領内にあるもの全てを提供したばかりか福島正則に至っては、「いざ」と言う時のために太閤殿下から下賜されていた30万石分のコメをも家康に供出し、覚悟を示したのとは対照的な出来事でありました。)
私(三成):(賊軍呼ばわりされた手前。勝たざるを得ない状況に追い込まれたこともありますが……。こう見ていきますと西軍側は用意が周到だったのか。急展開で決まったことなのか。よくわかりませんね……。)
所員:(家康が離れないことにはどうしようもならなかった。家康につきましても東海道筋の大名の動向如何によっては関東に押し込まれる危険性も孕んでいましたし、仮に味方になったとしましても中山道を進んだ秀忠があれだけの労苦を強いられたことを思いますと、9月のあの段階で決戦にはならなかったかと……。関所に阻まれました鍋島勝茂の父・直茂からのコメの提供によって鍋島家は明治維新まで続いたことを思いますと、西軍の決起を家康自身。想定することは出来ていなかったかも……。秀吉に鍛えられた面々でありますから関所ぐらいの構造物はすぐにでも拵えることが出来たのでありましょう。で、尤もこの段階で集まった面々の全ての面々が全てがこの段階で、表向きには秀頼側に立ったわけでは無かった。と……。そんな彼らが拠り所にしようとしたのが……。)




