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第五章 -8

「遼喜」

 衣桜がまた僕の名前を呼んだ。

「今度は何……」

 と、衣桜の方を見て、僕は言葉を失った。

窺うような、もどかしいような、恥じらうような視線で、衣桜は僕を見つめていた。

「い、いい……そこから動かないでよ」

「な、何……いきなりどうしたの……」

「ど、どんな聖人でも……心のどこかで、罪の意識は持ってるものだからね」

「どういうこと!」

 衣桜は僕の肩に手を載せると、そのままぐっと顔を近づけてきて。

 僕にキスをした。

「!?」

 温かくて、柔らかくて、痺れるような感触。衣桜の唾が口の中に流れ込んでくる。

「……ん」

 永遠とも思える口づけの後、衣桜はぱっと身を離した。僕は思わず、自分の唇に触れてしまう。

 ここに……衣桜の唇が?

「こんなときにラブシーンだなんて……悲劇のヒロインにでもなったつもり?」

 篠園さんの呆れ果てたような突っ込みに、僕は凄まじい恥ずかしさを覚えた。いや、だって衣桜がいきなりやってきたものだから──。

「……篠園さん、その手記、ちゃんと読みましたか?」

 衣桜は訊ねた。まるで、さっきのキスは、その間の暇つぶしだったとでも言うように。

 篠園さんは肩を竦めて、

「読めるわけないでしょう、こんなデタラメな文字……」

「読んでしまったんですね……では」

 衣桜はポケットから鍵を取り出した。この家の合鍵だ。その先端を壁に押しつけて、上から下にかけて思いっきり引っ掻いた。

 シャアアアアアアアアアアアア、と。

 鍵と壁の擦れ合う、ざらついたような高い音が響き渡る。

 その音を聞いて、僕は昔、母さんに叱られたことを思い出した。走馬灯のような一瞬の回想だけど、その時の気分とか感情が一度に蘇る。

 ──お前、信号赤なのにあそこ渡ったろ。

 ──ええ、だって……車来てなかったよ。

 ──来てなくても赤なら止まるんだよ。そんなこともわからないの?

 ──……ごめんなさい。

「……ごめんなさい……」

「……え?」

 僕は現実に引き戻された。衣桜は鍵を持ったまま、篠園さんを見ている。

 篠園さんは、手記を手に持って震えていたが、

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……こ、これ……返しますから……許して……」

 震える声でそう言って、衣桜に手記を返した。衣桜は何も言わずにそれを受け取る。

「わ、私は……今までなんてひどいことを……どうして私は……ああ……ああ、ああ!」

 篠園さんは両手で顔を覆い、へなへなと座り込み泣きだした。あまりの豹変ぶりに、僕はともかく後ろのグレースーツの男達も慌てだす。

「結は最後に自責の念に苛まれて死んだって話したけど」

 衣桜は篠園さんを見下ろしながら言った。

「これがその種明かし。『バベル』の作用は一つだけじゃなかった。少なくとも、もう一つあった……それがこれ。多分……良心を極大化するんだと思う」

 花火のような低い破裂音で、「自己の破壊」で、鍵などの擦過音で「良心の極大化」を起こす細菌……?

「どんな聖人でも罪の意識を持っているのと同じように、どんなに厚顔無恥な悪人でも良心というものは持っている。それが蔽い隠されてるだけで……っていうか、認識しにくくなっているだけでね。まあ、単なる遼喜のお父さんの受け売りだけど……」

「篠園さんの良心もそれで……?」

「当然。結ですら、罪悪感に沈んでいったんだから、篠園さんなんてかわいいかわいい」

 衣桜はどこか愉快そうに言う。僕としてはかわいいというよりは、気の毒という思いの方が強い。

 それにしても、『バベル』の、結が気がつかなかった作用。自己の破壊は、認知の障害の結果ということだったが、良心の極大化も、良心を認知しすぎるということなのだろう。

 もしかすると他にも、認知に関わる特殊な作用があるんじゃないか。結はたまたま、それを破滅に使ったけれど、逆に人を生かす作用があるんじゃないだろうか。

 そうしたらきっと、『バベル』というネーミングは間違っていることになる。言語を、コミュニケーションを断絶する神の怒りの象徴というよりは、僕ら自身の気分とか実感とかを規定するような存在。これって……一体、なんだろう?

 ──って、ちょっと待ってくれ。『バベル』の作用だって?

「いやいやいや、いつ篠園さんは『バベル』に感染したの?」

 僕は慌てて突っ込んだ。勢いで呑まれそうになったけど、パンデミックはもうとっくに終結してるはずだ。篠園さんが感染しているということは、媛倉には未だに『バベル』が漂っていて、僕らは余さず感染していることになるんじゃないか。

 衣桜は僕の指摘に、黙って父さんの手記のあるページを開いた。

「このページ」

 最後のページだった。赤黒い血のようなインクで、文字とは思えない文字が書かれている。

「これインクじゃなくて、『バベル』で書かれてるんだ」

「へえ……って、ええ! 細菌なの、これ!」

「遼喜のお父さんが、結の死んだ後に『バベル』の標本を使って書いたんだろうね。だから、恐ろしいことにこの手記、読むと感染するんだよ」

「読むと、感染する……」

 僕は呆然として呟く。そんな世にも恐ろしい手記だとは思わなかった。

「篠園さん、うっかり読んじゃったから」

 衣桜は篠園さんの方を見やった。「そんなもの捨てて!」と篠園さんが叫び、グレースーツ達が慌ててテーザー銃を放り投げている。ぱっと見た感じ、悲劇のヒロインに見えないでもない。

「大丈夫なの?」

 と僕は心配になって訊ねたが、衣桜はあっけらかんとしたもので、

「死ぬほどじゃないと思うし、こういうのを治すために調査してもらうんだからね。大好きな真実の解明に、自分が役立つなんて篠園さんも冥利に尽きるって感じでしょうね」

 よっぽど篠園さんのことが嫌いらしい。僕は今後、絶対に衣桜を敵に回さないようにしようと心に決めた。そんな機会があるか知らないけど。


 とりあえず、グレースーツ達に篠園さんを連れて来るように頼んで、僕らは家を出た。からっと晴れた青空の下、僕らはポストプロテスの営業所へと向かう。

「ねえ、何であの時キスしたの……」

 と僕が訊ねると、衣桜は顔を真っ赤にして、

「お、思い出させないでよ……、私だって恥ずかしかったんだから」

 少し歩みを速くする。

「僕の方が恥ずかしかったよ……それで、何で?」

「……遼喜もああなったら嫌だったから」

 衣桜は小さな声で言った。ああなったら嫌、というのは、、僕が篠園さんのように、良心の呵責に身悶えするということか。

 そういえば僕も、あの手記を読んでいたから、一応体内に『バベル』を飼っていたわけで、あそこで発症しなかったということは、あのキスには効果があったわけで。

「……いや、何でキスに効果があるの?」

「私……一度感染したのに、今普通だしさ。免疫できてるんじゃなかと思って……」

「それを僕に移そうとして?」

「……そう」

「わざわざファーストキスかどうか確かめて?」

「…………そう」

 僕は思わず噴き出した。そんなの笑わずにはいられない。

「笑わないでよ! 私だって必死だったんだから!」

 衣桜は脹れっ面でばしばしと叩いてくる。僕は笑いを鎮めながら、

「ごめんごめん……、でもさ、僕も一応あの事件の最中に媛倉で生まれたんだよ。ということは、生まれた時から『バベル』と育ってきたわけで、……僕にも免疫できてたんじゃないかなあ」

 何となく思いついたことを言うと、衣桜はじろりと睨んできた。

「……つまり私のキスは無駄だったってこと?」

「いやいやいや、そうじゃないよ! とてもありがたく頂きました!」

 僕が慌てて言い繕うと、衣桜はむくれた顔をしながらも機嫌を直してくれた。

「もう……、まあ……これまでの、お礼かな。なんか色々助けてもらったし」

「そんな。僕なんて、何もしてないよ……」

「うん、そうかもね」

 衣桜に軽快に肯定され、意外とぐさっときた。そんな僕の反応を見て、衣桜は明るく笑う。

「それでも。ありがとう」

「……どういたしまして。僕の方こそ、ありがとう」

「え、どうして?」

 衣桜は首を傾げる。僕は心の底から実感を込めて言った。

「媛倉に来て、良かったって思えたから」


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