第五章 -4
「それが、『自己の破壊』とやらの正体なのか」
僕の感想などそっちのけで、一人芝居は続く。
『広垣真輝』の質問に、『結京悟』は鷹揚に頷いた。
「そうなる。ただ、知覚できなくなるんじゃない。知覚と認知は別物だ。喩えば……バラバラに解体された時計の部品を知覚しても、知らない部品を『部品』以上のものとして認知できない。それと同じことがもっと根源から適応される……つまり、世界を知覚しても、全てを『何か』以上のものとして認知できない、ということだ。
無論、マウスに自我はないから、『わたしの崩壊』というのは人間に作用させた時に限定して、結果的に現れる現象ということになる。最初から、そういう効果があるわけじゃない」
目に飛びこむ色の群れが、何かわからなくなる。耳に音の意味がわからなくなる。肌に触れる空気がわからない、鼻を突く刺激の意味がわからない、口に入れたものから染み出る何かがわからない。
全てを『何か』としか認知できない──きっと、その『何か』ですら『何か』と認知することはできないんだろう。僕にはいまいち実感が湧かないのだけど、今までの衣桜の素行を見ていたから理解はできた。
見て、聞いて、嗅いで、食べて、触れても、「わからない」。だからそれを判断する自分のことも「わからない」。そうして自己を失った人間は──錯乱する。
『広垣真輝』は、そこに存在しない結京悟を睥睨し、
「……では、何故、俺達はまだ発症していない?」
「単純な話だ。『バベル』は抗生物質に弱い。当然、ピンポイントで『バベル』を駆逐するものは存在しないが、別目的のものでも症状はある程度遅滞させられる」
「抗生物質……でも、俺は昨日と……今日は、飲んでないぞ」
それまでの父さんは鼻炎気味で薬を飲んでいたことが、手記に書いてあったと僕は思い出す。
『結京悟』は淡々と、『広垣真輝』の発言を承けて話を続ける。
「昨日今日のことは関係ない。俺は『バベル』を一ヶ月前から放っていた」
「一ヶ月前……? 一ヶ月も前から、抗生物質を……摂っていない人の、症状は進行していたのか?」
「いや、症状の発露自体は昨日だ。『バベル』を投与したマウスが餌を食べなくなったのは、随分後のことだ。直後じゃない。そこで俺は、『バベル』投与から餌を食べなくなるまでの間に、何かなかったか調査してみた。外的な条件が『バベル』の作用に影響を及ぼしているんじゃないかとな」
『結京悟』は言葉を切って、視線を別の方に向ける。ここは地下室だから何もないけど、恐らく『彼』は窓の外を見たのだろう。
「記録を見直すだけで、すぐにわかった。餌を食べなくなった前の日には、あるイベントがあった。今日みたいに暑い日、雨が降るかと危ぶまれていたが天候に恵まれ、数万人の観客を大いに満足させた──」
僕は、昨日行った川の様子を思い出した。開けた視界、流れる水の音、遠く思える対岸。
間。衣桜の表情に緊張が滲みだし、役が替わる。
「……花火大会か」
「そうだ。体内に潜伏した『バベル』は、花火のような、低い破裂音に反応して作用を及ぼし始める」
「だから……き、昨日から事件、が、起きたのか」
十七年前の八月一日、それが媛倉市で行われた最後の花火大会だった。
『結京悟』は続ける。
「打ち上げ花火は三〇キロ先まで聞こえるという話もあるが、その『バベル』発動の有効範囲はわからない。大体、打ち上げ位置から二キロの研究所でマウスが発症したのだから、二、三キロといったところか。それだけで、媛倉の半分ほどをカバーしている……」
光が目に届き、遅れて音が耳に届き、更に遅れて死がやってくる。
誰がその花火を見て、その音を聞いて、明日自分が死ぬなどと思っただろうか。その光が、音が、わからなくなって死ぬと思っただろうか。
「何故……な、何故なんだ」
『広垣真輝』は呻くように言った。
「何故お、お前は……こんなことをしようとした?」
「……真輝」
「り理由だ、理由を、聞いているんだ、き京悟……どうして、ここんなことを、した!」
『広垣真輝』は苦しげに、そこにはいない結京悟を問い詰める。呂律が狂い始め、額には汗が浮かんでいる。
次に現れた『結京悟』は、憐れむような視線で僕を見下ろした。
「真輝。お前はもう長くない。今すぐ帰って……最後の時間を陽代と過ごすべきだろう。子どもだっているんだろう?」
「ははぐらかすな……言え。じ実験のためとか言ったら……は、張り倒すぞ……」
必死の形相の『広垣真輝』に、『結京悟』は観念したように両手を挙げた。
「わかった……話す。俺は、妻の尊厳を証明しようとしたんだ」
「そ、尊厳の……証明」
「春子……俺の妻が息子と自殺したのは知っているな」
僕は愕然とする。結の妻が亡くなっていたことは知っていたが、子どもと共に自殺していたのか。
「自己愛性パーソナリティ障害。春子の場合はその症状が極端で、学生の頃から自分磨きに躍起だった。ファッションにメイク、エステ通いや健康食品、自己啓発──もちろん、それ自体は全然問題なかった。だから俺も普通に付き合い、受け入れる覚悟で結婚した。だが」
『結京悟』は、忌々しそうに息を吐く。
「出産後、春子は肥大化した自らの理想像を……勇人──息子に転嫁した。春子は理想的な子どもになるよう、教育と調教を必死に施していたが、ある日、勇人は幼稚園に行きたがらなくなった。周りの子どもとのズレに、耐えられなくなったんだ。春子の動揺はすさまじいものだった……俺だって、必死に宥めた。医者にも行った。だが、ダメだった。二人でお手軽硫化水素自殺。綺麗に死ねる、なんていう二〇〇〇年代のガセを信じてな」
「……」
間。これが僕の沈黙なのか、『広垣真輝』の沈黙なのか、わからない。
「キリスト教において、神より賜りし命を奪うことは最大の罪となっている。日本は無神教だと言うが……嘘っぱちだ。どれだけ同情や悔みの言葉をかけたところで、見舞いに来た連中は内心ではこう考えていたに決まってる──愚かなことを、と。バカなことを、と。きっとどこかで間違ったんだろう、と。ふざけるなよ、春子が一度として間違えたことがあるか?」
『結京悟』は目を瞑り、ゆっくりと開いた。その瞳は、怒りに濡れているように見える。
「だからこそ、俺は……示そうとした。『自分の意志』で、死を選ぶことが、人間としてどれだけ尊いことか。逆に、誰でもない『誰か』として死ぬことが、どれだけ怖くて惨めで情けなくて意味のない、絶望的なことであるのか……を……」
言い終える前に、衣桜は咳をした。肺を底からひっくり返すように、激しく咳込む。えづいたような音が鳴る。
僕は彼女に駆け寄ろうとしたが、できなかった。芝居はまだ続いている。観客がそれを邪魔することは許されない。それが仮に演技でないとしても──僕は固唾を呑んで、次の言葉を待つ。
役者が荒い息を吐くなか、『結京悟』は言った。
「俺はこの結果に満足している……俺は……この街で、俺だけが……自分を死ぬことができる……」
「ふふざ、けるな!」
『広垣真輝』が怒鳴った。
「おおお前の自殺に、む無関、係の人達が……ま巻き込んでるんじゃ、ねえ! 死ぬなら勝手に、手前でし、死んでろ!」
『結京悟』は息を大きく吐くと、不気味なほどに落ち着き払って言った。
「真輝。良い事を教えてやる……人は誰でもいつかは死ぬ。ほかの日と同じようなある日、突然、不意に、唐突に死ぬ。ただ、それだけなんだ……」
「き京悟! く、狂ってやがる、こ、この……クソ野郎が!」
役者が膝をついた。がつ、と床が硬い音を立てる。僕にはそれが絶望の鳴らした音にしか聞こえなかった。
衣桜は、僕の目を真直ぐに見たまま、笑っているようにも泣いているようにも見える『結京悟』の顔で、言う。
「俺は耐えられない……結局のところ、事故でも病気でも殺されてでも、人は、自分でも他人でもない、純粋な『誰か』として、死んでいくしかないんだ……俺は……春子が羨ましい……自ら望んで死ぬことの……なんと、尊くて、美しいことか──俺は……多くの、誰だかわからない連中の死の中で……自ら望んだ死に立ち会えて……最高に、幸せだ」
「京悟!」




