第四章 -1
手記の翻訳は、なんとも絶妙なところで終わった。その先は今のところ全然わからないと、衣桜は言う。
「ただ、なんとなくその人にこの後会いに行くんだろうな、っていうのはわかる」
父さん曰く、「あいつ」。何の脈略もなく出てきた人物だが、あいつと呼んでいるところから、ある程度親しい間柄であると窺える。
それもかなり重要な要素だけど、僕が注目したことは他にもあった。、
「父さん達は、事件の最中も発症していなかった……?」
その原因はともかくとして、それなら父さんと母さんが死ぬことはなかったんじゃないのか。
「でも、こんな文字書いてたんだよ?」
衣桜は手記を開いてみせる。確かに、錯乱した文字群ははっきりと筆者の異常性を物語っていた。
「そうか……じゃあ、発症はしていたのか」
「個人差とかで関係ないのか、それか事件の原因と関係あるのか……まあ、どっちでもいいけどね」
衣桜はぱたん、と手記を閉じた。僕は改めて、衣桜が特に媛倉事件に興味を持っていないことを思い出す。ただ、ひとえに僕から与えられたから読んでいるに過ぎないのだ。
その後、僕達は地下室から出て、何事もなかったかのように静歌と一緒に朝食を食べた。
「……そういえば、手記の解読ってどこまで進んでるの?」
と、静歌が何気なく訊いてきた。翻訳した手記は誰にも見せないと衣桜が公言していたから、どう答えたものかと僕は迷ったが、衣桜は何でもないふうに、
「ある程度、読めてるけど……まだ文字には起こしてないんだ」
「そう。それで……内容から何か、わかりそう?」
「うぅん、わかんない。正直、自信ないけど」
衣桜は強い意志を感じさせる口調で言った。
「絶対に読みたい。最後まで」
媛倉滞在四日目、一週間の折り返し。
今日も例によって静歌に手を回してもらい、父さんの大学時代の友人という人に話を聞くことになっている。正直、昨日の件もあるのでかなり不安なのだけど、静歌曰く普通に優しい人とのこと。昨日も同じことを聞いた気がするけど、仏は三度までなら我慢するらしいし、凡人の僕も二度くらいは我慢しようかと思う。
ちなみに、五日目にあたる明日は予定がないので、媛倉市内をレンタサイクルで回るつもりだ。行く宛は特にないが、西の方へずっといくと市の中央を突っ切る川にぶち当たるとのことで、なんとなく最初はそこを目指してみる。事件の起きた十七年前までは、その川辺で毎年花火大会が行われていたらしい。
静歌は用事があるといって、早々に出かけて行ってしまった。一体、有給休暇はどこに消えてしまったのだろう。
「わたしもいく」
出かける準備をしていた僕に、衣桜はばっちりと準備を終えた状態で言ってきた。昨日、衣桜にせがまれて、静歌が慌てて見繕ってきたというポロシャツとスカート姿。ばっちり似合っている。
衣桜を家に一人置いていくわけにもいかないので、一緒にいくことにした。僕が聞いてきたことを伝えるよりも、衣桜が直接聞くほうがずっと良いだろうから。
今日、訪問したのは小野智穂さんという人だ。事件当時から現在に至るまでずっと東京住みだが、実家が媛倉市にあり事件以降も毎年訪れているのだそう。
「あなたが広垣くんの息子さん……?」
玄関から顔を出した小野さんは、僕の顔をまじまじと見つめた。
「あんまり似てないなあ。陽代ちゃん──お母さん似ね」
「よく言われます」
まだ二回目だけど。どうやら僕と父さんは本当に似ていないらしい。
小野さんは、僕の後ろにいる衣桜の方に視線をやって、
「えっと、そちらの子は?」
「従妹です」
「日鞍衣桜です、よろしくお願いします」
衣桜は礼儀正しくぺこりと頭を下げた。小野さんのプロファイルは事前に教えてあるので、いつかみたいに極端に怯えることはない。従妹なんていうちょっとした嘘はご愛嬌。
僕らは小野さんに促され、家の中へと上がった。フローリングに絨毯が敷かれ、昔ながらのちゃぶ台と座布団が置かれた、いかにも「おばあちゃん家」らしい居間に通されて、僕らはしずしずと腰を下ろす。
「もうあれから十七年も経つのね」
小野さんは麦茶を注ぎながら言った。
「広垣くんの子どもが保護されて、引き取らないかって私のところにも話は来たんだけど……うちもあの事件で両親が死んでごたごたしてたから、そんな余裕なくって。ごめんなさい」
「いえ、そんな……」
「それで、今日は広垣くんのこと訊きに来たんだっけ。何でも訊いて……といっても、大学時代なんて二十年以上前のことだから、覚えてるかどうかわからないけど」
小野さんは小さく笑う。小野さんは酒々井さんと違って、父さんの記憶がそれほど強く事件と結びついていないらしい。
僕は内心ほっとしながら、小野さんの許可をもらい、静歌から借りたレコーダーで録音を始めた。
「えっと……父さんとはどういう繋がりで友達になったんですか?」
「語学で同じクラスだったの。なんか奇跡的に仲の良いグループになってね、色々と遊び回ってた」
「遊びですか」
「ダーツとかビリヤードとか、そういうやつ。私は全然ダメだったけど……広垣くんは仲間内では一番うまかったな、全体的に。お酒は全然ダメだったけど」
ゲームが得意で、下戸。
「父さんはどういう学生だったんですか?」
「そうねえ、あの頃は意識高いとか低いとか言ってたんだけど、広垣くんはそういうのとは関係なく、真面目だったよ。講義サボんないし、ノートちゃんととってるし、単位ちゃんと取ってたし」
「……それが普通じゃないんですか」
「ははは、そういうところは確かに広垣くんの子かも」
小野さんは愉しそうに笑った。どういう言いなのか、僕にはよくわからない。
「あ、あとなんかレポートめちゃくちゃ書く人でさ、私もよく代筆頼んでた」
「代筆ですか」
「そうそう。広垣くんの方から売り込んできて、夕飯一回おごるだけででA+取れるレポート仕上げてくるから、期末になると毎回頼んでた」
当然のことだけど、ある日突然すごい文筆家になった、というわけではないようだ。でも、大学生の時点で、既にそれだけの実力があったということは、僕くらいの年齢の時にはとっくに書く訓練をしていたはず。そう思うと、現状何もできていない自分の身の上に、焦りが芽生えてくる。




