第三章 -7
「ね、遼喜。来て」
翌朝、衣桜が出待ちしていて、僕を昨晩と同じく地下室に連れ込んだ。
周到に内側から物置部屋の床板をはめると、衣桜は父さんの手記を取り出して、ぱらぱらとめくり始めた。
「昨日、あの後、遼喜が持ってきてくれたやつ、全部読んでみたの」
「ぜ、全部読んだの?」
僕は驚いた。文章家の父さん八年分の記録だ。仮に速読をできたとしても、相当骨が折れたに違いない。
でも、衣桜は疲れた様子も見せずに、
「うん。そしたらね、ここまで読めたの」
手記のあるページを指差す。父さんの理性が残っていたのか筆致がまだ安定している部分で、そこから後に行くに従って筆跡が荒れだす。
「ここから先は……自信ない」
その先はもはや文字とは言えない、乱雑な線の交錯がページ一面にのたくり、最終的には赤黒い血のようなインクがぶちまけられている。
「……とりあえず、読むね」
衣桜はそう告げて、朗読を始めた。
八月二日 夜
情報網があてにならない。友人には誰とも連絡がつかず、この騒ぎにようやく気づいたらしいSNSのストリームにはどうでもいい情報やガセがゴマンと溢れている。俺が何かを発信したところで、濁流に呑まれて誰の目につかないことだろう。
現在、俺は陽代と共に、自宅で籠城している。外は錯乱した人間で溢れ、どこから狙われるかわかったものではない。そして何より、陽代の出産が間近に控えているから、動くわけにいかないのだ。予定では昨日だったが、未だに陣痛が訪わず、陽代はずっと顔面蒼白でソファに横たわっている。
私が死んでも子どもだけは、ととんでもなくありふれた台詞を吐く陽代に、まあ考えてみろ、まだなにもかもやってみたわけじゃない、と言ったら笑われた。『ゴドーを待ちながら』ね。でも、知ってるでしょ……救世主のゴドーは、最後まで現れないのよ。
もちろん知っている。あの作品に漂う不条理さも含めて。
俺達が何故、外で暴れている人々と同じくならないのか、心当たりがない。俺達が主人公だからだろうか、なんて栓のないことを考える。
実際、会社からの帰り道、他の無事な人と出会って、その人から家に閉じこもっていたほうが良い旨を教えてもらった。動きまわるよりも、助けを待ったほうが良いぞ、と。
「ホテル・ルワンダ」を思い出すわ、と陽代は言った。これは虐殺なのか、わからない。
「プライベート・ライアン」よりはマシかも知れない、と陽代は言った。これは戦争なのか、わからない。
『ハーモニー』もたくさん人が死んだわね、と陽代は言った。これは自殺なのか、それもわからない。
今、錯乱している人々に、言葉は通じるのかしら、と陽代は言った。
俺は自分の目の前で死んだ女性編集者の話をした。答えは、ノーである。
それじゃあ、思考はあるのかしら、と陽代は言った。
言葉が無理なら、思考も無理だ。
私は違うと思う、と陽代は言った。言葉は思考のひとつの形態だと思う。
こういう見解の相違はいつものことだ。俺としては、言葉で食っている以上、言葉の万能性を擁護しなくてはいけない。
あの人達、ゾンビとは違うのね。まるで、自分が誰なのかわからないことに、抵抗しているみたいな。
陽代は、俺が帰りながら撮ってきた映像を観て言った。俺はそんな会話をどこかで聞いたような気がした。
夜は更けていた。外は騒々しい。
仮眠を取るために、寝室に粗製の鍵を取り付けているときに、ようやくどこで似たようなことを聞いたのか思い出した。
あいつだ。




