第三章 -6
「悲しくない?」
僕は思わず訊いてしまった。なんだか、それはあんまりな気がして。
だけど、衣桜は視線を落として「うーん」と考えた後、
「悲しいというか、可哀想だと思う」
「誰が?」
「わたし」
「……どうして?」
「わたしじゃないから」
僕は軽い目眩を覚えたが、衣桜の使う言葉のルールを冷静に思い出して理解に務める。
よく言うように、「わたし」がわたしで、「君」が僕(遼喜)、というのが、衣桜の世界観だ。「わたし」というのは多分、そのまんま主観者としての衣桜自身のことだろう。
要するに、今の「わたし」であるわたしとは違う人だから、ということ。突っ込んで解釈すると、日鞍衣桜は死んだのだ、ということになりそうだ。
でも、衣桜は衣桜と呼ばれたがっていたから、衣桜ではあるんだよな──ううん、よくわからなくなってきた。
「ねえ、遼喜」
「ん? 何?」
ふと気が付くと、衣桜が僕のすぐ脇に立っていた。
「冷凍庫が見たい」
「ええ、冷凍庫? 台所にあるけど……」
「違うよ! わたしが入ってたやつ」
「あ、ああ……そっちか」
僕はなんだか意外に思いながら立ち上がったが、同時にもう冷凍庫はそこにないことを思い出した。
「ごめん、あの冷凍庫ポストプロテスの人達が持って行っちゃったんだ」
冷凍庫に限らず物品はすべて押収済みで、地下室はすっからかんだ。僕も少し手伝ったが、むちゃくちゃ大変な作業だった。
衣桜は眉を下げて、
「ええ……みんな、持って行っちゃうんだね。まあ、元あった場所でもいいから連れてって」
思ったよりも淡白な反応を見せた。冷凍庫はどうでも良かったらしい。
僕達は地下室に向かった。物置部屋の床板を外すと、真っ暗闇が音もなく現れる。
梯子近くのスイッチで明かりをつけ、僕達は地下室へ下りる。これがミステリーとかだったら、何かしらのイレギュラーがあっても良いかもしれないが、当然なにごともないただのがらんどうだった。
「ほら、ここ」
冷凍庫があった場所は床に凹みがあるのですぐにわかった。
僕が指差してやると、衣桜はまじまじとその空間を見つめた後、何を思ったかそこに体育座りし始めた。
「……」
何も言わずに顔を膝に埋めている。一見すると、まるで僕がいじめでもしたかのよう。
「……けて」
ぼそ、と衣桜が言ったがよく聞き取れなかった。
「うん?」
「あけて」
「あけて?」
「ドア。冷凍庫の」
「冷凍庫って……あぁ、そういうことか」
一昨日、僕が衣桜を発見した時のことを、再現しようというらしい。
僕は、あの時の気分とか冷凍庫の質感とかを思い出しながら、開ける動作をしてみた。やってみると、割とこれが気恥ずかしい。
「開けたよ……」
と、僕が告げるや否や、衣桜はすくっと顔を上げて僕に飛びかかってきた。油断しきっていた僕は、あっさりと尻餅をつかされる。
「ふふふ~」
僕の胸に飛び込んできた衣桜は、僕の顔を見上げてご機嫌な様子。
僕は苦笑いしながら、
「あの時はそんなに余裕そうじゃなかったけど」
「うん、わたし、全然覚えてないんだもん。だから、もう一回やったの」
「そうなんだ……で、どうだった?」
「まあ、こんなもんかな」
「……満足してもらえたなら、付き合った甲斐があったよ」
僕は衣桜の満面の笑みを見て言った。いまいち意図がよくわからないが、これも衣桜にとっては何か意味があることだったんだろう。僕にはわからないが──
「遼喜」
ふと、衣桜が真剣な表情をした。そして、僕の背中に回す手に、ぎゅっと力がこもる。
「ど、どうしたの……」
衣桜の顔が近づいてきて、僕はしどろもどろになる。衣桜の瞳は微かに潤んでいるように見えた。
「どうしてわたしには、遼喜しかいないの」
「え……」
突然の言葉に、僕は絶句する。
衣桜は、僕ではない誰かへ訴えかけるように言った。
「遼喜にはわたしがいるし、家族がいるし、静歌さんがいる。わたしにも、家族がいたし、友達がいたし、親戚もいた。でも、でもでも、わたしには遼喜しかいない。どうして?」
「……」
「遼喜……わたしにはわからない。わたしには遼喜以外の人が……何なのかわからないの。わたしは、遼喜がいないとわたしじゃない。わたしはひとりだとひとりぼっち。わたしは、もう怖いところにいきたくない……また、あの怖い檻の中に戻りたくない。遼喜がいないと、わたし、ずっと怖いの。ねえ、遼喜、どこにもいかないで……わたしのそばにいて……」
衣桜はうなだれて、僕に身体を押し付けてくる。
僕は知った──、「わたし」が衣桜自身で、「君」が僕である彼女の世界観は、衣桜に負担を与えていることを。僕がいなくなって再び恐怖の檻に閉じ込められることを、衣桜はひどく恐れている。
つまり……衣桜は、僕を、恐れているんだ。かつて人々が神を信じ、畏れいていたように。
「大丈夫……僕はどこにもいかないよ」
僕は衣桜の体温を感じながら言った。もちろん、それが上っ面の慰めでしかないのを痛感しながら。
だって、僕にはどうすることもできない。暗がりの中、仄かな光を頼るようにして媛倉へやってきた、足元もおぼつかない非力な高校生だ。僕が「傍にいる」と告げる以外に、衣桜に安寧をもたらす言葉があるだろうか。
「うん……ありがとう」
衣桜は小さな声で言って、僕から離れた。もう一度、冷凍庫のあった場所まで後ずさり、壁に凭れて座り込む。
そして、僕のことを見つめた。
窺うような、もどかしいような、恥じらうような視線。
僕は、ドキリとした。眠れる森の美女も、こんな感じだったのだろうか──と、初めて衣桜を見た時の心情が、ぶわっと溢れ出してきたのだ。
「遼喜……」
「な、何?」
衣桜に呼びかけられて、僕は意味もなく動揺する。
衣桜は視線を逸らして、もじもじと言った。
「あれ、して」
「あ、あれって……え?」
心臓の鼓動が、意味もなく速くなる。
眠れる森の美女……王子様……、「あれ」に収まる単語の可能性が著しく縮まる。
衣桜がずい、と寄ってきて、顔をぐっと近づけてきた。
いや、そんな、まさか。確かに、映画とかだとなんとなく、そういう雰囲気になったらあとはなし崩し的にそういう感じになるけど、いやでも実際になるとなんというかその──僕はどうしたら良いかわからず、ただただ衣桜を見ることしかできない。
そして、衣桜は口を開いて、言った。
「頭を、ぽん、ってするやつ」
「……え?」
「昨日、病院でやってくれたやつ。してほしい……」
顔を赤らめて、上目遣い。
そんなことされて、頼みを断れる人間などいるわけがなかろう。なかろうが──、拍子抜けだった。まあ、それはそれでいいんだけど。全然いいんだけど……。
僕は苦笑しながら、ぽんと衣桜の頭に手を載せ、
「大丈夫。僕はいなくなったりしないよ」
と言うと、衣桜は照れるように笑った。
これが衣桜と僕の、ごく小さな世界。とても優しく、とても儚く、だからこそ、安心できる。
そして、だからこそ不安だった。
僕は布団に入ってから、衣桜の「恐怖への畏れ」のようなものを思う。僕だけが、衣桜が恐怖に沈まないための楔になれるだなんて、随分おこがましくないだろうか。
医師は僕を衣桜にとっての神のような存在だと言ったが、その時点からして僕には荷が重い。重すぎる。
僕にはそんな資格ないのに。まだ僕自身が不安定なのに。
いや──、そうじゃない、と僕は思い直した。僕は、たまたま衣桜の神になれただけなのだ。僕ではない誰かが、例えば静歌でも良い、もしかしたらあの医師だったのかも知れないし、篠園さんだったのかも知れない。僕の母さんでも良かった。
僕じゃない誰かに衣桜が依存しているのを見た時、僕は何を思うだろうか。嫉妬だったりするのだろうか。
それとも、無力感か。
僕は暗がりの中で、長いこと考えていた。




