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第三章 -4

 タクシーを家の前に止めてもらって、トランクから資料を下ろしていると、玄関の戸が開いた。

「遼喜! お帰り!」

 誰かと思ったら、衣桜だった。昨日の病院着姿と違って、Tシャツとショートパンツと随分とラフな格好をしている。

 僕は呆気にとられ、資料を運ぶ手を止めた。

「え……何でここに?」

「静歌に頼んだの。できるだけ遼喜の傍にいたいーって」

「静歌も大変だな……、というか出歩いてるけど、身体大丈夫なの?」

「? 全然平気だよ」

 衣桜は何でもないふうに言うが、普通に考えて、十七年間狭い空間に閉じこもっていた人が、目覚めて二日で立ち歩けるようになるのか。興味津々で資料を覗きこんでいる衣桜を、僕は信じがたい思いで見つめる。

「最新の冷凍睡眠技術では、覚醒後七時間で身体機能を完全に取り戻すことが可能よ。御存じない?」

 耳慣れない声が玄関の方から聞こえてきた。そちらを見ると、見知らぬ女性が開いた玄関の戸に凭れかかっていた。真夏だと言うのにピッチリとしたパンツスーツを着こみ、長い髪をきつく一本に縛り、隙のない目つきで僕を捉えている。

「えっと……そうなんですか?」

「ええ、あまり知られていない事だけど、あなたには知る義務があると思って、中浦遼喜くん」

 そう言って女性は僕の方に近寄って来ると、どこからともなく名刺を差し出した。

「ポストプロテス刑事調査一課課長の、篠園です。宜しくお願いします」

「ど、どうもよろしくお願いします……」

 受け取った名刺には「篠園美祢(しのぞのみね)」と鮮やかな明朝体で書かれている。昨日、末野さんと静歌との会話で出てきた上司の名前も篠園だったけど、話によれば今日は一日用事で来られないってことだったような気がする。

「今日は中浦君に用があって伺ったのですけど、申し訳ないことに私、あと一時間で東京に戻らないといけないのです。なので、手短に、話しましょう。それと、支払いは私が」

 篠園さんはタクシーの代金をカードで払うと、家の中に入っていった。あの言い方からすると、どうやら用事の合間を縫って媛倉まで来たらしい。それなのにあんなに平然としているなんて、なんと恐ろしいバイタリティ。

 とりあえず、僕は資料の山を家の中に急いで運び込む。なんだか篠園さんを待たせるのは恐ろしかったので。台車なしで、十往復くらい。

 僕が忙しなく動いている横で、衣桜は一冊のファイルを熱心に立ち読みしていた。父さんが七年ほどの勤務期間の中で書いた全ての業務日報をまとめたものだった。

「日鞍さん、中に入ろう」

 ほっとくと永遠にそこで読んでいそうだったので、僕は声をかけた。衣桜は顔を上げると「うん」と頷き、小走りに僕の方へ寄ってくる。

「ねえ、あの資料全部読んで良いの?」

「よ、読めるのならいくらでも読んでいいよ」

 想像した以上に食いつきが良かったので、僕は報われた気分になった。酒々井さんに言われたことは少なからずショックだったけど、それでもこれだけの資料を用意してくれたことには感謝しないといけない。

 それから、衣桜は思い出したように、

「あと、衣桜って呼んでくれても良いんだよ」

「え、でも……」

「そっちの方がしっくりくるから」

 そう言って、衣桜は靴を脱いだ。


 僕と衣桜が居間に入ると、篠園さんと静歌が並んで座っていた。篠園さんは相変わらず涼しい顔をしているが、静歌は硬い表情。これでは、どちらがこれから東京に戻るのかわからない。僕らは、そんな対照的な二人の前に、テーブルを挟んで腰かけた。

「先程、日鞍さんとお話させて頂いたのですが」

 篠園さんが口火を切った。さっきとは打って変わった事務的な口調だった。

「媛倉事件に関する調査に、協力して頂けないとのことでした。私どもは民間企業ですし、同意なしに情報を頂くことはできません。が、私どもとしても、恐らく媛倉事件で住民を襲った症状をそのまま保持している可能性のある日鞍さんの協力は是非とも欲しい」

 民間企業、という単語を強調する。一昔前の腐敗した警察機構を意識しているのだろう。

「ただ、先ほど東村の方から興味深い話を聞きまして──中浦さんが、日鞍さんに協力を促せば、日鞍さんは私どもに協力する可能性が高い、と。それは確かですか?」

 篠園さんは僕を見た。何気ない視線だったが、知らず僕の緊張の線がピンと張る。目だけ静歌の方に向けると、強張った表情のまま小さく首を横に振った。私にはどうにもできない、と最小限の動きで表現している。

「えっと……多分、僕が協力してくれ、と言ったらしてくれると思います」

「ならば、そうしてください」

 篠園さんは躊躇なく要請してきた。あまりの単刀直入さに、僕は逃げ場を一瞬見失う。だが、すぐに言い分をかき集めて、頭の中でセリフにする。

「でも……僕がそうして彼女にさせた同意は、果たして本人の意思に基づいた同意と言えるのですか?」

「では逆に聞きましょう。日鞍さんの現在の状況、これも本人の意思に基づいたものなのですか?」

「……どういうことですか」

 異様に早い切り返しに、僕は動揺する。

「東村に聞いた話によれば、日鞍さんの当初のスタンスは『中浦さんの傍にいたい』というものです。そこであなたは自分の傍にいるよう促した。だから、彼女はこの家にいるわけですよね……するとどうでしょう、最初から彼女の意志は存在しないことになる。より突っ込んで言えば、日鞍さんの意志とあなたの意志はイコールであるということです。つまり」

 篠園さんはテーブルに身を乗り出し、急に声音を柔らかくして言った。

「私は最初から、あなたの意志を問題にしてるの。というよりも、私からすれば意志などというものからしてどうでもいい……真実の前では何の価値もない障害に過ぎないわ」

 意志など真実の前では無価値である、と。

 篠園さんは、全く本気でそう思っているらしい。そうでなければ、そんなことをわざわざ今の場面で言う必要はない。

 僕はまた視線を静歌に向けた。静歌もまた視線を思い切り明後日の方向に逸らしていた。

 僕はひしと実感する。確かに、この人は敵に回るとマズいタイプだ。語りの圧力がすさまじく、それだけで僕はもう身動きがとれなくなっている。次の一言がかかった時、僕はイエスと言わざるを得なくなるだろう。

 次の一言とはつまり。

「なので中浦さん、ご協力のほどお願いします」

 一転して、堅い口調。差し出される契約書。

 一応、文字面に目を走らせるものの、内容が全く頭に入ってこない。多分、あなたの話した情報は弊社が云々、あなたから得られた情報は弊社が云々……と、書いてあるんだと思う。

 要するにこれは、同業他社から引き抜かれないように、僕らをポストプロテスに釘付けにする楔だ。これにサインすると、一連の報告書がポストプロテスから発表されるまで、関係者には守秘義務が生じる。つまり、情報の独占権。ポストプロテスとしては、他の調査会社に僕らのことを横取りにされる前に、抑えておきたいのだ。

 そして、署名と同時に衣桜はポストプロテスの保護下に置かれる。この家にはいられなくなる。

「……」

 正直、僕はサインしたくなかった。

 だけども、篠園さんの眼差しは僕に逃げ場を残していなかった。

「お使い下さい」

 篠園さんは、高そうなボールペンをテーブルの上に置いた。僕が署名をしない展開など予想だにしていないらしい。その気遣いが更なるプレッシャーを与えてくる。

 僕は場に流されてそれを受け取った。同時にちらっと、ここに名前を書いてしまえば少なくとも今のこの状況から解放される、という念が起こってしまう。頭の中ではしたくないと思っているのに。

「あの」

 突然、衣桜が口を開いた。僕と静歌と篠園さんは揃って衣桜を見る。

「私、今、遼喜が協力しろ、って言っても協力しないと思います」

 平然と、衣桜は言ってのけた。僕の背筋に冷たいものが走る。横目で篠園さんの表情を窺ってみると、不思議そうに眉を上げているだけで、落ち着き払っているように見えた。

「それは、何故?」

 篠園さんが訊く。衣桜は練習してきた台詞を読み上げるように、

「遼喜が本心から言ったのではないと丸わかりだからです。それは遼喜ではなく、ポストプロテスさんの意志であると、丸見えだからです。それは私の道徳に反しているので、了解することはできませんし、それに」

 衣桜はそこで一呼吸置いた。

「私にはこの一週間で手記を翻訳し、それを遼喜に伝える義務があります。だから……あと、残る四日間待ってもらえれば大丈夫なのです。そうすれば、遼喜も私をポストプロテスさんに行かせる意志ができるでしょう」

 まるで翻訳文のような台詞を滑らかに喋ると、衣桜は役目を終えたように黙りこくった。

 そう、そもそも「今すぐ」という制約さえなければ、こんないざこざが起こることもないのだ。たった一週間、時間を与えてくれれば何も問題なく、むしろ喜んで協力に同意するだろう。

「そういうわけにもいきません」

 が、篠園さんは譲らなかった。

「重大な証人が現れたという報せは、既に各業界に通達されています。我が社の人間はもちろん、医療関係者や学者、一部のマスコミ関係者が、あなたの協力を得られる前提で待機している状態です。にも関わらず、何も得られない状態が一週間も続くとなると、その誤差は我が社の信頼に小さくない傷を与えることになります」

 調査会社の最大の資本、それが「信頼」だ。調査会社のブランド力は他の業界と比べ物にならないほど、大きな影響力を持つ。それは何も外向けのイメージとしてだけではなく、内部での連携力に関わってくることでもある。

 世間での一週間ならば、確かに大したことはない。しかし、プロの世界での一週間は思ったよりも重い。

 というのは、僕が後になって飲み込んだことだが、びっくりするほど筋は通っている。

 だけど、衣桜は即答した。

「そんなことは知りません。私が知っているのは、遼喜のことだけです」


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