第九話 甘い香り①
「明日、期待してるから」
昼に聞いた彼の言葉が、頭のなかでこだまする。
うだるように熱い家路を、ため息と、少しのときめきと共に進んでいく。
ジュースじゃない、お昼に渡すのに適しているもの……。
そこまで高価じゃなくて、気軽に渡せるような……いや、気軽過ぎても……。
彼の発言一つにこんなに頭を抱えるなんて。
自分でも馬鹿らしいってわかってる。それでも、恋の力なんだから。
「……そうだ」
交差点に差し掛かった時、右に曲がろうとする足を呟きと共に止める。
視界の端で、キラリと光る真夏の太陽に微笑んでから、私は左へ歩き出した。
◇◇◇
家とは反対方向にあるスーパーへ着くころには、すっかり空はオレンジ色で。
ウィィィン、と音を立てて開くドア。
そこから一歩中へ足を踏み入れると、凍ってしまいそうな冷気が身体を包む。
私は鳥肌が立った腕を擦りながら、傍にあったプラスチックの籠を掴んだ。
卵、砂糖、バターに薄力粉。
携帯電話片手に製菓コーナーの棚から商品を籠へ投げ込んでいく。
お菓子作りなんてガラじゃないことなんて、そんなのは理解してるけど。
これをあげたら彼が喜んでくれるんじゃないかなんて考えたら、もう。
不意に、彼へお菓子を上げているところが思い浮かんで。
あの爽やかな笑顔で微笑む彼を想像したら、つい、笑みがこぼれた。
◇◇◇
「ただいまー」
私のバテ気味の声が、誰もいない家へ響いた。
ローファーを足だけで揃えて二階の自分の部屋にあがって、荷物を置く。
いつもは手ぶらの両手には、今日は少し重いレジ袋が握られていて。
「四限のおわり三分前ー、斜め後ろの君へ微笑むー」
ご機嫌に流行りのポップチューンを口ずさみながらリズムよく階段を下りると、
さっきまで人がいたのか、心地よい冷気が流れ込んだ。
ガサガサ、と袋から材料を出してキッチンへ置くと、
私は一人、小さくガッツポーズをしてから薄力粉の袋へ手をかけた。
ボウルへ粉をふるって、卵を混ぜて。
視界が薄力粉で白く染まったり、お気に入りのエプロンが汚れても、気にしない。
……だって、明日には君の笑顔が見られるんでしょう?
もし私がこれを上げたら、君はなんて言ってくれるんだろう。
おいしいって笑ってくれるのかな。頑張ったねってほめてくれるのかな。
……気が付くと、彼のことばかりを考えてしまって。
昨日はあんな風だったけど、やっぱり、彼のことが大好きなんだな、と改めて思った。
決して、初めての恋なんかじゃない。
それなりに恋はしてきたし、交際経験だって少ないけれど、あるのに。
___あんなの、はじめてだった。
なんとなく、本当になんとなくだけど。今思い返せば、あれは運命だったんじゃないかって。
彼を見た時の、あの、きゅんと胸が締め付けられる感覚。
そんなの、これまで経験したことなんかなかった。
昨日までのあの淡い気持ちは、もしかしたら幻だったんじゃないかってくらいに。
ふへへ、とつい頬が緩む。
そんな物思いに耽っていた私の鼻腔を、甘い香りがくすぐった。
「あ、オーブン!」
お菓子の焼け具合を見るのを忘れていたのに気が付いて、
私はあわてて目の前のオーブンを覗き込む。
……幸い、オーブンの中のカップケーキは綺麗な色をしていて。
「はぁ、よかった……」
私は安堵のため息を付くとともに、自分の不注意加減に呆れて肩を落とす。
「駄目だぞ、鈴岡楓! これは慶斗君にあげるカップケーキなんだから!」
むに、と頬を摘まみながら自分を叱ると、なんだか笑えて来てしまって。
ふふ、と静かに笑いを零していると、私の背後から声が聞こえた。
「誰? その"けいと"って奴」