第十話 甘い香り②
「誰? その"けいと"って奴」
その低い声に吊られて振り返ると、そこには一人の男の姿。
白眼がちな目をけだるそうに細めて、ため息交じりにネクタイをほどいている。
「あ、しゅう。お帰り」
へにゃ、と笑って手を振ると、彼は無言で頷いてこちらへ近寄ってきて。
なんとなく私が椅子を立つと、彼はどこかの国の王様のような態度でオーブン前を陣取った。
「姉ちゃん、今度は焦がしてないんだね。ま、彼氏に上げるなら当然だけどさ」
「え? 彼氏? 誰が?」
ポカン、とアホ面で私が聞くと、彼はすました顔で「違うの?」と呟いた。
「さっき姉ちゃんが言ってたけいとって奴」
「ち、違うって!! 慶斗君はただの友達なの! ちょ、ちょっと借りがあってね」
顔を真っ赤にしながら私が否定すると、彼はまた無関心層に相槌を打つ。
自分が聞いといて、なんて腹を立てても、こいつには通じない。
もう何年も生活してきてそこに気が付かないほど馬鹿ではないから。
視線を下げて物思いに耽っている私に、彼は呆れた顔でため息をついた。
「別に姉ちゃんの学校生活に口出すわけじゃないけどさ、
もうすぐ期末もあるんだし、そんな浮ついてばっかじゃいられないんじゃないの?」
怪訝そうにオーブンの中をこまめに覗きながら制服のシャツを脱ぐ彼。
彼が手をかけているシャツには、地元の進学校の校章が刺繍されていて。
……私が、行けなかった学校の校章が。
柊にそれを自慢する気がないのは理解しているし、今だって狙ってやったわけではないだろう。
それでも、やっぱり「受験に失敗した姉」と「成功した弟」の間には溝があって。
もうあれから一年以上たっているんだから割り切らなきゃいけないなんてわかってるのに。
それでもやっぱり、あの高校への憧れは拭い去れなくって。
……そんなことを考えているうちに積もるのは、弟への嫉妬心と、劣等感だけ。
慶斗君を見た時とは、似ているようで全く違う、ぐっと心を締め付けられる、この感じ。
喉がカッカして、目頭が熱くなって、鼻が嫌な音を立てる、やな感じ。
柊に気づかれないように静かに深呼吸をするけど、全然落ち着かなくて。
そんな私に気がついてか、いつも冷静な彼がなんだかソワソワしはじめた。
「あ……あの、姉ちゃん。俺、そこまで言うつもりじゃなくって……」
いつもよりうんと気弱な、泳ぎがちの目。
……わかってる。あんたのせいじゃない。
今私がこんなにも苦しいのは、自分の狡さと、弱さのせいだから。
大丈夫だよ、そう言いかけて開いた口から言葉が出てくることはなくて。
変わりに出てくるのは、小さな嗚咽と、大きなため息だけ。
ポタリ、ポタリとキッチンの床を濡らすのは、私の涙。
とうとう泣き出した姉にもうどうすれば良いかわからない柊。
早く泣き止まなきゃ、そう思えば思うほど、涙は底なしに溢れてきて。
段々と嗚咽が大きくなってきたころ、不意に私の視界を深い白が覆った。
鼻先で感じたそのにおいは、幼い頃から知っている、柔軟剤と柊のにおい。
懐かしい気持ちが胸いっぱいに広がって、私は赤ん坊の様に泣きじゃくった。
「ごめんね……私っ……」
「姉ちゃん」
すぐ間近で感じた、弟の真剣な声。
涙で滲む視界の向こうを覗くと、そこには柔らかく微笑んだ柊が居て。
「……そんな簡単に謝っちゃだめだよ。
泣きたいときは泣けばいいの。俺たち、兄弟なんだから」
彼の優しい言葉が、じんと胸に響いた。
久しぶりに抱きしめた弟の体はいつの間にか私よりもずっと大きくなっていて。
頼もしさや逞しさを感じるとともに、少しだけ、胸のどこかに寂しさを感じた。
「柊……。ありがとね」
少しだけスッキリした顔で私が呟くと共に、オーブンがチーン、と無機質な音を立てた。
ふわりと漂う、甘い、甘い香り。
「あ、焼けたよ」
オーブンを指さして目を細める彼に、私はいつもより、ずっと素直に微笑んだ。
「柊、いっしょにたべよ」




