12/04 Sat.-2
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むくり。
朝10時ちょうど。
カイトは、まるでからくり時計のように顔をあげた。
「うー…」
重い頭を手で支えるようにしてうなる。
寝ちまってたか。
大きな手で、自分の顔を押さえつけるように撫でた。
指先に力を込めて。
ようやく、頭が少し働き始める。
久しぶりに、机に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。
クリスマス合わせのゲームの納期以来か。
ノートパソコンの電源は入れたままだったが、画面は宇宙空間になっていた。
スクリーン・セイバーのせいである。
言うことを効かない指を伸ばして、キーボードの上にバンと手を置く。
別に押したいキーがあったワケではない。どれでもいいのだ。
その動作で、ぱっと画面が呼び戻される。
宇宙空間が終わり、宇宙ステーションが―― というワケではないが、最後に開いていた画面が現れた。
アルファベットと記号のラレツ。
昨日意識がすっ飛ぶ前まで扱っていた、新しいルーチンのソースのコピーである。
これを改造していたら夜が明けた、ところまでは覚えていたのだが。
暖房はつけっぱなしだったので、寒くてカゼをひくなんて心配はなかったけれども、やはり無理な姿勢で寝ていたせいか、首だの背中だのバキバキになっている。
「んぅ…」
うなり声をまたあげながら、カイトは首を回した。
淀んでいた血液が回り始めて、感覚が全部戻ってくる。
ん?
カイトは眉を顰めた。
戻ってきた感覚の中に、味覚というものも入っていたのだ。
口の中に、カレーの味が微かに残っていたのである。
寝る気なんかなかったカイトは、歯磨きをしていなかったのだ。
カレー。
思い出して、カイトはもう一段眉を寄せた。
夜中。
どうしても耐えきれずに、調理場に行ってしまったのである。
夜遅くまで起きていたせいで空腹になったのだ。
カレーが鍋に残っていたのは、ちゃんとカイトは覚えていた。
しかし、誤算があった。
一杯くらいなら食べてもバレないだろうと思っていたカイトは、しかし、食べ始めたら止まらなくなってしまったのだ。
ハッ、と気づいたら、鍋は空っぽ。
ジャーも空っぽ、という最悪の事態だったのである。
朝起きてきたメイにバレてしまうのは必至だった。
しかし、ないものを復活させることは、ゲームの中ならいざ知らず、現実社会に生きている彼には不可能なことであった。
バレても知るか!
ついにはそう開き直って、カイトはそこを出て行こうとしたが戻ってきた。
食べ終わった皿だの鍋だのが、そのままだったのである。
クソッ。
何でオレが、皿なんざ。
洗わなければならないのかと、悪態をつきながらも、カイトはじゃぶじゃぶ洗い始めた。
しかし、カレーがこびりついていて、そのままでは綺麗にならない。
そこらに置いてあった洗剤をぶっかけて、またじゃかじゃか洗う。
イモを洗うのだって、普通の人はもっと丁寧にやるだろうが、彼はしょうがなくやっているに過ぎないのだ。
そこまで気を回せるハズもなかった。
汚れたまま置いていけば、メイがまた後かたづけをしなければならないのだ。
こんな、冷たい水で。
台所回りについて、まったく頓着したことがなかった。
だから、ここの蛇口から水しか出ないということを知らなかったのである。
ガスともつながってないし、湯沸かし器もないのだ。
元々新築だったワケではない。
一応、自分の生活する辺りは、いろいろ手を入れて改造はしたけれども、使うアテなどほとんどない調理場には何もしなかったのだ。
湯も出ねーのかよ。
道理で。
カイトは思い出した。
最初、メイがシャツのシミヌキをして戻って来た時―― 指が、物凄く冷たかった。
ハラが立つ温度だ。
こんなに冷たい水を扱えば、あんな冷たさになるのも当たり前である。
洗い終わって、そこらに皿を置いた時にはもう、カイトの指はジンジンしていた。
いつも、こんな冷たい思いをしていたのだ。
すんな!
また、その言葉が胸をよぎる。
んなことすんな!
けれどもそれを言うと、とても困った顔をするのは、最初から分かっていた。
簡単にその顔を、右脳に再現出来るのだ。
きっと隠れてでも洗うに決まっているである。
メイは、ちっともカイトの言うことなど聞かないのだ。
はがゆい。
まさしく、その言葉が胸を逆巻いてしまう。
クソッ。
冷たい手を持ったまま、カイトはもう一回そう唸った。
キーボードを円滑に入力できるようになるまで、少し時間が必要だった。
それで、ついでにバイク通勤の初日を思い出してしまって、またムカつく。
あの時も、指がしばらく言うことを聞かなかった。
指も記憶も、メイも。
何も思い通りにできない自分のはがゆさに、カイトはその鬱憤をパソコンにぶつけたのだった。
いま見てみれば―― ところどころ、意味不明の命令を入力しているのが分かる。
ムスッとしたまま、パソコンの画面を眺めた。
これでは、絶対にコンパイルした時にエラー続出だろう。
昨夜、自分の頭がかなりおかしかったことの証拠を見せられた気分で、カイトはそのファイルを閉じた。
保存もせずに。
おかげで、改造は全てパアだ。
また一からやり直しである。
クソッ。
口の中のカレー味を感じる度に、またカイトの中でイライラのゲージが上がっていくのだ。
かなりよろしくない心理状態だった。
この味をなくしてしまおうと、立ち上がった彼は洗面所に向かう。
歯ブラシを口に突っ込んだまま、部屋に戻ってくる。
洗面所の方が寒いのだ。
その時、庭の方が騒がしくなった。
落ち着かない犬の吠え声が、何度も何度も繰り返されるのである。
カイトは――犬が嫌いだ。
特に吠える犬など、大嫌いである。
おまけに、小型犬特有の金切り声のような吠え方だ。
カイトの神経に突き刺さる。
きっと、どこからか庭に迷い込んだのだろう。
犬嫌いの彼のところに来るなど、いい度胸である。
イライラしていたカイトは、ガシガシと歯を磨きながら、窓辺に立った。
外は寒いだろうに、まったくもってこたえている様子のない小さな犬。
そいつが、庭を飛び跳ねながら吠えていた。
ノーテンキそのものな様子だ。
寒さも省みずに、窓を開けた。
一発怒鳴って追い払おうと思ったのだ。
しかし、内心で舌打ちする。
いま歯ブラシをくわえていたことを思い出したのだ。
歯ブラシを取ったとしても、口の中は泡立っているのである。
どうすべきか迷った一瞬、空白時間があった。
「しーっ! お願い、静かにしてー」
だから、下の方からの小さな声を聞くことが出来たのだ。
ドキッとした。
その声は、間違いなくメイのものだったのである。
「お願い…ご飯の残りをあげるから…ね?」
彼女の姿は見えない。
一階のどこかの部屋の窓を開けてか、もしくは調理場の勝手口の辺りにいるのだろう。
犬は、ちぎれんばかりにシッポを振って、声の方へかけていく。
「お願いだから…静かにしてね。まだ眠ってる人がいるの…吠えないでね」
なだめすかすような声だ。
しばらくすると、再びカイトの視界に犬は現れたものの、もう吠えることはなくどこかへ消えてしまった。
カイトは。
歯ブラシをくわえたまま、立ちつくしていた。
身体が一気に冷えていくことも気づかずに、ぼーっとそこにいた。
また。
一つ、胸に石が積まれたのが分かった。




