12/04 Sat.-3
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2階は相変わらず静かだ。
よかった、まだ眠ってるのね。
メイはホッと胸をなで下ろす。犬があんまり吠えるものだから、あれで起きてしまったんではないかと思って心配だったのだ。
朝の10時だ。
犬の吠え声で起こしてしまうのも可哀相だったし、彼女の方も、まだ全然掃除が済んでいないのだ。
それに、この格好を見られたら、また怒鳴られるかもしれない――そんな予感があったのだ。
実はそれは考えすぎで、本当は何の問題もないのかもしれない。
作業服姿なメイを見ても、何も思わないかもしれない。
けれど、この姿を見られるのは、オトメとしてちょっと恥ずかしいところはあった。
起きてきたら、着替えよっかな。
彼女は、ちょっと自分の姿を見やった。
調子に乗って掃除をしているので、すでにジーンズの膝はいい感じに汚れていた。
でも、これはジャブジャブ洗濯しても大丈夫なものなのである。
その事実は、ちょっと嬉しかった。
さて。
まだまだ磨くところはたくさんあるのだ。
月曜日に来たハルコに、『まあ、綺麗になったわね』と言ってもらえるように頑張ろうと、そんな空想をしながら掃除の続きに取りかかったのだった。
「うーん…」
メイは、調理場の床と格闘していた。
冷蔵庫の真ん前である。
何かがこぼれてこびりついたのか、そこだけ薄汚れているのだ。
前から気になってはいたのだが、今回ようやくそれに集中出来る。
普通の雑巾ではダメで。
洗剤をちょっとつけて、ごしごしとこする。
そのまま、何度も何度もごしごしと。
「あ…ちょっと取れた」
ぱっと顔を輝かせた。
洗剤の通った後だけ、ほんの少し元の色を取り戻したのだ。
どうやら、やり方としては間違っていないようである。
「よかった…」
再び洗剤を雑巾につけながら、続きをやろうとした。
視界に。
何かが見えたりしなければ。
あれ?
メイは、それが一瞬何か分からなかった。
視線を横に動かすと、わりとすぐ側にあった。
黒い――靴。
メイは視線を少しずつ上げた。
靴には脚がついていて。脚の上には胴体がついていて。胴体の上には。
その瞬間、メイは硬直した。
そこにカイトがいたのである。自分を見下ろしている角度の彼が。
しまった。
床磨きに夢中になっていたメイは、周囲の音をよく聞いていなかったのである。
だから、彼が階段を降りてきたり、廊下を歩いたり、ここまで来る間に気づかなかったのだ。
ど、どうしよう。
ゼンマイが動き始め、硬直からパニックになったメイは、けれども、彼が怒らないかもしれないという一抹の望みにつなぐことにしたのだ。
とにかく、普通と同じように朝の挨拶を、と思ったのである。
彼女は、慌てて立ち上がった。雑巾を握りしめたまま。
「あ、あの! お…はようございます!」
大丈夫大丈夫と、ドキンドキンと早鐘を打つ心臓を騙しながら、勇気を振り絞って挨拶をし、彼を見た。
視線が。
カイトの視線が、眉を寄せたまま上から下に、下から上に彼女を舐める。
怪訝と不機嫌の表情のまま、ジロジロと観察されるのだ。
メイにしてみれば、たまらない。
彼の視線は普通でも強いのに、いつもよりももっと強いレーザーみたいな目だったのだ。
しかし、その表情が思い切り歪んだ。
怒鳴る寸前見たいな表情に、自分が地雷を踏んだことに気づいたのだ。
やっぱり、この格好がお気に召さなかったのだ。
手が、伸びてくる。
あっ!
メイは声を出せなかった。
カイトの手が伸びて。
視線でそれを追いかけるよりも先に、自分の手に強い力がかかったのが分かった。
雑巾が奪い取られたのである。
「すんなっつってんだろ!」
怒鳴り声つきだ。
奪われた雑巾を、ようやく視線で追うことが出来た。
それは不規則な軌跡を描いて、壁にべちゃっと張り付いて落ちる。
カイトが投げつけたのだ。
「あっ…でも!」
とにかく言い訳をしようとした。
掃除をしていただけなのだ。
どうしてそんなに怒るのか、今日こそはちゃんと聞こうと思っていたのいである。
カイトが優しいのは分かるけれども、掃除をしたくらいでここまで怒るのは、彼女にだって普通じゃないと分かるのだ。
理由はちっとも教えてくれないのである。
いま怒ってる裏に、本当にこめられている気持ちが知りたかった。
なかなかそれを見せてくれないから―― メイは、いまのカイトを翻訳したかったのでだ。
しかし、次の瞬間はすでに手首を掴まれていた。
「…!」
びゅんっと、脚が一瞬宙に浮いてしまうんじゃないかと思うくらいの強い力で引っ張られた。
そのまま、ぐいぐいと引っ張られていく。
「あっ…あのっ! あの…!!」
見えるのはカイトの背中だ。
明らかに怒っている。
どう見ても怒っている。
もうメイの方なんか振り返る様子もなく、強い力だけで連れていかれてしまうのだ。
ちょっとでも、脚を止めようものなら転んでしまいそうな勢いで廊下に連れ出され、階段に差し掛かり、もつれる足で何とか階段をついていった。
どこに。
どこに連れて…。
カイトの部屋の前に来る。
一瞬、そこかと思ったけれども、彼は素通りして行った。
止まったのは――メイの寝起きする客間の前だった。
そこでようやく足を休めることの出来た彼女は、弾んだ息を整えるヒマもなく、彼がまったくもって不躾にドアを開けたのを知ったのだった。
うそ。
メイは、びっくりした。
カイトが彼女の部屋に入っていくのだ。自分を連れたまま。
どうして、この部屋に。
そう考えても、分かるハズもない。
連れ込まれるなり、手が離される。
踵を返したカイトは、バン! と乱暴にドアを閉めて振り返った。
灰色の、目。
射すくめられて、メイは身動きが出来なかった。
一言でもしゃべったら、その色の中に飲み込まれてしまいそうだったのだ。
死刑宣告のように、怒鳴りを押し殺した声が言った。
「脱げ」――と。
あ…。
メイは、まばたきが一回出来た。
その後、二度、三度と繰り返すことが出来た。
まぶたでシャッターを切るように、いま目の前で怒っているカイトを焼き付けていく。
彼は何を言っているのか、いや、それは分かっていた。
服を。
脱げ、と言っているのだ。
この人の前で、服を。
確かにメイは、ここに来る前にはランパブにいた。
見られたくない人にだって、見られてしまうようなあざとい露出の激しい格好で。
だからと言って、そんな姿に慣れているワケではないのだ。
誰に見られても平気というワケでは決してなかった。
あぁ。
メイは目を伏せた。
何を考えているのかと思ったのだ。
この人になら――いいのだ。
この人ならイヤじゃないのだ。
たとえ、どんな気持ちでその言葉を言っていたとしても、カイトになら。
ちょっとだけ瞼が熱くなった。
でも、胸のどこかが悲しがっているのだ。
カイトへの気持ちを抱きしめて、この事実がどこか嘘ではないのかと、彼はそんな人ではないと叫んでいるのだ。
それを押し殺して、くるりとカイトに背中を向けた。
震える指で。
トレーナーの裾に触れた。




