11/30 Tue.-17
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パソコンの前に座っていたカイトは、いきなり立ち上がって彼女の方へと突進してくる。
さっき彼の背広を拾った時と同じように。
テキトーに座れって…。
心の中で、彼の言葉への言い訳をするのだが、それが通用する様子もなかった。
物凄い速さで前まで来ると、がしっと腕を掴まれて立たされる。
そのまま、ぐいぐいと引きずられて。
転ばないように急ぎ足でついていく。
あっと思ったら、身体が放り出されていた。
バフンッ!
しかし、痛くない。
彼女の身体は、ソファがしっかりと受け止めてくれたのだ。
「座るっつったら、フツーそこだろ!」
イラついた口で早口でまくしたてる。
テキトーって。
メイは、まばたきをした。
そのまばたきすら、カイトに比べればきっと遅いのだ。
あっという間に背中が向けられて、彼は机に戻った。
彼の言うテキトーって。
ちゃんと、心の中では決められた場所があって、そこのことを指すのね。
メイは、いままでのいろんな彼の言動を並べてみて、その事実に気がついた。
詳しくしゃべらないけれども、カイトにとって、いつも答えは一つのようだ。
メイは、それを間違うから怒鳴られるのである。
国語的な意味なら、彼女は何も間違っていないハズだった。
しかし、相手は数学の教師だったのである。
χって何でもいいや、と思っていたら、そのχに入る数字は、教師にとってはたった一つで、間違った生徒にはビシビシと叱咤が飛んでくるのだ。
仕事場で、彼に部下がいるなら大変なことだろう。
『テキトーにやっとけ』
とか言うのだ、きっと。
想像して、メイはちょっと青くなった。
それこそ、本当にテキトーにやろうものなら、いまと同じ憂き目にあうのだろう。
言葉が下手で短気。
これは、すぐに人に見える部分だけに、かなりマイナスだ。
でも…。
メイは、ソファから彼の背中を見ていた。
会社でパソコンを触ったことはあった。
それは、ちゃんと使いこなせるということではないが。
だから、すぐに気づいた。
彼は――左利きなのだ。
マウスが、そっち側にある。
目にも止まらぬ速さでマウスが動いていく。
画面を、本当に見ているかも分からないほど速く、めまぐるしく色が変わる。
でも。
左利きという、一つ発見があった。
その事実が嬉しくて、ちょっとだけにこっとしてしまった。
しかし、慌てて笑顔を引っ込める。ジロジロ見ていた上に、笑っていたところなんか彼に見られたら、また叱られてしまいそうに思えたのだ。
その発見は嬉しかったが、それだけではなかった。
結局彼は、メイをソファに座らせてくれた。
途中経過は、短気で口べただったかもしれない。
けれども、結果を見れば、確かにそうだ。
本当は、とっても優しい人なのだと。
それが身体にしみてくる。
いけない、いけない。
慌てて、胸の中の船の重石を増やす。
少しずつ、カイトのことが分かっていく。
でも、それは全然イヤじゃなかった。
最初は、確かに怖かった。
しかし、一度怖いが外れてしまうと、驚かされることはあっても、どれも胸がジンとする。
いま、自分がソファにいる事実だけでも、このありさまだ。
そのせいで、決して気持ちを彼に見せたりはできないが、メイは心の中の船を、いま以上沈められずにいたのだ。
そのまま、しばらくじっと彼の背中を見つめていた。
退屈はしなかったが、振り返りそうな気配がして、慌ててメイは視線をそらした。
あぁ…。
そうなると、いつでもカイトが振り返りそうで、彼の方を見られなくなってしまう。
途端に、何もすることがないことに気づいたのだ。
昼間、ハルコが持ってきてくれた本は、彼女がどこかに片付けてしまったのか、もう見えない。
本当に、座っていることしかできなかった。
家ではこの時間、何をしていただろう。
後かたづけをしたり、洗濯物をたたんだり、テレビを見たり。
あ、編み物…途中だったっけ。
メイは、ぽつっと思い出してしまった。
ただテレビを見るのは手持ちぶさただったので、彼女はセーターを編もうとしていた。
編み上げるのを待たずに、世界が急転してしまったのだ。
とか、考えることもそう長くはもたない。
すぐにまた、彼女は退屈になってしまった。
チラッ。
カイトの方を見ると、まだマウスを操作している。
その、カチカチという音しか聞こえない部屋。
彼は、まだシャツ姿だった。
シャツが汚れていることを思い出した。
茶色のカシオペアだ。
あのままじゃ、シミとして残るんじゃないかと気になる。
けど、言えない。
でも、シミになったら、あんなに白いシャツのあんな目立つ場所だから、二度と着られなくなっちゃう。
すごく気になる。一度気になり出すと、もう止められない。
ああ、そうだ。
そこで、メイの頭の中で電球が光った。
真正面に言ったら、彼に叱られるだろう。
しかし、彼女はいい方法を思いついたのである。
うまくすれば、そのシャツのシミを落とせるかもしれなかった。
「あ…あの」
代わりに勇気が必要になる。
朝、彼のネクタイを締めた時のような勇気が。
ピタリ。
カイトは、彼女の声に止まってしまった。
動かしかけていたマウスが、本当に時を止めたように。
もしかしてタイミングが悪いんじゃないかと心配になったが、喉に勇気を込める。
「あの…お風呂に…そう、お風呂に入られません?」
これが、メイの考えた作戦だった。
まず、カイトをお風呂に入れる。
勿論、シャツは脱ぐだろうし、別のものに着替えるから、シャツは脱衣所に置いてくるだろう。
後からメイがお風呂を借りて。
その時にお風呂場の中で、シャツのシミへの応急処置をしておく。
そして、脱衣所に戻しておけば。
多少はシャツが濡れるけれども、きっとカイトは、それに触らないだろうからバレたりしないに違いない。
完璧な計画だと思って、ちょっとだけ彼女は嬉しくなった。
けれど。
物凄く戸惑った目が、彼女を見たのだ。
さっきの言葉に、どう反応したらいいのか分からないような顔。
あれ?
自分が変な言葉を言ってしまったのかと、彼女は首を傾げようとした。
すると、カイトはまた背中を向けてパソコンに戻る。
「入りてーなら、入ってこい」
それが返事だった。
あ。
分かった。
メイは、分かってしまった。
自分がお風呂に入りたいから、家主より先に入るワケにはいかないから、カイトにお風呂を勧めていると思われたのだ。
あ、そうじゃ…そうじゃないの。
穴ボコだらけの計画に、自分でハマってしまったことに気づく。
いや、確かにカイトより先にお風呂には入れないと思っていた。
当たり前のことだ。
彼女の立場は、とても複雑で微妙なのだ。
客でもないし、友達でもない。
保護者と被保護者というのが一番近いのだろうか。
たとえ、それだとしても余りに不安定だ。
社会上のサインが何一つなく、全てカイトの胸一つにかかっているのである。
けれど。
彼は優しいから、出て行けとは言わないだろう。
それは、さっきの事件で分かった。
もう、あんな迷惑はかけないようにしなくちゃ。
ぎゅっと心を戒めて。
けれども、まだカイトのシャツの件は解決していない。
なのに、もう計画を実行出来る言葉を見つけられないのだ。
また、カイトが振り返った。
今度は、あの戸惑った目じゃない。
不機嫌な、いつもの目だ。
「フロ入ってこい」
メイが一向に立ち上がらないのでシビレをきらしたのだろう。
遠慮していると勘違いしているのだ。
そうじゃない、と言いかけたのだけれども、カイトがもう一度同じセリフを――前よりもイライラして繰り返したので、慌てて彼女は脱衣所に飛び込むハメになったのだった。
こんなハズじゃあ…。
脱衣所で、メイは白くてシミのないワンピースを眺めながら、ため息をついた。
しかし、お風呂に入らずに、脱衣所を出て行かなければならなかった。
着替えを持っていくのを忘れたのだ。