11/30 Tue.-15
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うれしい、うれしい、うれしい!!!
メイは、調理場の流しのところで思い切り喜んだのだ。
やっと。
やっと一つだけ、カイトの役に立てたのである。
お皿を洗うなんて、メイにとっては本当に大したことじゃない。
いつもやっていたことで、身体が自然に後かたづけを始めようとしていた。
しかし、カイトはそれすらダメだというのである。
彼女がお金のことを気にしていると思ったのだろう。
勿論、気にしないでいられるハズもない。
けれども、こんな些細なこともさせてもらえないなんて、自分の存在価値に関わるのだ。
ようやくカイトから皿洗いの許可が出た。
それが嬉しかった。
カイトのためになること。
一個ずつそれを、彼女は増やしていきたかった。
カイトに、こいつを助けてよかった、と思って欲しかった。
後悔なんかさせたくなかったのだ。
たった一つだけ。
でも、大事なひとつ。
凄く嬉しくなって、皿洗いに取りかかる。
洗剤にスポンジに――何だか、すごく久しぶりな気がした。
ハルコが手入れしているだろう流しは、蛇口を開くのをためらうくらいに綺麗で。
けれども、そうも言ってられない。
カイトに5分というタイムリミットまで、おまけにもらってしまったのである。
でも、でも。
メイは袖口を曲げて、水を出す。
本当に、嬉しくてしょうがない。
そりゃあ。
確かに、まだ胸の中で沈めた思いは完全に見えなくなってはいない。
どこでつっかえているのか、彼女の胸の途中で深度を止めたまま。
でも、きっと。
これからゆっくりでも、それは沈んでいくのだろうと思った。
いつもと同じ後かたづけ。
でも、いつもと全然違う。
場所だとか、そういうものじゃない――あの人のために。
それで、胸がいっぱいになるくらい嬉しかった。
ツルツルのキラキラのキュキュッと音がして、顔が映るくらい綺麗に皿を洗い上げて、メイは食器乾燥機に入れた。
でも、扱い方が分からない。
やっぱり出す。
使い慣れないものを使って、壊しでもしたら大変だからだ。
明日、ハルコに使い方を聞こうと思った。
思いながら、かけてある白いふきんを取る。
お皿を回しながら、水分をふき取って流しの横に重ねる。
どこにしまったらいいのかも、まだ彼女は知らなかったのだ。
もう一度、最後にぎゅっと蛇口のしまり具合を確認して、別の台拭きで流しの中を拭き始める。
ハルコがあんなに綺麗にしていたのである。
彼女が使った後は、余計に手間がかかるとか思われたくなかったので、一滴も残らないくらいに拭き上げる。
いい、かな?
メイは、流しの中をのぞき込んだ。
しかし、彼女の手はまだ濡れたままだった。
タオルを探そうとキョロキョロとした瞬間。
あっ!
メイは驚いた。
カイトが、壁によりかかってこっちを見ていたのである。
ギクッとしてしまう。
ついつい嬉しくて、一生懸命になって、彼との約束の時間を忘れていたのである。
きっと、タイムリミットを告げにきたのだ。
いや、とっくに過ぎてしまっていたに違いない。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて、メイは頭を下げた。
「あやまんな…」
ぶすっっっ。
すごく不機嫌そうに、そう言う。
でも怒鳴るじゃなかった。
逆に、彼がとても怒っているように思えて悲しくなる。
一つ役に立てたと思ったら、すぐこれだ。
「気は…済んだのかよ」
そのグレイの目が、横を向く。
うまく言葉が言えないかのように、唇の端が歪んでいる。
「はい…ありがとうございました」
きっと、この人はとても損をしているのだと、メイは思った。
本当はとても優しい人なのに、それをうまく表現できないのだろう。
だから、いつもあんな乱暴な言葉になってしまうのだ。
彼女に仕事をさせないように怒ったのも、きっと違う意味合いの優しさなのだ。
カイトの道は、とても速く――ムービングロードの上を、更に走ってるみたいに思える。
メイの道は、舗装もされていない田舎道で。
遠くには行けないけれども、ずっとのんびり歩いていける。
そんなに違う道が、交差する瞬間があったのが不思議でしょうがなかった。
多分、それは。
一生に一瞬だけの交差だったに違いない。
パチン。
カイトはいきなり、ここには用はないと言わんばかりに調理場の電気を消す。
まだ、メイは中にいるというのに。
いきなりのことに、ビックリする。
光は、ドアからダイニングのが漏れ入るだけ。
彼の姿が、黒い塊になった。
不安が、どっと押し寄せる。
ベッド以外の場所を、いきなり暗くされるのは、すごく苦手なのだ。
たとえどこかに光があっても、自分の側にないのは不安で。
明かりがついている時とは、その場所の表情が全然違って、知らないところのように思えた。
カイトが壁から動き出すより先に、メイは慌てて調理場から逃げだした。
そうして、明るいダイニングに飛び込む。
ドキドキしながら、振り返って暗い地獄の縁を見ると。
カイトが闇の中から、怪訝そうに首を傾げながら出てくる。
彼女の逃げ出した理由が分からないのだろう。
「あ…暗いのは…ちょ、ちょっと…」
聞かれてもいないのに、慌てて言い訳をするのは、また怒られてしまいそうだったから。
しかし、しゃべっても怒られそうな気がするのは何故なのか。
カイトの眉が揺れる。
「で、でも…そんなに怖いワケじゃないんですよ。オバケの話とか聞かない限りは…あ…えっと……その」
何を言ってるんだろう。
焦れば焦るほど、自分が物凄く間抜けな話をしているような気がする。
おまけに、この年になって『おばけ』だなんて。
すごく、子供っぽいことを彼に教えるようなものだった。
「行くぞ…」
しかし、カイトはそのコトについては言及してこなかった。
怒りもしなかった。
ただ、不機嫌な表情のまま彼女の先を歩いて、ダイニングを出ようとするのである。
まだ、テーブルの上も拭いていないのだが、それをカイトの背中に伝える勇気は、メイの中にはなかった。
けれども、カイトが背中を向けている間に、ささっとテーブルの上の保温プレートの電源を切った。
そうして、また怒鳴られる前に小走りについていく。
ちょうど彼は、後ろが静かなのに気づいたようで、ドアのところで振り返った。
何とも言えない顔だ。
振り返り慣れていない顔、というか。
また、部屋の電気を消されてはたまらないので、メイは大慌てでドアまでたどりつく。
止まったままのカイトを見上げて。
そこで。
彼女も、カイトにどんな顔を向けていいのか分からなくなった。
怒鳴っていない彼なのだ。
怒鳴っていなくて、苦手そうに振り返って待っていてくれた彼に――どんな顔を。
うっかりすると、また心に沈めた沈没船が浮き上がってきそうだった。
「あ…あの…電気…この部屋の電気、どこですか?」
その感覚が落ち着かなくて、メイはキョロキョロした。
じーっと見られているのが分かる。
ああ、やめてやめて、そんなに見ないで。
心を見ないで。
見られているような気になる。沈みかけた船の、水面を向いている舳先を。
ここを暗くして、彼に自分を見られないようにしてしまいたかった。
さっきの怖さなど吹っ飛んで、メイは辺りを探す。
でも、そういう時に限って部屋のスイッチが見つからない。
カイトは。
そのまま、彼女に背中を向けて歩き出した。
あれ?
メイは驚く。
怒鳴られなかったのもそうだけれども、何よりも、この部屋の電気をつけっぱなしで。
電気を。
「あ、あの…!」
背中に向かって呼びかける。
返事は。
「いーから、早く来い!」
クソッとかいう言葉が、おまけについてきそうな忌々しそうな声だった。