11/30 Tue.-2
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ガン。
後ろ手でドアを閉めながら、カイトは廊下に立った。
室内とはうって代わって、とんでもなく寒い。
当たり前だ。
もう11月も終わりで、しかも今は朝なのだ。
寒くなっていて当然である。
天気のいい昼間とはワケが違った。
ぶるっと、カイトは首筋を震わせる。
立てたままの襟で、まだ言うことをきかないネクタイを何度か触ろうとしたが、結局やめた。
どうせ、いま締めたとしても窮屈なのだ。
必要になった時だけ締めればそれでいい、と思ったのである。
こんな格好は、本当に大嫌いだった。
だから、昨夜のような憂さ晴らしをしてしまうのである。
昨夜の――
階段を下りかけたカイトは、ふと足を止めて振り返ってしまった。
さっき自分が出てきたドアである。
これから出かけなければならず、時間ももうそんなにない。
けれども、後ろ髪が引かれてしょうがなかった。
何を、考えてんだ!
いまから、カイトは仕事で。
ネクタイを締める仕事の時は、他社が絡む対外的な仕事だということだ。
余程重要なものでなければ、面倒なので相棒――シュウ一人に行かせるのだが、時々あの男は、「これは社長が出るべきです」と言って譲らない。
それが、今日だった。
昨日でもあった。
ハードメーカーが、新しいハードを作成して販売することが決定し、新発売の時に合わせて、彼の会社から対応ソフトを出せというのである。
要するに、ソフト欲しさにハードを買わせるというやり方だ。
事実、それはいろんなケースで実を結んでいる。
誰も、ハードの能力が欲しいワケではないのだ。
楽しいゲームをしたいだけなのである。
ここで、新ハードの性能とやらを、カイトも見抜いてこなければならなかった。
まだ、その馬に乗ると決めたワケではないのだから。
その大事な打ち合わせの日。
何を、こんなところで立ち止まってグズグズしているんだ、オレは。
カイトは、振り切るように前を向き直った。
そうして、改めて階段を下り始めようとした。
下でシュウが待っているハズである。
ガチャ。
なのに、おそるおそるという雰囲気でドアが開いたのだ。
彼の背中で。
途端、凍ったカイトの身体。
後ろのドアなど開くはずがない。
この家には、カイトとシュウしか住んでいないのだから。
だから、そのドアを開けられる人間などいない――ただ一人を除いて。
氷が溶けるなり、バッとカイトは振り返った。
ドアから、黒い頭が出ていた。
首だけ出してキョロキョロしている。
その茶色の目が、カイトで止まった。
ドキン。
視線に縫い止められたように、カイトは動けなかった。
「あ…あのっ……」
声が呼ぶ。
間違いなく、カイトに向かって。
彼が反応できずにいると、ドアの影から身体を滑り出して、小走りで近づいてくる。
シャツ一枚の姿で。
「ばっ! 何で出てくんだ!」
はっと戻ってきた意識をぶん殴りながら、カイトは怒鳴った。
とてもじゃないが、シャツ一枚で寒くないところではないのだ。
いや、それ以前に、余りに頼りない姿なのである。
「すぐ…戻りますから」
すみません。
たたっとカイトの真ん前まで来ると、ぺこんっと一つ大きく頭を下げる。
いきなり、手が。
彼女の白い両手が彼に伸びてきた。
思わず、身体が後ろに傾ぎそうになる。
あやうく階段からダイビングしそうになって、慌てて手すりに捕まった。
「どうしても……あ、すぐ終わりますから」
その手が、カイトの首に。
触んな!
カイトは、身体が石像になったような気がした。
そう思っても動けなかったのだ。
触れられたのは、彼の首――ではなく、ネクタイだった。
「あの…ネクタイ……すみません」
自分でも、何を言っているのか分かっていないような、慌てた唇。
けれども、手だけは魔法のように動いていく。
引っ張って、くるっと回して、すっと入れて。
きゅっと締めて。
「あ……苦しくないです? ごめんなさい!」
絶対、彼女は自分の発言を分かっていない。
そのセリフが最後だった。
メイは、もう一度ぺこっと頭を下げると、たたたっとまた小走りで廊下を駆けて行ってしまったのである。
ひらめくシャツの裾。
パタン。
ドアが閉まった。
ぽけっ。
カイトは、まだ階段で立ちつくしていた。
いま、何が起きたのかまったくもって分からなかったのだ。
まるで一時の鳩時計だ。
一回だけ飛び出してすぐ消えてしまう。
気づいた時には、もう視界にはいないのである。
二時が来るまで待つしかないのだ。
けれど、カイトにとっての二時は、もっとずっと後だった。
「カイト…」
下から呼ばれる。
時間がありませんよ、という声だ。
「わーってる!」
まず、会社で企画会議がある。
新ハードメーカーとの打ち合わせのための、社内打ち合わせがある。
昼食会があって、それからメーカーとの本番の打ち合わせ。
下手したら、その後接待に連れ込まれる可能性がある。
もしかすると、シュウのスケジューラーには、そこまで組み込まれているかもしれなかった。
頭の中で、今日の仕事がグルグルと回る。
なのに、立ちつくしているのだ、自分は。
胸にぶら下がっているものを引っ張る。
ネクタイだ。
しかし、さっきまでと何よりも違うものだった。
そのまま手を上げる、その喉元。
結び目に触れた。
いつも、自分でイヤイヤ締めるより、シュウに無理矢理締められるよりも、もっと細い結び目。
もっと苦しくない締め方。
まだ、そこに彼女の手の感触が残っているような気がした。
んなコトするために、わざわざ。
カイトのネクタイを結ぶために、わざわざあの格好のまま、部屋を飛び出してきたのである。
階段で止まっていなければ、きっと彼女はカイトを捕まえることは出来なかっただろう。
彼は、とても短気なのだから。
「カイト」
誰よりも今、カイトを捕まえたがっている男は、階下にいた。
階段の登り口の側まで来ているのが、声の届き具合で分かる。
「るせぇ! だぁってろ!」
邪魔すんな!
カイトはまた怒鳴り返した。振り返りもせずに。
邪魔……すんじゃねぇ。
結び目に触る。
昨夜から暴れていた感情は、まだ彼の中にある。
あのメイという女に向かうと、自分がおかしくなるような気がした。
けれども。
この結び目に触っていると、何か分かるような気がしたのだ。
彼は、見逃した鳩を見るために、もう一時間待ったりする性格ではないのだ。
機械をいじるのは得意だ。
バラせるなら、すぐにでもドライバーで家をへっぱがして、鳩を引きずり出すだろう。
しかし。
心の中の鳩時計をバラしたことはなかった。
しかも、中の鳩は――彼が、いままでに見たこともないチョコレート色の鳩。
「カイト…」
もう待てませんよ。
彼の不興を買おうが何だろうが、職務を遂行する律儀な彼の相棒は、ついに階段を登ってきた。
ドライバーを持ったままの彼は、フタが開く気配のない鳩時計を睨むしか出来ないのである。
クソッ!
分解するには、いまは本当に時間がなかった。
がっと、カイトは前に向き直り、階段を駆け下り始めた。
すぐにシュウと出会うことが出来る。
今日は、一段と忌々しい顔に見えた。
「何をしていたんで……」
階段の途中で言葉を続けようとする彼を無視して、横をすれ違うように降りていく。
シュウも続いて降り始めた。
「珍しいですね、そんなに綺麗にネクタイを締めているなんて」
玄関口のところでそう言われて、ムッとした。
見んじゃねぇ!
不可能なことを内心で怒鳴りながら、彼は玄関を強く開けた。
室内よりも、もっと冷たい空気が頬を叩く。
このネクタイの結び目を、誰にも見られたくなかった。
そんなことは、不可能だ。
ネクタイの結び目は、人に見せるためにある。
それ以外では、ただ無駄な長いヒモなのだ。
けれど。
見られずに済む方法があった。
シュウが後ろにいるうちに――カイトは、ネクタイを解いてしまった。
指が。
少し震えた。