11/30 Tue.-1
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「起きてください……そろそろ時間ですよ」
意識が、ずぶ濡れのまま池から引きずり上げられる。
ずっしりと水を含んだかのように重く、出て来たがらなかった。
全然睡眠が足りないと、身体が悲鳴を上げているのだ。
「いくら、あなたの準備時間でも……そろそろ限界です」
声が近づいてくる。
誰?
寝返りをうった。
あおむけになるように。
そうして、目を開けようとした。
でも、すぐには開かなかった。
生まれたての子犬のように、瞼がぴったりとくっついて、ついでに意識の方向もめちゃくちゃなのだ。
「はやく……?」
声と足が止まった。
「あなたは…誰です?」
そう、限りなく怪訝な声で聞かれた次の瞬間。
ぱちっと目が開いた。
がばっと飛び起きる。
「え…あ…?」
枕返しという言葉がある。
起き抜けに、いろんな記憶が抜け落ちることだ。
勿論、本当に抜け落ちているのではなく、ただ一瞬何も分からなくなるだけ。
自分が誰で、ここがどこで、そうしていまが何なのか。
慌ててキョロキョロと頭を巡らせた。
ベッドの側に、誰か立っている。
彼女は――自の名前が、メイであるということを思い出した彼女は、視線を足元からゆっくりと上に上げた。
男。
眼鏡が見えた。
綺麗に撫で付けられた髪も。
だが、眼鏡がきらっと反射してその奥が見えない。
「あなたは……誰です?」
もう一度、彼は聞いた。
今度は怪訝ではなく、不審そうな声である。
「あ……あの……私は……」
そう言いかけたが、自分が何一つ説明する言葉を、持っていないことに気づくのだ。
ここがどこで、何でここにいるのか分からないのである。
これは、枕返しのせいではなかった。
昨日から。
そう、昨夜からずっと分からないままだったのだ。
確か。
メイはソファの方へと目をやった。
そこに、この事情を説明できるだろう人がいたことを思い出したのである。
慌てて視線を投げやったにもかかわらず、ソファはもぬけの空だった。
う……ウソ。
信じられない光景に、メイは固まった。
彼が、いないのだ。
カイトという男が。
代わりに、知らない男とこの部屋で二人きりである。
しかも、相手は彼女の存在を聞いている様子もないのだ。
ど、どうしよう。
パニックを起こしかけたメイだったが、その意識を救ってくれるものがあった。
床である。
床に、彼が昨夜脱ぎ捨てただろうシャツが落ちていたのである。
幻ではなかったのだ。
カイトは、確かに存在した。
「説明が出来ないのなら、警察を呼びますよ」
なのに、メイが言葉を出すより前に、男は淡々と言葉を続け始めた。
眼鏡のズレを手で直しながら。
そこで、初めて反射が消えて目が見えた。
切れ長の、暗い藍色の目。
凄んでいる様子はない。
ただ、冷静な色だった。
「あの…」
メイは、その目に圧されて言葉に詰まった。
「警察を呼びましょう」
にべもなかった。
彼は、すっと携帯電話を取り出したのである。
ピッと電子音が鳴って。
背中が、すっと冷たくなった。
どうしよう――そう思いかけた時。
ガチャ。
ドアが、開いた。
あ!
メイは、見た。
ドアから出てきた人間を映した瞬間、昨夜自分の胸が覚えた二回の鼓動を聞いた。
彼は――バスルームから出てきた。
バスローブ姿で、タオルをかぶったまま。
何気なく歩いていたその足が、ぴたりと途中で止まる。
グレイの目が、ベッドの方に注がれていた。
怪訝そうな目。
その表情が、直後、一気に眉を寄せた。
「何やってやがる!」
カイトは、かっと目をむいてタオルを投げ捨てるやいなや、物凄い勢いで駆けてくる。
メイは、びくっと身体を硬直させた。
また、何か気に障ることをしたのだ。
そう思ったのである。
「てめ…何してやがる!」
しかし、次の怒鳴りは自分にではなかった。
慌てて顔を上げると、携帯電話を持っていた男が、カイトに胸ぐらを引きずり降ろされるように引っ張られていた。
カイトより背が高い男の頭を、強い力で自分と同じ高さまで落としているのだ。
「不審な人物がいたので、警察に通報しようとしていたところですよ」
しかし、相手はまったく怯まない。
まるでそれが義務であると言うかのように、真実を曲げもせず答える。
「ヨケーな真似すんじゃねぇ!」
ばっと胸ぐらを突き飛ばしながら、またカイトは怒鳴って。
「ここは、オレの部屋だ。オレの部屋に誰がいようと、おめーがケイサツに通報する必要はねぇ!」
指を突きつけるようにして、マシンガンのごとくわめき立てた。
「それでは……あなたがここで強盗に襲われていたとしても、警察には通報しなくてもいい、ということですか?」
対照的に静かな声が、カイトの穴だらけの理論を引き裂く。
常識で考えても分かりそうなことだ。
「バカヤロウ…分かってんじゃねーか……その通りだぜ」
しかし。
カイトと言う男は、冷静な対応に怯むことなどなかった。
それどころか、堂々と言い返したのである。
メチャクチャな理論のまま。
ふぅ、とノッポの男はため息をつく。
しょうがない、と言った様子だ。
「分かりました……覚えておきます。では、あと15分したら出ますので、用意をお願いします。今日もネクタイをお願いします」
納得したワケがない。
なのに、男はそれだけを言うと、もう何事もなかったかのように、スタスタと部屋を出て行った。
その背中をカイトは睨んでいる。
何?
メイは、いま自分の目の前で繰り広げられた出来事を、呆然と見ていた。
口を挟む隙間も、意識を挟む隙間もなかったのである。
ものすごいラリーの応酬だった。
相手の男はリターンを返すばかりだが、カイトは毎回スマッシュだ。
とんでもないラリーである。
目をパチクリさせていると、彼がそんな自分を振り返った。
慌てて、目をそらす。
彼を見ると、何故か胸が二回打つのだ。
その感触を覚えることが恥ずかしかった。
「あ……」
彼は、何か言おうとしていた。
メイは身構える。
心の準備なんか出来ていなかった。
たとえ、言われる言葉が何であったとしても。
「うー…チクショ…時間がねぇ!」
しかし、いきなり唸りだしたかと思うと、最後はひどく早口になった。
そのまま、バタバタと動き出す。
ガタンとクローゼットを開ける動きがあった。
音に脅かされて、そっちを見てしまう。
ガチャガチャっ音をさせながら、スーツやシャツを引き抜き、彼はまたバスルームに逆戻りしていった。
バタン!
すごい勢いでドアが閉められる。
メイは、まばたきをした。
あんなに早回しで生きている人とは、縁がなかったせいもあるが、その速度に頭がついていけなかったのだ。
中で、騒々しく着替えをしているような音が聞こえる。
彼女は、ただぼけっとそのドアを見ているしかないのだ。
バタン!
再び、ドアが開いて出てきたカイトは、さっきまでとまるで見違えていた。
スラックスにシャツに背広に。
シャツの襟が立っているのは、ネクタイを結んでいる途中だからか。
器用そうな指なのに、ネクタイの先をあっちに回したりこっちに回したり――基本的に、はめ慣れていないようだ。
すごく、面倒でイヤそうな顔をしている。
あ。
メイは、ぱっと顔を伏せた。
いま、一瞬自分の頭によぎったことが信じられなかったのである。
手伝ってあげたかったのだ。
メイの父親は不器用で、ネクタイを自分で結ばせると、どうしても妙な形になってしまっていた。
母親が早くからいなかったせいで、彼女がよく直してあげていた。
しかし、それはすごく出過ぎたことだ。
まだ、立場すら分かっていない自分の言うことじゃない。
でも。
ちらっと、盗み見る。
チッと舌打ち一つして、カイトはネクタイを結ぶのをあきらめたようだった。
首からぶら下げたまま、背広の上着のボタンも開けっ放しのまま、彼は部屋を出て行こうとしたのである。
あ、待って!
メイは、反射的に呼びかけようとした。
これからの自分の処遇を、何も聞いていないからだ。
しかし、その声を飲み込んだ。
ドアに手をかけた時、彼の方が先に振り返ったからである。
「ここにいろ! いいな!」
言葉は、確認じゃなかった。
それはもう、命令である。
彼女が何か考えるよりも、カイトの動きの方が相当早かった。
風のようにドアの向こうに消えてしまった。
ネクタイ……
ぶら下げられたままのそれが、瞼に残って――メイは、自分の今後のことを考えるのが遅くなってしまった。




