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第一話 半ズボンのおじさん、登校する

目が覚めた。


天井が、低い。


いや、低いっていうか、近い。


……なんだこれ。


昨日の夜は、コンビニのチューハイを二本飲んで、スーツのままソファで寝落ちした。たぶん。


そこまでは覚えてる。


なのに、なんでオレは布団にいるんだ。


しかも、この布団、やたらとちっちゃい。


足がはみ出してる。膝から下が、完全に布団の外で冷えてる。


体を起こして、自分の体を見下ろした。


「……は?」


半袖。


半ズボン。


しかも、なんかのヒーローがドーンとプリントされてる。


黄色いヒーローが、オレの胸のあたりで、めちゃくちゃ誇らしげにポーズを決めていた。


やめろ。


こっちを見るな。


37歳の胸板で、そんなに堂々とするな。


太ももはパッツパツで、ズボンの裾が食い込んでいる。ソーセージの気持ちがわかった気がした。


いやいやいや!


落ち着け、オレ。


これは夢だ。そうだ、夢。


疲れすぎて、変な夢を見てるだけだ。


ほっぺたをつねってみた。


痛い。


もう一回つねってみた。


やっぱり痛い。


「ヒロキー! いつまで寝てんのー!」


階段の下から、女の人の声がした。


心臓が、ドクンと跳ねた。


知ってる声だ。


でも、ありえない。この声は、もう何年も、電話越しにしか聞いてない。


「ヒロキー! 遅刻するよー!」


ヒロキ。


オレの名前だ。


ドタドタと階段をのぼる足音がして、ふすまが、バンッ! と開いた。


「ちょっと、まだ寝てんの!? 顔洗って、はやく!」


母さんだった。


エプロンをして、髪をひとつに結んで、右手におたまを持っている。


若い。


若すぎる。


たぶん、三十代半ば。


……オレより、年下じゃん。


「か、母さん」


「なに?」


「あの、オレ、37なんだけど」


「え、熱?」


母さんは、おたまを持ったまま、ぺたっとオレのおでこに手を当てた。


「37度か。平熱じゃない。はい、元気!」


「いや、歳が!」


「ばかなこと言ってないで、ほら。給食袋ちゃんと出した? ハンカチは?」


話が通じない。


というか、通じてるのに、ぜんぜん噛み合ってない。


母さんは、オレの顔を見ている。


37歳の、無精ひげが生えた、目の下にクマのあるオレの顔を、ちゃんと見ている。


それなのに、まったく驚かない。


どうして。


わからない。


「ほら、ぼーっとしない! 味噌汁さめるでしょ!」


母さんは、そう言って、バタバタと階段を下りていった。


ひとり残された部屋で、オレはしばらく固まっていた。


壁に、時間割が貼ってある。


「5年2組」って、マジックで書いてある。


机の上には、ランドセル。


赤くない。黒でもない。なんか、くすんだ紺色。


そうだ。


オレ、これ、使ってた。


胸の奥が、ぎゅっとなった。


うれしいのか、こわいのか、自分でもよくわからない。


たぶん、両方だ。


その胸の奥のぎゅっを、押しのけるみたいに、部屋の外から声が飛んできた。


「ヒロキー! ごはんー!」


「……はーい」


返事をしてから、気がついた。


声が、低い。


小5の「はーい」じゃない。37歳の、おじさんの「はーい」だった。


でも、母さんは、何も言わなかった。


階段を下りると、味噌汁のにおいがした。


わかめと、豆腐と、ちょっと焦げた油揚げのにおい。


……やばっ。


マジで、このにおいだ。


夢にしては、においがリアルすぎる。


なんなんだ、これ。


わからない。


でも、とりあえず、腹は減っていた。


階段を下りて、居間に入った。


ちゃぶ台の上に、朝ごはんが並んでいる。


白いごはん。わかめと豆腐の味噌汁。卵焼き。焼いた鮭。


新聞を広げた男の人が、ちらっとこっちを見た。


父さんだ。


若い。


髪が、ふさふさしている。


「おう、ヒロキ。寝ぐせすごいぞ」


「あ、うん」


「お兄ちゃん、おそーい!」


ちゃぶ台の向こうから、ちっちゃい生き物が叫んだ。


妹のミキだ。


小2。前歯が抜けている。


そうだった。こいつ、昔はこんなにちっちゃかったんだ。


今は都内で二児の母をやっている。オレより、ずっとしっかりしてる。


ミキは、オレの顔をじーっと見て、首をかしげた。


「お兄ちゃん、声ヘン。かぜ?」


「え、あー……」


「変声期かな」


母さんが、お茶碗をよそいながら言った。


「えー、はやいなあ。ヒロキも大きくなったもんだ」


父さんが、新聞から目を離して、うんうんとうなずいている。


いや、「はやい」の問題じゃない。


オレの声は、もう二十年以上前に変わってる。


そう言いたかった。


でも、三人とも、すごく自然に笑っていた。


だから、言えなかった。


「……いただきます」


とりあえず、卵焼きを口に入れた。


甘い。


砂糖が多めの、ちょっと焦げた、母さんの卵焼き。


「……っ」


やばっ。


目の奥が、つーんとした。


なんでだ。


ただの卵焼きなのに。


コンビニの卵焼きなら、何回も食べてる。味もほとんど覚えてない。


でも、これは違う。


ずっと、食べたかった味だった気がする。


胸の奥が、ぎゅっとなった。


「どうしたの、ヒロキ。まずい?」


「ううん。……うまい」


「当たり前でしょ。毎日同じ味だもん」


母さんが、笑った。


毎日、同じ味。


そうだよな。


当たり前だったんだよな、これ。


「お兄ちゃん、泣いてる?」


「泣いてない! 味噌汁の湯気が目にしみただけ!」


「そんなに湯気、出てないよ?」


ミキ、鋭い。


さすが、将来のしっかり者。


ごはんのあと、母さんに言われて、着替えた。


椅子の背に、服が置いてあった。


白いTシャツと、紺色の半ズボン。


Tシャツの胸には、でっかく「GO! GO! 5年生!」って書いてある。


なんだこれ。


そんなこと、書いてあるシャツがあるのか。


しかも、サイズが小さい。


小さいというか、もう、「着るというより、巻きつく」に近い。


腕を通すだけで、肩がミシミシ鳴った。


半ズボンは、太ももがパツパツで、座ったらそのままちぎれそうな予感がする。


鏡を見た。


無精ひげのおっさんが、「GO! GO! 5年生!」を着て、立っていた。


……。


終わってる。


人間として、何かが終わってる。


でも、母さんは鏡の前のオレを見て、


「うん、かっこいい!」


と言った。


かっこよくない!


どこがだ!


どこが、どうなったら、かっこいいんだ!


「ほら、ランドセル」


渡されたランドセルは、思ったより軽かった。


玄関で、ふと気になって、中を開けてみた。


教科書。ノート。筆箱。


そして、その下に。


見覚えのあるものが、入っていた。


黒い二つ折りの財布。


オレの財布だ。


37歳の、オレの。


「……なんで入ってんの」


開けてみると、免許証も、保険証も、ちゃんと入っていた。


現金は、3284円。


ほんと、これだけか。


「……いや、この年になって、財布の中身、これだけなのか……」


なんか、タイムスリップしても、そこだけ現実だった。


そのとき、名刺入れの中の一枚が、ちらっと見えた。


『サクマ文具販売 営業第三課 佐久間宏樹』


取り出して、じっと見た。


ああ、そうだ。


オレ、こういう人間なんだった。


今月も、ノルマ、ぜんぜん足りてなくて。


上司に、会議のたびにチクチク言われて。


飲み会の誘いも、行っても行かなくても、居心地が悪くて。


……って、今、そんなこと考えてる場合じゃない。


名刺をそっと財布に戻して、ランドセルの底にしまった。


なんとなく、見られたくなかった。


誰に、って話だけど。


「ヒロキー! いってらっしゃい!」


「いってきまーす」


玄関の戸を開けた。


外の空気は、ぬるくて、ちょっと草のにおいがした。


通学路は、思ったよりずっと、ちっちゃかった。


電柱も、ブロック塀も、全部、記憶よりちょっとずつ、低い。


いや、オレがでかいんだ。


ただ、そう思うと、なんかさびしくなるから、考えないことにした。


「あら、ヒロキくん! おはよう!」


向かいの家のおばちゃんが、ほうきを持って手を振ってきた。


「あ、おはようございます」


「今日もはやいねえ。えらいねえ」


はやくない。


むしろ、遅刻ギリギリだ。


あと、無精ひげは、スルーなのか。


おばちゃん、視力、大丈夫か。


ツッコミたいのに、おばちゃんがニコニコしてるから、結局「どうも」って頭をさげて通りすぎた。


なんなんだ、この世界。


みんな、オレを「小5のヒロキ」として、完璧に扱ってる。


変だと思ってるのは、オレだけ。


これ、もしかして、オレのほうがおかしいんじゃないか?


……いや、おかしいのは、どう考えても、この世界のほうだ。


たぶん。


「ヒロキー!!」


うしろから、でかい声が飛んできた。


振り向くと、ランドセルを背負った男の子が、全力で走ってくる。


まるっこい体。丸い顔。頭は坊主。


「ブッチ!?」


思わず叫んだ。


ブッチ。


本名は、渕上。みんなから、ブッチって呼ばれてた。


「おそいぞー! なにやってたんだよー!」


「え、あ、ごめん」


「てかさ、昨日のテレビ、見た!? あれ、やばくなかった!?」


「え、昨日? えーと……」


覚えてない。


当たり前だ。27年前の夜のテレビなんて。


「……すっげーやばかった」


「だよな!!! まじでやばかったよな!!!」


ブッチは、めちゃくちゃうれしそうに、オレの背中をバシバシ叩いてきた。


痛い。


でも、なんか、ありがたい。


オレの胸のあたりに目をやって、ブッチは、


「その服、いいじゃん! GO! GO! 5年生! ってさ!」


と、本気でうらやましそうに言った。


うらやましいのか。


これが。


「……だろ?」


って、返してる自分が、情けない。


もうちょっと、こう、あるだろ。

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