開始
体の症状を考慮して、クレスからは極力魔法の使用をしないように言われたが、使ってはいけないとは言われていなかった。だから、ちょっとした魔法の使用なら、大丈夫だろう。と、思いたい。
まさか魔法を使うだけで、いちいち発作が起きるなんてことはないと思うけど。一応、クレスの薬の小瓶をもらっているから、最悪の事態にはならないけど。
エルザには、いったん保護所の外へ行ってもらい、私は触媒が残っていた床板に指をあてた。
「あまり使ったことのない魔法だけど、まぁ大丈夫よね。」
床板には、何者かが施した魔法がある。その魔法を調べるのは難しいけど、魔法がかかっていることがわかっていれば、突破方は存在する。
「・・・我が眷属よ来たれ、親愛なる聖獣」
私が詠唱を唱えると、触れていた床板から、黒い靄の体をした猿の頭が、にゅっと姿を現した。
「バンビ、お願い。」
守護獣に声をかけると、彼は僅かに頷いて、床板の中に消えていった。それを見届けてから、私はなるべく音を立てないように玄関を飛び出た。外ではエルザが待っていて、すぐに二人で身を隠せる建物の影に入った。
バキャッ!という大きな破裂音と共に、児童保護所の中で一瞬、光が閃いた。
「・・・?何をされたのですか?」
「床板をね、少し、壊したの。」
床板に魔法がかかっている場合、それそのものが破損した場合、魔法そのものが解けるわけではないが、魔法に乱れが起きて、正常に機能しなくなったりする。確実に、とはいかないが、それでも、その魔法をかけた魔導士が気づかないはずがない。そうなれば、異常がないかどうか確かめに、向こうから姿を現してくれるだろう。
しばらくすると、再び児童保護所の中で光が瞬いたと思うと、少しばかり騒がしくなっていった。
「出てきたわね。」
夜なため、ここからでは姿は確認できないし、話し声もうっすらとしか聞こえてこない。私とエルザには。
「っ、出来てきます。」
玄関が開き、数人の男女が姿を現した。見覚えは無いし、彼らが誰なのかはわからないけど、見るからに魔導士、といった出で立ちで、指輪や耳飾りと言った魔法触媒を装備しているようだった。全身をローブで覆って、そそくさと保護所から離れていった。
「・・・・・・行きましたね。今のうちに。」
「え?ですが、侵入方法が。」
「大丈夫。ついてきて。」
エルザを伴って、私たちは再び児童保護所の中へ忍び込んだ。先ほど守護獣に壊させた床板まで来ると、そこでじっと待っているバンビの姿があった。そのバンビの頭をポンポンと撫でてやると、彼は尻尾を私の腕に絡ませて、先ほど起きた出来事を思念で伝えてくれた。
「・・・身隠しの魔法。・・・詠唱は、・・・大地の真実、虚空に隠されし道を、解き放たん。」
バンビから伝わってきた言葉を、そのまま口にすると、床板に暗い渦が現れた。直径1メートルほどの渦には、うっすらとだが、向こう側の景色が映っていた。
「・・・・にゅー、だれかいるのぉ?」
子供の声がした。寝室から子供が迷い込んだのだろうか?
「エルザ、この中に、早く!」
エルザを押し込むように渦の中心へ行かせると、黒い渦を踏みしめた彼女の体はそのまま自然落下をするように渦の中へ吸い込まれた。
「バンビ、後をお願い。」
私はその場でじっと待っている守護獣にそう言い残すと、同じく渦の中へ入り込んだ。
渦の中を通っている感覚は、決して濡れることのない水の流れに、身を任せているような感じだった。前方の方には、先に入ったエルザの姿が見える。そして、彼女の姿がぱっと消えたかと思うと、瞬く間に白い光に包まれていた。
光が目に慣れてくると、そこは全く別の空間に出ていた。建物の中なのは間違いないだろうが、土壁の中でもない。私はてっきり児童保護所の地下に空間があるものだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。まったく別の建築物。作りはいい。クルルアーンにあるとは思えないくらい精巧な造りをした建築物だった。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
「ええ。どうにか、成功したみたい。」
エルザに手を貸してもらいながら立ち上がって、私はその部屋の中を見回した。
明らかに金持ちそうな部屋だ。壁には獅子の模様が施された大きな盾が飾られていて、隣には、剣や己が並べられている。一見、騎士団の応接間のようにも見えるけど、肝心の鎧が飾られていないところをみると、少し違うのだろう。権力者がこういうものを飾ることはよくあることだ。
「お嬢様はこちらを。」
エルザに手渡されたのは短刀だ。同時に彼女は腰の剣を抜き、臨戦態勢に入った。ここは既に敵地。何が出てくるか、どんな敵と出くわすかわからない。私も手渡された短刀を抜いて、マントについているフードを深くかぶった。
「行きましょう。」
私とエルザは、どことも知れぬ敵の屋敷の中を、静かに散策し始めた。