死んでいなかったこと
見知らぬ天井が、私の視界を覆いつくしていた。覚醒したというのに、酷い眩暈と吐き気が襲ってくる。体が重く、龍化の発作とは違う息苦しさが、気になってしょうがない。そして、それとは別に左腕に違和感を感じていた。違和感があるという表現が正しいかはわからない。そこにあったはずの愛する体の一部が感じられない、という感じだ。つまるところ、左肩から先が何もないのだ。
仰向けでいるせいか、目じりからいくつもの雫が零れていった。あんな夢を見せられれば、自然と涙を流していても不思議ではない。夢の中に、彼が姿を現すのは初めてのことだったから、きっと感情が高ぶってしまったのだろう。
「・・・・・・生き、てる・・・。」
生きていたことには驚きだ。腕一つ食い千切られて、決して無事ではないと思うのだが。この眩暈と吐き気は、その弊害だろうに。
ここはいったいどこだろう。誰に助けられたのか、どこへ運ばれたのか。少なくとも生きているということは、最低限の治療を受けたはずだ。左腕欠損という大怪我を負って、自然治癒で無事なはずがない。
体を起こそうとすると、起こせなかった。力がうまく入らない。体のバランスがおかしくなったからか、必死に体を寝返らせて、自分の身体状況にようやく気付いた。
「・・・えっ?」
右手で左の肩のあたりを触ると、そこには冷たい肉の棒が生えていた。
ないと思っていた左腕が、そこにはあった。しかし、どうやら私のものではないらしい。いくら力を込めても、指は動かず、肘も曲げることは出来ない。肌の色も、あからさまに食い千切られた部位から異なっていた。まるで誰かの腕をそのままくっつけたような、そんな腕だ。そう思ったとき、喉の奥でうずいていた吐き気が、大きく膨れ上がり、胃の中の液体が食道を駆けのぼってきた。口いっぱいに胃液を含んで、溢れるがままにそれを吐き出した。黄土色の胃酸が掛け布団にかかり、なるべくそれを見ないように全て吐き出してしまった。喉が焼けるような感覚と同時に、酷くむせてしまい、今度は血の色が混じった唾液を溢し、布団に染み込んだ液体の生暖かな感触が膝辺りに届いていた。
吐き気が落ち着いて、汚れた掛け布団を取り払い、大きく深呼吸した。
「だれ・・・か・・・・くっふ・・・。」
声がうまく出せない。寝かされていた部屋はとても小さな部屋だった。小さな机に、小さな窓。書棚もあるが、そこに書物は一つも飾られていない。机の上には、何着かの肌着が畳まれており、人がいた形跡がある。ただ、窓の外を眺めても曇りガラスが嵌められているため、光以外を確認することはできなかった。
外はとても静かだった。鳥の鳴き声が聞こえてくるほど、穏やかな一時だった。こんな状態じゃなければ、昼寝でもしていたところだろうけど。
ひとしきり吐くものを吐いたおかげか、体に力が戻ってきた。左腕は動かせないままだったけど、足を寝台から降ろし、ゆっくりと床板を踏みしめた。体の筋力が落ちているのがわかる。だが、歩けなくなっているほどではない。私は思い切って立ち上がり、曇りガラスの窓を開けようとした。立ち上がると同時に、ずるりと背中から生えた翼が寝台から落ちて、それに引っ張られるように重心を後ろに持ってかれて、危うく転倒しそうになってしまった。バランスを取ろうとして、ドン、と床板に足を踏みしめ、どうにか窓際まで来ることが出来たが、それだけで息が上がっていた。何より、左腕が動かせない状況は、歩くだけで恐怖心を覚えるほど、左右のバランスが狂っていた。
床を踏みしめた物音に気付いたのか、部屋の扉の向こうから人の気配がいた。ほどなくして、そこから中年の男が姿を現し、私の目を見ると、すぐさま駆け寄ってきてくれて、肩を貸してくれた。
「まだ動かない方がよろしい。」
男はそれだけ言うと、ゆっくりと机のそばにある椅子まで運んでくれて、座らせてくれた。その後、部屋の外にいるらしい誰かに声をかけた後、若い女性やってきた。彼女は寝台の汚れた布団を取っ払ってくれて、新しいものと交換してくれた。
「さぁ、寝台に。」
男に促されたけれど、私は首を横に振っていた。今は椅子に座っているほうが気分がいくらか楽だったのだ。男もそれを理解してくれて、無理に立たせようとはしてこなかった。女性が水と桶を持ってきてくれて、それで口の中をうがいした。胃液で焼かれた口内と食堂がいくらかすっきりして、息をするのも大分楽になった。
「ありが・・・とう。」
「お気になさらず。お休みになっていた方がいいのでは?」
その口ぶりからして、彼らは私の身分を知っているのだろうか。初対面とはいえ、ここまでへりくだるわけがないだろうし、どうやら運よく貴族の者に拾われたのかもしれない。彼らはその使用人たちだろう。
「あなた・・・たちは?」
「私は、エクシア家に仕える魔導士でございます。名をクレスと言います。こちらはエレノア。同じくエクシア家の侍女です。」
エクシア。エクシア?帝国王族の、ロイオの侍従たち。ロイオには申し訳ないが、エクシア家はあまり信用がならない。以前、貴族会議にて息子であるエルドリックから不躾な使者を送られて以来、警戒しているつもりだ。
だが、命を救われたとなると、変に突き返すわけにもいかないし、そもそもこんな状態で変な駆け引きをする余裕なんてない。とにかく、今は彼らの庇護を受けるのが賢明だろう。
「助けていただき、感謝いたします。エクシアの方々。失礼ですが、この屋敷の主は、どなたでしょうか。」
「ここはエクシアのお屋敷ではございません。私共の主は、エクシア家の長子、エルドリック様でございます。」
よりにもよって、彼に救われるとは。縁談について、ロイオは何も知らない様子だった。だとすると、息子である彼が独断で行っていた可能性がある。言い方は変だが、エルドリックは私を狙っているかもしれないのだ。命ではなく、女としての私を。
「・・・では、今すぐエルドリック様にお会いすることはできるでしょうか?」
「いいえ、主はただいま、お出かけしております。明日の夜には、おそらく戻ってこられるでしょうから、その時に、ロウ様がお目覚めになったことをお伝えしましょう。」
クレスはそう言うと、エレノアを連れて部屋を後にしていった。・・・なんというか、言葉遣いがいまいち幼いというか、侍従にしては威厳のようなものが感じられない男だった。お出かけ、などという言い方は、間違ってはいないのだけど、まるで子供が外へ出ているかのような言い方だ。まぁ、彼くらいの年齢からすれば、エルドリックは子供のようなものだろうけど。
エルドリック・アーステイル・エクシア。実のところ、彼とは一度も会ったことがなかった。いつも彼は、話の中でしか登場しない人だ。彼に関する情報は、人伝に聞き及んだものばかりで、実際の彼を知らない。表舞台には登場しないのは、多くの貴族が彼を失敗作と評しているからだと、個人的には思っている。失敗作、というのは表現で、要するにエクシア家特有の魔法特性を引き継げなかったことを指しているに過ぎない。エクシア家の断絶、とまではいかないけど、帝国王族としては、自家の誇りにもつながる大事な要素だ。それを持って生まれないことは、今後の帝国の中心にいられるかどうかを大きく左右することなのだ。
それに加え、私は縁談の件もある。だから彼への私が持つイメージはそれほど良いものではないのだ。一応、アルハイゼンのいとこにあたる人だから、彼から話を聞いたことはあるけれど。実際のエルドリックは、一体どんな人物なのだろうか。
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