5.100日間のプロポーズ
『100日間、欠かさずに王女のもとに通うこと。それが出来れば婚約を認める』
使者が読み上げた父王からの手紙にはそう書かれてあった。
メルを政略に使う気はないと言っていた父のことだ。歓迎とまではいかなくても認めてくれるだろうと期待していた。しかし、なんとも奇妙な条件をつけてきたものである。
父王からの使者が続きを読み上げていく。
「かならず100日間、連続で通うこと。天候悪化や体調不良等いかなる理由でも中断した場合は婚約を認めず。この期間、立ち入れるのは邸のエントランスホールまでとする。王女と使者に顔を見せたのち立ち去ること。王女との会話を禁ずる。また、王女から騎士に会いに行くことを禁ずる」
次々と出てきた厳しい条件にメルは「そんな!」と声を上げるが、ユリウスに制されて戸惑いながらも使者の発言を待った。
「陛下はこの100日間でお二人の気持ちがどの程度のものか確認せよと仰せになりました。お二人にとって100日間は試練の時となりましょうが、逆に言えばこの100日間さえ乗り越えられるならば、婚約を認められるまたとないチャンスでもあります。メルティナ殿下、ユリウス殿。いかがなさいますか?」
メルとユリウスは顔を見合わせる。
ユリウスは力強くうなずいてくれるが、メルの胸には不安の影が広がっていた。
「この条件ではユリウス様の負担が大きすぎるわ。季節はこれから冬になるのよ。レイクルイーズは雪が積もるのでしょう? 天気が悪くても、体調が悪くても、一日も欠かしてはダメだなんて。せめて吹雪や熱が出た日は休んでも大丈夫なようにしてもらえないですか?」
「申し訳ありませんが、陛下はこれ以外の条件を認めないと仰せです。失礼ですがユリウス殿はわが国での爵位をお持ちではありません。その方が王女であるメルティナ殿下と婚約するならば、悪条件を乗り越えるくらいの気概の持ち主でなければならないと陛下はお考えでいらっしゃいます」
「ですが、せめてユリウス様の体調が悪いときだけでもわたしから出向くことをお許しください」
「お待ちください」
なおも食い下がろうとするメルを止めたのはユリウスだった。
「メルティナ殿下。陛下のお考えはもっともなことです。いえ、むしろ寛大なご配慮だと思います」
「ユリウス様……」
「心配しないでください。私は体が丈夫ですし、騎士団で雪の中での訓練も体験しています。必ずや100日間メルティナ殿下の元に通ってみせます」
ユリウスがメルの手を包み込んで微笑んだ。
そのしぐさにメルはハッとする。これまでユリウスは人前では護衛騎士の領分を超えることはなかった。メルから手を握ることはあっても、ユリウスから手を握ってくることはない。メルの願いにより、メルと二人でいるときにだけ、メルティナ殿下ではなくメル様と呼び、優しく髪を撫でてくれるのだ。
でも今はメルの手を握ってくれている。メルを安心させるために。その手のぬくもりが愛しかった。メルも思いを込めて握り返す。
「ユリウス様。あなたが来てくれるのを毎日待ってるわね。100日なんてきっとあっという間よ」
「はい。待っていてください。100日後、また二人でお話ししましょう」
ユリウスがメルを安心させるように微笑んでくれる。でもいつもの柔らかい微笑みとは違い、どこかたくましさを感じさせる笑みだった。メルはユリウスの新たな一面に触れて、こんなときなのに胸を高鳴らせてしまった。
翌日からユリウスはメルの邸に通い始めた。父王の条件を守り、エントランスホールで顔を合わせるだけ。声をかけることもできず、微笑みをかわすだけで別れなければならない。辺境伯邸からレイクルイーズのメルの邸まで、徒歩で30分程度だと聞く。30分かけて歩いてきた彼を休ませることさえできず、またすぐに30分かけて歩いて帰る。雨の日も風の日もユリウスは嫌な顔一つせず、通い続けてくれる。メルに出来ることは「どうかユリウス様が歩くときだけでも天気が良くなりますように」と祈ることだけだった。
30日目を超えたあたりから徐々に寒さが厳しくなってきた。やってきたユリウスの耳が赤くなっているのを見たメルは、その日ケイトと共に部屋に閉じこもった。
翌日エントランスホールにもこもこの毛玉を持って現れたメルに使者は怪訝な顔をした。
「殿下、それはなんでしょうか?」
「スヌードです。ユリウス様に差し上げようと思って。プレゼントは禁止されてなかったでしょう? 話しかけずに渡すだけならいいですよね?」
「まあ、そうなりますね」
実はケイトに頼んでスヌードの編み方を教えてもらったのだ。ユリウスの雰囲気に似合う柔らかな細い毛糸で編みたかったのだが、初心者には難しいらしい。寒さからユリウスを守るという使命に燃えたメルは、どうしても明日までに仕上げたかった。見た目は捨てて、とりあえず寒さを防げる物を目指すことにした。その結果、極太の毛糸で編むことになったのだが、不器用なメルにはそれでも難しく就寝時間になっても完成させることができなかった。いったん寝るふりをして、こっそり一晩中編み続け、朝になってようやく完成させることができた。
メルの目元にはクマが出来ていたが気にしない。ユリウスが喜んでくれたらそれでいいのだ。
今日もユリウスはメルの邸に来てくれた。寒さで耳を赤くしているだろうと思ったら、ユリウスの首には手触りの良さそうなマフラーが巻かれていた。もしかしたら辺境伯が気にかけてくれたのかもしれない。メルはそっと手を後ろにまわし、ユリウスからスヌードが見えないようにした。
使者と話を終えたユリウスがメルに視線を向ける。お互いに微笑み合って別れる。それがこれまでの流れだ。今日もそうなると思っていた。だが、使者が再びユリウスに声をかけた。
「ユリウス殿。そのマフラーをこちらに渡してください」
「え? マフラーですか?」
疑問に思いながらも素直にマフラーを渡すユリウスに、使者は相変わらず淡々と指示を出した。
「では次にメルティナ殿下の前にひざまずいてください」
「はい」
ユリウスは訳が分からないといった顔をしながらも、メルの近くに寄れるのが嬉しいのか表情を緩めて膝をついた。
「メルティナ殿下。今です。どうぞ」
「え」
メルは言われた意味が分からず、固まった。が、使者の視線がメルの背に隠したスヌードに向けられていることに気づき、思わず使者を見つめてしまった。使者にはやくと視線で促され、恥ずかしながらユリウスのまえにスヌードを出した。それを彼の首にすっぽり被せてやると、彼は驚きの眼差しでメルを見つめた。おそらく声をかけられるのならば、メルが作ったのかと聞きたかったのだろう。そう予測して、メルは小さくうなずいた。それをみたユリウスは破顔してスヌードに頬をすり寄せる。その仕草にメルはやっと笑みを浮かべることができた。
ユリウスが元気に手を振って帰った後、ホールにはメルと使者が残された。
「あの、使者様。先ほどはありがとうございました」
「いえ。しかし殿下、徹夜はお体によくありません。ほどほどにお願いします」
「はい。次からは時間に余裕をもって取り組みます」
メルの返事に使者は首を傾げる。
「まだ何か編まれるのですか?」
「はい。雪が降る前に、もっとユリウスに似合うものを準備したいと思っています」
「そうですか。……ちなみに、このマフラーは」
「わたしがもらいます!」
食い気味に返事をしたメルに引いた様子を見せた使者は、ユリウスのマフラーをメルに渡すと部屋に戻っていった。
50日目を過ぎたころチラチラと雪が舞い始め、60日目には積もってしまった。
メルは初めて雪を踏みしめる。白く染まったレイクルイーズの美しさに溜息をもらした。王都でも雪は降るが積もることはなかったので、物珍しくて仕方がない。ゆっくり足を踏み出すとくるぶしの下まで雪に埋まってしまった。サクサクした雪の感触を楽しんだあと、ふと門の向こうを見る。
(ユリウス様と一緒に雪を楽しみたかったな)
庭で遊ぶだけなら楽しい雪も、長い時間をかけて歩いてくるとなると大変だろう。メルは邸内に戻ると厨房に声をかけにいった。
ユリウスはコート、手袋、ブーツ、すべてが黒一色の姿で現れた。メルが渡したブルーグリーンのスヌードだけが鮮やかに首元を彩っている。あのブルーグリーンのスヌードは先日完成したばかりのメル渾身の作品だ。今度はちゃんとユリウスのイメージに合う毛糸をそろえて丁寧に編んでいったので一月ほどかかってしまった。それだけに実際に彼が着用している姿を見ると嬉しくて頬が緩んでしまう。
以前の極太スヌードと交換する予定だったのだが、ユリウスがかたくなに返したがらなかった。お互いに話しかけることができないため、無言でスヌードを引っ張り合う。その様子を見た使者は黙って自分の眉間をもみほぐしていた。結局使者の「新しいものを渡すからといって、一度渡したものを取り上げるのはいかがなものかと思います」という言葉によって、ユリウスの勝利が確定した。ユリウスは極太スヌードと新しいスヌードを交互につけてくるようになったのだった。
今回、メルの手にはスヌードではなくカップが握られている。厨房に頼んで雪道で冷えたユリウスの体が温まるような飲み物を作ってもらったのだ。ミルクティーに数種類のスパイスを入れて煮込んだ特製チャイだ。それをユリウスにそっと渡す。ユリウスは瞳を細めることで御礼の意思を示したあと、チャイの湯気を顔に当て香りを堪能しながら、一口。また一口と味わって飲んでくれた。飲み終えたカップをメルに預けると、ユリウスはスヌードに頬をすり寄せる。その仕草はまるでメルに頬ずりするかのように思えて、メルの頬がほんのり染まった。それをみたユリウスはブルーグリーンの瞳を細めて微笑むと、「またね」の代わりに一つうなずいてから帰っていった。
80日目に突入すると、雪は足首が埋まるくらいまで積もった。
たまに吹雪いて視界が悪い日もあるので、メルは心配でたまらない。日中は門の見えやすい部屋に移動して、窓に張り付いて過ごすようになった。門にユリウスの姿が見えると、急いで厨房に走る。メルが門まで迎えに行ってはいけないので、せめて温かな飲み物を用意してユリウスを迎え入れたかった。視線を合わせるだけの逢瀬。それでもユリウスはメルの不安と応援の心をくみとってくれる。ブルーグリーンの瞳を細めて微笑んでくれる。自分は大丈夫だとメルに伝えようとしてくれる。メルはその瞳を信じてうなずき返した。
いよいよ99日目が来た。
まだ雪は残っているが降る時間はずいぶんと短くなってきている。冷たく澄んだ空気のなか、ユリウスの姿が門の前に見えた。いつも通り、メルはチャイを準備してユリウスを迎え入れる。いつもと違ったのは、ユリウスがチャイを飲み始めてからだった。使者宛に王都から手紙が届いたのだ。
「もうユリウス様はお茶を飲んだら帰るだけですし、先にお部屋に戻られても大丈夫ですよ」
メルの言葉に使者は一瞬思案顔をしたが、これまでの99日間ユリウスとメルが条件を破ろうとしたことはないと思い至ったようだ。
「それではお言葉に甘えて、お先に失礼させていただきます」
使者が去った後、ユリウスはいつもよりもゆっくりとチャイを飲み干し邸を出ていった。
メルは彼がエントランスを出るとすぐに部屋に戻り、窓にかじりつく。その窓からはユリウスの後ろ姿が見えるのだ。いつもこっそり見送っていたのだが、今日はあと1日で婚約が認められるという興奮のせいか、思わず窓を叩いてしまった。軽くトントンとしただけなのに、ユリウスはそれに気づき振り返った。メルは彼が気付いてくれたことが嬉しくて、窓越しに手を振る。ユリウスは一度手を振り返したが、何かを思いついたのか、こちらへ足を進めてきた。驚くメルのまえに、窓をへだててユリウスが立っている。
――トントントン。
ユリウスが窓を小さく叩いた。なんの意味があるかわからず、メルは首をかしげる。するとユリウスは指でメルを手招きした。メルがこれ以上近づけないというくらい窓に近づいてもユリウスは手招きを止めない。メルはこれ以上は無理というように窓に顔をくっつけた。そこでやっとユリウスの手招きがやむと、彼の顔がスッと窓に近づいてくる。メルが驚きに目を見開くまに、彼の唇が窓越しにメルの唇と重なった。
ほんの一瞬のことだった。
メルの唇にはキンと冷えた窓の硬さ。それだけのはずなのに。唇は冷たいのに、熱く感じるのはなぜなのか。顔を真っ赤に染めたメルに、ユリウスが微笑みかける。彼の目尻と鼻の頭もメルと同じように赤くなっていた。ユリウスが大きく手を振り去っていく後ろ姿を、メルはときめく胸を抑えながら見送った。
この日のメルはだらしなく頬を緩ませて過ごしていたのだが、明日で100日を迎えるのだからそうなっているのだろうと誰も詮索したりしなかった。
メルはニマニマしながら今後のことに思いをはせる。この冬の間にユリウスは誕生日を迎え13歳になっていた。メルも春になれば11歳になる。無事に100日間を迎え婚約することができたら、誕生日のお祝いと婚約のお祝いを盛大にしよう。林にある秘密の場所で二人っきりのお祝いをするのも楽しそうだ。
あと1日。
このときのメルは無事に100日目を迎えられることを疑いもしなかった。