39.メル、動く
ここからレイクルイーズの屋敷まで子どもの足で20分くらいだったはずだ。今のメルならもっと早く助けを呼べる。メルは背後を気にしながらも走り続けた。
はあ……はあっ……
半分くらい走っただろうか。息が上がり、足がもつれそうだが、ここで足を止めたらもう走れなくなりそうだ。メルは懸命に足を動かした。そのときメルの視界にキラリと光るものが横切った。
ダンッ――
走るメルの斜め前にある木にナイフが刺さった。
黒い柄のナイフは、刺さった振動でビイインと揺れている。
思わず振り返ったメルの視線の先に、黒い服の男が一人立っていた。
男はそこから動く気配を見せないが、メルは隙が見いだせず逃げ出すことができない。
「メルティナ殿下でいらっしゃいますね?」
「……だったら何?」
「ユリウス殿はどちらに?」
「知らないわ」
メルの答えを聞いた男は、静かに手をあげると軽く振った。
ダンッ――
先ほど刺さったナイフの下に、もう一本のナイフが突き刺さった。
「もう一度、お伺いいたします。ユリウス殿はどちらに?」
「脅すつもり? あなたは特務隊の人なんでしょう? 王女であるわたしを傷つけるなんて国際問題よ」
「証拠を残さなければ問題にはなりません」
男はもう一度手をあげた。その手にはナイフが握られている。先ほどとは角度を変え、メルの身体へと向けられていた。
メルは胸元に手をやる。だがそこからナイフを取り出すことはできなかった。メルがナイフを出すうちに、男はその手のナイフをメルに投げるだろう。
「……」
メルは悔しさに唇を噛みしめながら、右へ左へと足を動かし小刻みに移動した。そのたびに足元の草が擦れてカサカサと音を立てる。
「それで的を狙いにくくしたつもりですか? 残念ながら人の動きは予測できるものです。どんなに動いても、あなたの身体にナイフを当てることはできるのですよ」
「上皇陛下はわたしを殺せとは指示してないはずよ? わたしにナイフを向けて良いと思ってるの?」
メルは草を踏みつぶしながらじりじりと後ろへと下がる。そんなメルを見て、男は薄い笑みを浮かべた。
「多少の傷は致し方ないでしょう。それが嫌なら、あなたがユリウス殿の居場所を素直に教えて下さればいいのです」
「……ユリウス様の居場所を知ってどうするつもり?」
「帝国へ戻ってきてもらうだけです」
男の薄笑いにメルは一歩二歩と下がる。足元を見まわし、できるだけ草の多い場所に足を向けた。メルが足を下げるたびに、草が擦れて踏みつぶされる音がする。たまに草に足を取られながら、それでも男から少しでも距離をとるようにメルは下がり続けた。
「逃げるのなら草のない方が逃げやすかったのではないですか? まあ数歩距離があいたところで変わりませんが」
「……それはどうかしら」
メルは足を止め、男をにらみつけた。逃げるのをやめたメルをいぶかしく思ったのか、男の顔から笑みが消える。
「まさか……うっ!」
異変を感じた男は振り返ろうとしたが間に合わず、背後から一突きされ倒れ込んだ。
「ユリウス様!」
男の背後から現れたのはユリウスだった。
「メル様! ご無事ですか? なにもされてないですか?」
「大丈夫よ。すぐにユリウス様が来てくれたのがわかったから、男の注意をこちらに引いていただけだもの」
男が二本目のナイフを木に刺したとき、その後ろからユリウスが追ってきているのがメルの視界に入っていた。だから男がユリウスに気づかないように、わざと小刻みに動いたり足音を立てたりして逃げるふりをしていたのだ。
「よかった。メル様が駆けだした後、あの男が見えたので慌てて追ってきたのです」
「ありがとう、ユリウス様。おかげで助かったわ」
メルの微笑みに安堵の表情を浮かべたユリウスは、立っていられずその場に膝をついた。
「ユリウス様?!」
膝をついたユリウスの足から血がにじみ出ている。無理を押してメルを追ってきたせいで出血が酷くなっていた。
「ユリウス様! しっかりして!」
ユリウスの上半身を支えながら、メルは祈るように彼の名を呼んだ。ここで彼を失ったらと思うと、メルまで血の気が失せてきた。それでもメルは必死にユリウスの名を呼ぶ。
だがユリウスは答えず、彼の身体が一段と重くなる。メルはユリウスが気を失ったのだとわかった。
「死なないで……ユリウス様」
メルの声に震えがまじる。視界がにじみ、体まで震えてきた。
(ダメ……諦めないわ……)
メルはユリウスの上半身をしっかりと抱え、そのまま歩き出そうとした。
(レイクルイーズの邸まであと少し。そこまで連れて行けば、助けてもらえるはずよ)
だが気を失っている人間を抱えて歩けるほどの力がメルにはなかった。ユリウスの足を引きずって行けば、少しは進めるかもしれない。しかしそれでは傷口が開き、余計に悪化してしまう。ユリウスを置いてメルだけ助けを呼びに走ればいい。そうするしかないとわかっているのに、もしその間にユリウスが死んでしまったらと思うと、メルは彼から離れることができなかった。
メルの瞳から一筋流れた雫がユリウスの頬に落ちる。
そのとき、遠くから草を踏み分ける音が聞こえてきた。身を固くしながらも目を凝らして見れば、見覚えのある隊服をまとった者たちがこちらに駆けつけている。
「……コンラッド様と、みんな?」
コンラッドと一緒にこちらに向かってくるシルエットにメルは見覚えがあった。あの姿は辺境伯領の騎士隊に似ている。
(ああ! 助けに来てくれたのね……)
これでユリウスを助けられると安堵したメルは、彼を抱えたまま座り込んでしまった。