29.忠告
連れ去られそうなメルを助けてくれたのは黒ずくめの男だった。
目元を白い仮面で隠しているが、見えている輪郭や口元からだけでも、その男が端正な顔立ちだとわかる。
メルは男の手を握ったまま離さなかった。そして反対の手で男の髪に触れる。柔らかなクリームがかった金色の髪。
「……ユリウス様?」
仮面の奥に見えるブルーグリーンの瞳が揺れた。
何も言わない男に、メルの中に生まれた希望がしぼんでいく。
「ちがうの?」
メルの声が震えて、涙が一粒転がり落ちた。思い出の地で彼の色をまとった男と出会ったのだ。どうしても重ねて見てしまう。
「……っ」
男はそんなメルの涙に意外なほど動揺を見せた。慰めるようにメルの髪を撫で始める。
メルはその手を拒まず、食い入るように仮面の奥の瞳を見つめた。
「あなたの好奇心旺盛なところは昔から変わりませんね」
男はとうとう観念したのか仮面に手をかけた。形の良いブルーグリーンの瞳があらわになる。
「メル様」
「っ! やっぱりユリウス様なのね?」
穏やかに微笑む彼をまえにして、メルは信じられない思いだった。
「どうして……今までは……」
聞きたいことがあふれて言葉にならない。
そんなメルの髪を一撫ですると、ユリウスは静かに告げた。
「メル様。帝国に来てはいけない。このまま引き返してください」
「え……どういうこと?」
「もしあなたが帝国に来るなら……私は殺してしまうかもしれない」
ブルーグリーンの瞳を細めながらメルの髪を撫でる手つきは優しいのに。ユリウスの言っている意味がメルにはわからなかった。
ユリウスにその真意を問いただそうとメルが口を開きかけたとき、ユリウスが勢いよく後方に飛びのいた。それと同時に彼がいた場所に剣が振り下ろされる。
「メルティナ殿下! ご無事ですか?!」
コンラッドがメルの安否を確認する視線をよこした。メルがうなずくのを見るとすぐにユリウスに視線を戻し、剣を構える。
「コンラッド様……待って!」
慌てて馬車から身を乗り出したメルにコンラッドはギョッとした。ユリウスからメルを庇うように素早く立ち位置を変える。
「待ってコンラッド様! 彼は違うの! 助けてくれたの!」
メルが馬車から顔を出したときにはもうユリウスは仮面をつけていた。だから余計に怪しく感じられたのだろう。メルの言葉を聞いてもコンラッドは剣をおろさない。だが、それ以上踏み込むこともせず、慎重にユリウスの出方をうかがっているようだった。
ユリウスはコンラッドの登場に動じず静かに立っていた。あたりの気配をうかがい、メルを襲ってきた者たちが撤退したのを確認すると、彼もまた去っていった。
その後、護衛たちの怪我の具合を確認し、メルたちは国境へ向けて出発した。
幸い護衛たちに死者は出ず、軽い怪我だけですんだようだ。ケイトもすぐに目を覚ました。
「申し訳ありません。メル様をお守りするはずが気を失ってしまうなんて」
「いいのよ、ケイト。あなたが庇ってくれなかったら、助けが間に合わなかったかもしれないんだから。十分守ってもらえたわ。ありがとう」
帝国へ行くのを取りやめてはどうかとの進言があったが、メルはこのまま進むことを選んだ。国境を超えるまでは辺境伯領の騎士も付いてきてくれることになったし、帝国に入ってからはカイが騎士を派遣してくれる予定だ。コンラッドはメルの意を尊重してくれ、このまま旅を続けることになった。
そのコンラッドは今、メルと一緒に馬車の中にいる。先ほど襲われたのでメルが怯えていると思われたのだろう。護衛の騎士が増えたこともあり、コンラッドはメルの馬車に同乗することになったのだ。メルは怯えてはいなかったのだが、コンラッドに話しておきたいことがあったので、とくに否定せずそういうことにしておいた。
「先ほど襲ってきた人たちだけど、コンラッド様は目星がついてる?」
「はじめは盗賊かと思いましたが、それにしては動きに違和感がありました」
「やっぱり」
ただの盗賊に護衛たちが手こずるとは思えなかった。それに捕まえた者は自害している。それも盗賊ではありえないことだった。
「暗殺者かしら」
「暗殺者?! そんなっ!」
メルの予測にケイトが悲鳴交じりの声を上げた。だが向かいに座っているコンラッドは落ち着いたものだ。コンラッドもそう予測していたのだろう。
「襲ってきた者たちは他の馬車も狙ってたの?」
「いえ。荷物を載せてある馬車は素通りでしたので、はじめからメルティナ殿下を狙っていたものと思われます」
盗賊なら売りさばける積み荷を狙うはずだ。それを無視してメルが乗っている馬車を狙うとなれば、暗殺者で確定だろう。
「問題は誰がわたしを狙ったかよねぇ。コンラッド様はどう思う?」
「国内ではすでに王太子殿下の地位が盤石ですし、メルティナ殿下がその地位を狙っているとは誰も思っていないでしょう。今メルティナ殿下を狙い撃ちしても、得をする人物が見当たりません。となれば……」
「帝国側の人間ってことかしらね」
幸いなことにアバンダ王国で王位継承争いは起こっていなかった。メルは事業を起こして利益を国に還元しているので国民からの人気はあるものの、だからといって次期国王として期待されているわけではない。兄である王太子やその息子の王位継承が危ぶまれるほどの才覚や権力基盤をメルは持っていなかった。
知らないところで個人的な恨みを買っていたということでもなければ、メルを狙うメリットはないのだ。
「帝国から狙われるとはどういうことでしょうか? 姫様は帝国の皇女殿下にこうして呼ばれるほど親しくされている仲ですのに」
ケイトが不安そうにつぶやいた。たしかに今回はシュテフィに誘われて早目に帝国入りする。そのことを隠してはいなかった。メルを襲うということは、メルを誘ったシュテフィにもケンカを売る行為に等しい。
「だから帝国国内に入る前に襲ってきたんでしょうね」
「アバンダ王国内での襲撃なら、こちらの警備の落ち度にできますから」
「ですが、いったい何のために?」
コンラッドはメルと同じ仮説を立てているようだ。わからず首を傾げているケイトに、メルはヒントを出した。
「わたしが帝国に留学して仲良くなったのは二人。そのうちの一人がシュテファニー皇女殿下で、もう一人は?」
「あ……カールハインツ皇太子殿下ですわね」
「そう。そのあとに皇太子殿下がわたしを妃に望んでいるという噂が立った。おそらくこの噂が原因なんじゃないかしら」
ほとんどの人はカイとメルがどうやって知り合ったのかを知らない。隣国の王女が留学してきて、そのときに自国の皇太子と恋に落ちた。そんな風に思ったのかもしれなかった。
「では姫様が皇太子妃……いえ、もう即位なさるのですから皇妃ですわね。姫様を皇妃にしたくない人物が今回の犯人だということですの?」
「うん。そのくらいしか思いつかないのよね」
カイから結婚しないかと誘われはしたが、あれは事件解決に協力した見返りで提案されたようなものだ。メルはちゃんと断ったし、それ以後カイからは何も言われていない。
だが、二人の関係を知らない人があの噂を聞けば、メルが王女という立場だけに真実味を帯びて感じるのかもしれない。
「それでしたら、帝国に行くのは危険なのでは?」
「わたしも一応そう思ったんだけど。……でも、どうしても帝国へ行って確認したいことができたの」
「確認したいこと、ですか?」
「うん。コンラッド様にも聞いてほしかったから、ここで話しておくわね」
メルは無意識に胸を押さえた。先ほど知った奇跡のような事実を思い返す。
「実は、ユリウス様が生きていたの」
言葉にするだけでメルの胸が高鳴り、声が震えてしまった。
「まあっ! 一体それはどういうことですの?」
二人ともユリウスとメルの関係を知っているが、話で聞いたことがあるだけのコンラッドより、実際に当時を一緒に過ごしたケイトの方が驚きは大きかった。
「ケイトが気を失った後、襲われそうになったわたしを助けてくれた人がいたの。その人がユリウス様だったの」
「ではあの仮面の男が? しかしユリウスという騎士は亡くなられたのでは?」
コンラッドの疑問はもっともだ。メルだってそう思ったのだから。
「うん。わたしもずっとそう思ってた。当時の状況的にそうとしか考えられなかったから。でも彼の遺体は確認できてなかったの」
だからメルは、今でもユリウスはレイクルイーズの底に沈んだままだと思ってた。
「でも違ったの。あのとき助けてくれた人はわたしのことを『メル様』って呼んでくれたの。あの頃のユリウス様と同じように。髪の色も瞳の色も全部同じだったの。彼は生きていたんだわ」
話しながら感極まって涙声になる。そんなメルの手をケイトが握ってくれた。
「ですが、それならばなぜ死んだことになっていた彼が今姿を現したのでしょうか」
生きていたなら、なぜ今まで姿を見せてくれなかったのか。
コンラッドに言われるまでもなく、ユリウスが去ってから、メルはずっとその疑問を胸に抱いていた。
「わからないわ。ユリウス様の事情が何もわからないの」
メルは視線を落とす。
ユリウスが生きていてくれて嬉しかった。本当なら泣いて喜んで、ケイトに抱き着いていたかもしれない。そんなふうに喜びに浸りきれないのは、彼が残した言葉が心に引っ掛かっているからだ。
――もしあなたが帝国に来るなら……私は殺してしまうかもしれない。
なぜユリウスはメルを殺すと言ったのだろう。
それは6年前のあの日、ユリウスが突然消えてしまったことと関係があるのだろうか。
なぜ今まで姿を見せてくれなかったのか。なぜ今日メルを助けてくれたのか。それなのになぜメルを殺すというのか。
なぜ、なぜ、なぜ……。
メルの心には喜びだけでなく不安も疑念も渦巻いている。
ユリウスにもう一度会いたい。彼の言葉で話を聞きたかった。
「だからユリウス様のことを確かめに帝国へ行きたいの」
「彼は辺境伯領ではなく帝国のいると?」
「ええ。彼はきっと帝国にいるわ。そう思うの」
メルは意図的にユリウスのセリフを伝えなかった。
このことをコンラッドやケイトが知ったら、きっと王都へと返されてしまう。
メルは6年前の悲しい別れで学んだのだ。ユリウスを待っているだけではダメだと。幸せになりたければ自ら動くのだ。
(そうよ、ユリウス様が現れるのを待ってるだけではダメなのよ。彼のことを知るために帝国に行くわよ!)