表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「天才」 第一部 青春  作者: ドライサーの小説の翻訳です
6/28

第6章

 

 ユージンは集金して毎日正確に報告した。やりくりして少しお金を蓄えた。マーガレットはもはや過去の一部だった。大家のウッドラフ夫人がミズーリ州のセダリアにいる娘と一緒に暮らすためにいなくなった。ユージンはサウスサイドの東二十一丁目にある比較的立派な家に引っ越した。この家は、家の前の五十フィートの空き地にあった一本の木のおかげでユージンの目にとまった。他の部屋と同じで費用は少ししかかからなかった。ユージンは民家に下宿した。そこで取る食事を一食二十セントと決めて、これでぎりぎりの生活費を週五ドルに抑えこんだ。節約しながら残りの九ドルを服や、交通費や、遊びに費やすと、後にはほとんど何も残らなかった。少しお金に余裕ができたことがわかると、昇進の道として頭の中に浮かんでいたアートスクールを探して、どんな条件で夜間のデッサンのクラスに参加できるのかを調べようと考え始めた。聞いた話では、受講料はとても手頃で、四半期でたったの十五ドルだった。条件があまり厳し過ぎなければ始めることにした。自分は画家になるために生まれてきたのだと確信し始めていた……いつそうなるかはわからなかった。

 

 現在の印象的な建造物の先駆けともいえるこの古いアートスクールは、ミシガン・アベニューとモンロー・ストリートのところにあり、当時の大衆の好みを代表している建物のほとんどには存在しない独特の雰囲気があった。ブラウンストーン造りの大きな六階建てのビルには、展示室や授業用の部屋の他にも、画家や彫刻家や音楽教師用のスタジオがたくさんあった。昼と夜のクラスがあって、この当時でも学生は多かった。西部人の魂が、ある程度、芸術のすばらしさに刺激されて燃え上がった。大衆の生活に、こういうものはほとんど存在しなかった……この分野で物事を成し遂げて、より洗練された環境で生活できる人たちの名声は大きかった。パリへ行こう! どこでもいいからその街の立派なアトリエで門下生になろう! あるいはミュンヘンやローマで、ヨーロッパの芸術の宝庫の特徴を知ろう……芸術の都で暮らそう……そうすれば何とかなる。教育を受けていない大勢の若い男女の胸には、平凡な階級から抜け出したいという野生的な願望と言ってもいいものがあった。この当時想定されていた芸術的気質の特徴や装いを身につけたがり、洗練された、半分憂いで、半分無関心という態度をとって、アトリエで生活し、普通の人とは一致しない道徳観や気質で一定の自由を持ちたがった……そうすることや、そうであることは、すばらしいことだった。もちろん、芸術品の創作はこの一部だった。最終的には名画を描くとか、立派な彫刻を作らねばなるまいが、その間は芸術家らしい生活が送れるのであり、送ればいいのだ。そしてこれは美しくて、素晴らしくて、自由だった。

 

 ユージンはずっとこれを何となく感じていた。シカゴにアトリエがいくつもあることを知っていた。一定の人たちはいい仕事をしていると思われた……ユージンはそれを新聞で見ていた。時々展覧会が話題になり、ほとんどが無料なのに、市民はほんのわずかしか参加しなかった。一度、何かの目的で西部に来ていたロシアの偉大な画家のヴェレシチャーギンの戦争画展があった。ユージンはある日曜日の午後にそれを見て、戦争の要素の捉え方のすばらしさに心を奪われた。見事な色彩、リアルな人物、ドラマ性、示されたすべての周囲に、その中に、それを通して、とにかく存在する力強さ、危険、恐怖、苦しみが感じられた。この画家は力強さと洞察力、すばらしい想像力と気質を備えていた。こういう作品はどうやって作り出されたのだろう、と考えながらユージンは立ったままじっと見つめた。それからというもの、ヴェレシチャーギンの名前は彼の想像力を掻き立てる大きな声になった。もしもお前が画家になるつもりならそういう画家になりたまえ、と。

 

 一度、別の絵がこの地にやって来た。元々その魅力の根幹は芸術性だったが、彼の本質の別の面をくすぐった。それは、大胆な裸体の描写で彼の時代を驚かせたフランスの画家ブグローのすばらしい温かみのある淡い色合いの裸体画だった。彼が描くタイプは、強さと情熱をうまく紡ぎ出した、いやに感傷的な小柄でスリムな体型の女性ではなく、首や腕や胴体や腰や太腿の官能的な輪郭が、青年の血を熱く燃やすのに十分なほど立派に成熟した女性だった。この男は明らかに理解していて、情熱、形への愛、欲望への愛、美しさへの愛を持っていた。彼は背景に新妻のベッドを意識して、母性と、うれしそうに授乳している太った育ち盛りの赤ん坊を描いた。こういう女性たちが、目に欲望をやんわりにじませてさそい、豊満な唇を開き、頬を健康の血潮で赤く染めて、持ち前の美しさと魅力を大きく際立たせた。だから、保守的で清教徒的な考えを持つ者や、激しい気性の宗教家や、訓練の期間中か愛好家で慎重な者には毛嫌いされた。売り物としてこの絵をシカゴに持ち込めば物議を醸すのに十分だった。こういう絵は描かれるべきではない、描かれても展示されるべきではない、が新聞の論調だった。ブグローは自分の才能で世の中の道徳を腐敗させようしている卑劣な画家の一人だと多くの人に思われた。そんなものの公開は禁止されるべきだという声があがった。こういう特別な階級が反対の声をあげるといつもそうなるように、一般大衆の関心が呼び覚まされた。

 

 ユージンもこの議論に注目した者の一人だった。彼はブグローの絵どころか、実は他の画家の独創的な裸体画も見たことがなかった。いつもは三時を過ぎると暇なので、こういうものを見に行く余裕があった。いい服装で仕事をするできるとわかったので、毎日一番いいスーツを着るようになっていた。ユージンは厳粛な雰囲気を持つ、かなり見栄えのいい若者だった。だから、どんな画廊で何かを見せてほしいと要求しても、全然驚かれなかっただろう。まるで知的で芸術のわかる階級に属しているように見えた。

 

 二十歳そこそこのこんな若造がどんな歓迎を受けるのかわからなかったが、それでも思い切ってブグローが展示されている画廊に立ち寄って、その絵を見たいと頼んだ。担当の係員は好奇の目で彼を見たが、濃い赤が垂れ込めた奥の空間に案内した。赤いブラシ天で覆われた個室の天井に設置された白熱電球をパッと灯して、カーテンを引き、絵を見せてくれた。ユージンはこういう姿も表情も見たことがなかった。それは夢に見た美しさだった……彼の理想が実現したのだ。顔と首、後頭部にまとめられた茶色い官能的な髪のやわらかそうな塊り、花のような唇とやわらかい頬をじっくり観察した。胸と腹部が暗示するものに彼は驚いた。その母性に潜むものは男性にとって熱く燃える炎だった。ユージンは夢を見ながら、贅沢な気分で、何時間でもそこに立っていられただろう。しかし彼を数分、絵のところに置き去りにした係員が戻って来た。

 

「これはいくらするんですか?」ユージンは尋ねた。

 

「一万ドルです」という答えが帰ってきた。

 

 ユージンは厳かに微笑み、「すばらしい作品だ」と言い残してその場を後にした。係員は照明を消した。

 

 この絵はヴェレシチャーギンの絵と同様に、彼に強烈な印象を与えた。不思議なことに、ユージンはこういう絵を描きたいという憧れは抱かなかった。それを見て喜んだだけだった。これはユージンに、彼の現在の女性の理想像……肉体的な美しさ……を伝えた。ユージンは、自分を好意的に見てくれる人を見つけたいと心から願った。

 

 彼の印象に残った展覧会は他にもあった……本物のレンブラントを展示するものもあった……しかし、こうやって、はっきりと彼の心を揺さぶったものは何もなかった。彼の芸術への関心はどんどん高まっていた。そのすべてを解明したかった……自分でも何かをしたかった。ある日、思い切ってアートスクールの校舎を訪ねて事務員に相談したところ、科目の内訳を説明してくれた。相手が実務と事務に長けた女性だったので、授業が十月から五月まであることや、写生か古代美術のクラス、あるいは当時は古代美術だけが勧められたが両方とも受講できることや、さまざまな時代の衣装をさまざまなモデルが着てくれるイラストのクラスを受講できることを学んだ。ユージンは会う必要はなかったが、クラスごとに注目すべきインストラクターがいることを知った。クラスごとに指導係がいた。どの学生も自分のためになるように真面目に取り組むのが建前だった。ユージンは教室を見ることはできなかったが、そこの全体的な優雅さは感じ取れた。廊下や事務室は優雅に装飾がほどこされ、腕や脚、胸、腿、頭などの石膏の像がたくさんあった。まるで扉を開け放った入口に立って新しい世界を眺めるみたいだった。ありがたいことにイラストの授業でペン画か筆画を学ぶことができた。それに写生クラスのデッサンで夕方の時間帯を割り当てれば、追加負担なしで毎日午後五時から六時までスケッチのクラスを受講できた。渡された印刷の入学案内を見て、写生クラスではヌードモデル……男女両方……が使われると知って少し驚いた。ユージンは今、確実に別の世界に近づいていた。それは必要で自然なことに思えたが、それでもそれには近づきがたい雰囲気があった。才能を持つ者だけがそこへ立ち入りを許される聖堂の奥の聖域を思わせた。自分には才能があるのだろうか? 待ってろよ! たとえ世間知らずなお上りさんだったとしても、いずれ世界に自分の存在を示すつもりだった。

 

 彼が入ることにしたクラスは、一つは月水金の夜七時に実習室の一つに集まって十時まで授業が続く写生のクラスと、もう一つは毎日午後五時から六時まで開かれるスケッチのクラスだった。ユージンは人体や解剖学的構造をあまりというか全然知らなかったので、それをもっと勉強した方がいいと感じた。コスチュームやイラストは後回しにしなければならない。大好きな風景画というか都市の風景画は、絵の基礎を多少学ぶまで延期してもいいかもしれない。

 

 細密画や大きなシーンの細部の描写を除くと、ユージンはこれまであまり顔や人物のデッサンを試みたことがなかった。今、彼は生きている人間の頭部や体を木炭でスケッチする必要に迫られて、少し怖気づいていた。他の男子学生十五人から二十人と一緒に一つのクラスになることを知った。彼がやっていることをみんなが見てコメントできるのだ。週に二回、インストラクターが回ってきて彼の作品を評価してくれる。毎月一番優秀な作品を描いた学生には特典があることを案内書で知った。すなわち、新しいポーズが始まるたびにモデルを囲む席を最初に選ぶことができた。クラスのインストラクターはアメリカの美術界でもかなりの大物に違いないと思った。何しろNA、つまり国立アカデミー会員だった。彼はこの名誉が、ある方面でどれほど軽蔑的に受けとめられるのかをよく知らなかった。さもなければ、これをそれほど重視しなかっただろう。

 

 十月のある月曜日の夕方、入学の手引きで購入を求められていた画用紙数枚を用意して絵を描き始めた。明るく照らされた廊下や教室を見て少し緊張した。若い男女が群がって動いていたが、彼の不安を和らげてくれそうもなかった。このクラスの個々のメンバーの特徴である陽気さ、決意、肩のこらない礼儀正しさにすぐに注意が移った。男子は好奇心旺盛で、たくましく、ほとんどがハンサムであり、女子は上品で、かなり威勢がよくて、自信に満ちていた。気になった一、二名が悪い意味で美しかった。ここはすばらしい世界だった。

 

 数ある教室も他に例を見ないものだった。教室は古い使い込まれたもので、壁はパレットからこすり落とされた絵の具の塗り重ねで完全に覆われていた。イーゼルや他の道具がないのに、椅子と小さな腰掛けだけがあった……ユージンが教わったところでは、椅子はひっくり返してイーゼルにされ、腰掛けは学生が坐るためのものだった。部屋の中央には、モデルがポーズをとるための普通のテーブルほどの高さの台があり、片隅には更衣室になるついたてがあった。絵も彫像もなかった……何もないただの壁があった……しかし、なぜか片隅にはピアノがあった。廊下や大きな休憩所には裸体画や、ありとあらゆるポーズをとっている人体のパーツがあった。未熟な若者の考え方でユージンはそれらを扇情的だと思った。こっそり見て喜んだが、思ったことを何も口にしてはいけないと感じた。画学生は、こういう扇情的なものに対して平然としている……こういう欲望を超越している……ように見えるに違いない、とユージンは確信していた。ここには絵を描くために来たのであって、女性にうつつを抜かしに来たのではなかった。

 

 クラスの集合時間が来ても、方々でちょこちょこ動き回って学生同士で話し合いが続いていた。やがて気づいてみれば、男子は男子の部屋、女子は女子の部屋にいた。ユージンは、自分の部屋にいた若い娘が、ついたての近くで起き上がって、ぼんやりと周囲を見回すのを目にした。少しアイルランド系の面影がある、黒髪で黒い目をしたかわいい娘だった。ポーランドの民族衣装の髪飾りを模した帽子をかぶり、赤いケープをまとっていた。ユージンは、このクラスのモデルだろうと思い込み、本当にこの娘のヌード姿を拝むことになるのだろうかと密かに考えた。数分後に学生全員が集められた。三十六歳くらいのかなり活発で絵に描いたような男がぶらりと入室すると、教室がざわざわした。男は教室の前方に歩いて行って、静粛にするようクラスに求めた。グレーのツイードのみすぼらしいスーツを着て、片耳にかぶさるようにだらしなく小さな茶色の帽子をかぶり、取ろうともしなかった。カラーやネクタイを着けずに、柔らかい青のヒッコリー・シャツを着ていて、かなりのうぬぼれ屋に見えた。背が高く、痩せた、骨ばった体で、顔は細長く、目はでかくてぱっちりしていて、口は大きくて真一文字に結んでいた。大きな手足をしている割に、よろめくような歩き方をした。ユージンは直感的にこれが国立アカデミーのテンプル・ボイル先生、このクラスのインストラクターだろうと思った。何らかの最初の挨拶があるのだと想像した。しかしインストラクターは、ウィリアム・レイ氏が指導係に任命されたことと、騒いだり時間を無駄にしたりしないよう願います、と言っただけだった。指導係が批評する日が定期的にある……水曜日と金曜日だった。生徒の一人一人がめきめき上達することを願った。いよいよ授業が始まるのだ。それから男は歩き出した。

 

 ユージンはすぐに学生の一人から、今のが本当にボイル先生だと教わった。アイルランド人の若い娘はついたての陰に行ってしまった。ユージンは自分が座っている場所から、娘が服を脱いでいる様子を部分的に見ることができた。少し衝撃を受けたが、他にも大勢人がいたから、勇気を出して平然としていた。他の人がするのを見よう見まねで、椅子をひっくり返して腰掛けに座った。木炭は傍らの小さな箱の中にあった。画板に紙を乗せて伸ばし、できるだけ平らになるよういじくり回した。学生の数名がしゃべっていた。突然、娘が薄いガーゼのシャツを脱ぎ捨てるのを目にした。次の瞬間、娘は裸のまま平然と出てきて台に上り、両腕を横、頭を後ろにそらして、直立不動の姿勢をとった。ユージンは興奮し、顔を赤らめ、娘を直視するのが怖いほどだった。それから木炭を一本とり、頼りなくスケッチを始め、この人物とこのポースの何かを紙に伝えようとした。自分がしていること……この教室にいること、この娘がこういうポーズを取っているのを見ること、要するに画学生であること……が、すばらしいことに思えた。これはまさしく、彼がこれまで知っていたどんな物ともまったく違う世界だった。そして、ユージンはその一員になろうと自ら名乗りを上げたのだった。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ