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「天才」 第一部 青春  作者: ドライサーの小説の翻訳です
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第5章

 

 この出会いはしばらくの間、ほとんど抑えきれなくなるほど女性に対するユージンの関心をかき立てた。ほとんどの男性は内心では女性を征服したことを……征服できる能力を……誇りに思う。そして、惹きつけたり、楽しませたり、つなぎとめたりする能力の証は、優越感や充実感を男性にもたらしがちな要素の一つであり、あまり勝ったことがない男性には時としてこれが欠けていることがある。これはそういう意味においてその類の彼の最初の勝利であり、彼を大いに満足させた。いずれにしても、恥じるどころか、かなり自分に自信がついた。これに比べたら、アレキサンドリアにこもっている愚かな若者は、人生について何を知っているのだろう、と思った。何も知らないのだ。ユージンは今シカゴにいた。ここは別の世界だった。彼は、自分が男であり、自由であり、ひとりの人間であり、他の人たちの興味の対象だとわかりかけてきた。マーガレット・ダフは、彼についていいことをたくさん話してくれた。彼のルックスや、全体の風采や、特定のものを選ぶセンスのよさを褒めた。ユージンは女性を所有することがどういうことかを実感した。ユージンはしばらく威勢がよかった。解雇される準備はしっかりできていたから、かなり一方的に解雇されたという事実は、少ししか影響しなかった。今になって突然、仕事に対する不満が彼の中で湧き上がった。週給十ドルは自尊心のある若者が自分を養っていける金額ではなかった……特に、終わったばかりのああいう関係を維持することを考えた場合はなおさらだった。もっといい職場に就くべきだと感じた。

 

 それからある日のこと、ウォーレン・アベニューの女性の家に荷物を届けに行ったところ、相手が呼び止めて尋ねた。「あなたみたいな配達の人って週給どのくらいもらうのかしら?」

 

「十ドルです」ユージンは言った。「もっともらう人もいると思います」

 

「あなたは立派な集金人になるべきよ」女は続けた。大柄で、家庭的で、単刀直入で、ずけずけ物を言う女だった。「そういう仕事に転職してみない?」

 

 ユージンはクリーニング屋の仕事にうんざりしていた。長時間の重労働なのだ。日曜日などは午前一時まで働き通しだった。

 

「やってみようかな」ユージンは大きな声で言った。「それがどんなものなのかは知りませんけど、この仕事はちっとも面白くないんです」

 

「うちの主人が〈みんなの家具社〉を経営してるのよ」女は続けた。「時々、優秀な集金係が必要になるの。主人ならすぐに替えてくれると思うわ。私から主人に話してあげるわよ」

 

 ユージンは嬉しそうに微笑んで女に礼を言った。これはきっと幸運が舞い込んだのだ。集金係がどれほどの稼ぎになるのか知りたかったが、聞くのは野暮だと思った。

 

「主人があなたを雇えば、多分、最初は十四ドルもらえるわ」女は自分から切り出した。

 

 ユージンはわくわくした。だとすれば確かに世の中で一段あがることになる。四ドルも増えるのだ! それだけあればいい服が手に入れられるし、他のことにもお金が使える。絵を勉強するチャンスができるかもしれない。展望が広がり始めた。努力すれば人は出世できるのだ。このクリーニング店のために頑張った配達が、これをもたらしたのだ。他の分野でさらに努力すれば、もっと大きな成果が得られるかもしれない。それに彼はまだ若かった。

 

 クリーニング屋で六か月働き続けた。六週後、〈みんなの家具社〉の経営者のヘンリー・ミッチリー氏がクリーニング屋気付で彼に、夜八時以降自宅に来ればいつでも会うつもりでいる、と手紙をくれた。「あなたのことは家内から聞いている」と付け加えてあった。

 

 ユージンはその手紙を受け取ったのと同じ日に話に乗って、細身で、活発な、四十歳の調子のよさそうな男の面接を受けた。男はユージンに仕事や家庭や配達員としていくらもらっているのかなどを尋ねて最後に言った。「うちには聡明な青年が必要なんだ。真面目で、正直で、勤勉な者にはいい仕事だよ。家内のやつがきみをなかなかの働き者だと思っているようなので、試したくなったんだ。きみには十四ドルで働いてもらう。来週の月曜日に来てもらいたい」

 

 ユージンは男に礼を言った。ミッチリー氏に勧められて、一週間後にやめることをクリーニング屋の店主に告げた。マーガレットにやめることを話したら、彼のために喜んでいるようだった。ユージンはいい運転手だったので、店主は少し残念がった。最後の一週間は後任の新人を手伝って、月曜日にミッチリー氏の前に現れた。

 

 ミッチリー氏は、ユージンを行動力と実力を備えた青年と見ていたから雇えたのを喜んだ。仕事は簡単だと説明した。内容は、時計、銀の食器、敷物など、会社が販売したあらゆるものの請求書を受け取り、いろいろなルートを回って正当なお金を回収するというものだった……平均すると一日に七十五から百二十五ドルだった。「うちのような会社は大抵、保証人を求めるものなんだが」男は説明した。「うちはまだそこまでいってない。相手を見れば、正直な若者ってわかると思うんだ。いずれにしても、うちには監査システムがある。不正を働きがちな奴は、うちじゃうまくやれないよ」

 

 ユージンはこの正直という問題についてあまり考えたことがなかった。彼はささやかな小遣いを気にする必要がない環境で育てられ、当面の欲求を満たせるだけのものを〈アピール社〉で稼いでいた。それに、彼が日頃交流していた人たちの間では、正直であることはとても正しくて必要なことだと考えられていた。そうでない者は逮捕された。夜に店に押し入ったかどでアレキサンドリアで逮捕さた知り合いの若者のとても残念な事件を思い出した。当時のユージンには恐ろしいことに思えた。それ以来、正直とは何なのかを漠然と随分考えてきたが、まだ結論は出ていなかった。自分が管理をまかされたものはすべて最後の一ペニーに至るまで責任を持つことを期待されたことがわかり、喜んでそれに応えるつもりだった。もしそうやって生きていかねばならなかったら、稼いだお金があれば十分だと思えた。彼は他の誰かを支えるのを手伝う必要がなかった。だから彼は割りと簡単に、事実上テストもされずに、順調な滑り出しを見せた。

 

 ユージンは自分にあてがわれた初日の請求書の束を受け取って、丁寧に一軒一軒回った。ある場所では渡した領収書の分のお金が支払われ、またある場所では会社と以前にもめたことを口実にして支払いを先延ばしされたり断られたりした。跡形もなく行方をくらまし、未払いの品物まで荷造りして引っ越してしまった場所も多かった。ミッチリー氏が説明したように、近所の人からその連中の足取りを聞き出す努力をするのがユージンの仕事だった。

 

 この仕事は気に入りそうだとユージンはすぐにわかった。新鮮な空気、野外での活動、歩くこと、仕事が片付く早さ、すべてがユージンに好都合だった。集金ルートはユージンを、彼がまだ見たことがなかったこの街の知らない新しい場所へと連れて行き、出会ったことのないタイプの人たちを紹介した。クリーニング屋の仕事は一軒一軒回って新鮮味があったが、これもまたそうだった。もう少し上手に絵が描けるようになったら、きっと立派なものにできるかもしれないと確信を抱いた景色を目にした……暗くそびえ立つ工場地帯、雨でも雪でも晴天でも迷路のようにたたずむだだっ広い鉄道操車場、朝夕の空を横切るようにその黒い背丈を投げかけている巨大な煙突。ユージンは、それらが赤や薄紫の光の中で際立つ夕暮れ時が一番好きだった。「すばらしい」と、よく心の中で叫んだ。もしドレの作品のようなすばらしい絵を自分が描けるようになったら、世間はどれだけ驚くだろうと考えた。ユージンはドレのものすごい想像力を称賛した。自分が油絵の具、水彩絵の具、チョークで……ペンとインクだけで、しかも白と黒の見事な、おおざっぱな斑点で……何かを描いているところは思いつかなかった。あれはそういうふうにやったのた。そうやって効果が加えられたのだ。

 

 しかしユージンにはそれができなかった。彼には考えることしかできなかった。

 

 ユージンの主な楽しみの一つはシカゴ川だった。その黒くて汚い水面は、あえぐような音を出して進むタグボートにかき乱され、大きな赤い穀物倉庫と黒い石炭貯蔵庫と黄色い材木置き場が川岸に並んでいた。ここには本物の色と人生……描く対象……があった。屋根の低い、ありふれた、雨ざらしの小屋が、平らな牧草地帯に、ひっそり、わびしく、数軒並んでいた。多分どこか近くに小さな木が一本くらいはあるかもしれない。ユージンはこういうものが大好きだった。包んでいるものを取って、それ自体の感じをつかもうとした……彼の言い方では質感……しかし出せなかった。ユージンが描いたものは、どれも安っぽくて平凡に見えた。ただの無意味な線と硬い木の塊にしか見えなかった。偉大な画家たちは、どうやってあの滑らかさやゆったりした感じを出したんだろう? ユージンは不思議に思った。

 


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