第17章~第21章
第十七章
後で七十五ドルの小切手がもらえるこの一度の大きな売上と、その後の絵のカラー掲載は、しばらくユージンの精神を高揚させ、まるで自分の絵のキャリアが堅固な基礎を築いたかのような気分になった。そしてアンジェラを訪ねてブラックウッドへ行こうと考え始めたが、まずはもう少し仕事をしなければならなかった。
びしょ濡れになるほどの霧雨につつまれたグリーリー・スクエアの景色や、高くて細い鋼鉄の架台の上をバワリー街へとひた走るLトレインの絵を描きながら、ユージンはさらにいくつかのシーンに神経を集中させた。彼はコントラストを見る目があり、光と影を鋭く拾い出し、まるで宝石の色のように見る者を惑わし暗示にかけるすばらしいぼかしを作りあげた。ひと月後にそのうちの一つを〈トゥルース〉に持ち込んだ。またもやアートディレクターがえじきになった。関心のない態度をとろうとしたが、難しかった。この青年は、彼の欲しいものを持っていた。
「この路線で描いた他の作品があれば見せてください」男は言った。「それがこの二枚に匹敵するのなら少し使ってもいいな」
ユージンは興奮して立ち去った。自分の能力に自信がつき始めていた。
生計を立てるには、一枚七十五ドルや百ドルの絵がかなり必要だった。画家が多すぎて、すぐに有名になるチャンスを誰も簡単には作れなかった。ユージンは最初の絵が世に出るのを見るのに何か月も待った。もっと大きな雑誌に貢献できるようになるのも時間の問題だろうと思って中小の雑誌と距離を置いたが、大手はあまり熱心に新人を探していなかった。ユージンはショットマイヤーを通じて二人の画家に出会った。彼らはウェイバリー・プレイスのアトリエに住んでいて二人を大層気に入ってくれた。そのうちの一人マクヒューはワイオミング出身で、山の農業と鉱山についてのおもしろい話をたくさん知っていた。もう一人のスマイトはノヴァスコシアから来た漁師の青年だった。マクヒューは背が高く、やせ型で、田舎者そのままの顔をしていたが、それをすぐに補うユーモアと洞察力の光が多少目に宿っていた。ユージンが最初に選んだのは、愉快で温和な人柄だった。ジョセフ・スマイトはいかにも海という感じがした。背が低く、恰幅がよくて、鍛冶屋のようなかなりがっしりとした体格だった。大きな手と足、大きな口、大きくて骨ばった眼窩、ごわごわの茶色い髪をしていた。話す時はいつも、ゆっくりと、もたつく感じがして、微笑んだり笑ったりすると、満面の笑みになった。興奮したりはしゃいだりすると、体のいたるところで明らかに何かが起きているようだった。穏やかなたくさんの線が交差して織りなす不思議な顔になった。舌が回りだすと早口になった。そういうときに神の名を乱用して言葉を強調する癖があった……彼は船乗りと働いたことがあったから、絵のように美しい表現の膨大な語彙を蓄積していたので、その数は多くて、絵のように美しかった。彼に関する限り、悪意はなかった。何しろ彼は狡猾さや悪知恵とは無縁で、一貫して親切で温厚だった。ユージンはこの二人と仲良くなって、楽しい人間関係を築きたかった。彼らとは見事に馬が合うとわかったので、何時間も続けてユーモラスな出来事や特徴的技法を交換することができた。二人と親密であると実際に言えるまでに数か月かかったが、ユージンが定期的に二人を訪問し始めると、やがて二人もユージンのところへ来るようになった。
この年に、何人かのモデルと一時的に知り合い、いろいろな美術展を訪れ、〈トゥルース〉のアートディレクター、ハドソン・デューラに連れ出されるようになって、画家と女の子向けのちょっとしたディナー・パーティーに二、三回招待された。芸術をテーマにした〈クラフト〉というかなり希望のない雑誌の編集長を別にすれば、ユージンは特に気に入った相手は見つからなかった。その男はロマンチックな気質を持つ若いブロンドで、ユージンの中に美の精神を見出し、彼と仲良くなろうとした。ユージンは快く応じた。それ以後、リチャード・ホイーラーは時々彼のアトリエを訪れるようになった。彼はこの頃、住居をもっと良くするほどの稼ぎはなかったのに、なんとかして石膏の模型を少し買い、銅と真鍮のアトリエ用にちょうどいいものを少し手に入れた。自分の描いた絵、通りの風景が、あちこちに飾られた。この特別に賢い人物が作品を見る様子は、彼が何か大きな言うべきことを持っている、と徐々にユージンに確信させた。
戻ってアンジェラのところへ行き、そのついでにアレキサンドリアとシカゴにも寄ろう、と決めたのは、彼がこの環境……二年目の春……に落ち着きかけているときのことだった。ユージンはもう十六か月も離れていたが、彼の愛情を勝ち取った者にも、アンジェラへの愛から彼を遠ざけた者にも出会わずにすんだ。五月か六月中にうかがう、と手紙を書いたのは三月だが、出発したのは七月……街が猛暑の波を被る季節……だった。あまり大したことをしていなかったからだ……八から十の物語に挿絵を描き、〈トゥルース〉の見開き用に絵を四枚を描き、そのうちの一枚が掲載された。しかし順調にやっていた。シカゴとブラックウッドに向けて出発するちょうどそのときに、二作目が新聞の売店に置かれた。ユージンは誇らしげにその一冊を列車に持ち込んだ。Lトレインが頭上を走るバワリー街の夜景だった。再現されたように色鮮やかで生き生きとしていた。ユージンはとても誇らしかった。アンジェラもそう感じることを知っていた。彼女は『六時』と銘打ったイーストサイドの絵を絶賛する手紙を書いてくれたからだ。
ユージンは道中、夢を見ていた。
ニューヨーク、シカゴ間の長旅を終えてついに到着した。レイクシティに着いたのは午後だったが、以前の苦労の地を再訪するために立ちどまることもなく、五時のブラックウッド行きの列車に乗った。蒸し暑く、途中でどんよりした雷雲が立ちこめ、短い見事な夏らしい雨が降った。木も草もずぶぬれになり、道路にはゴミが積もった。疲れた体を撫でる空気には、清涼感があった。緑の木々に囲まれた小さな町が見えてはまた通り過ぎ、ようやくブラックウッドが姿を見せた。そこはアレキサンドリアよりも小さかったが大した違いはなかった。他と同じで、教会の尖塔が一つ、製材所が一つ、すてきなレンガ造りの商店街が一つと、伸び伸び枝を広げた緑の木々がたくさん目についた。ユージンは一目見てそこに惹かれるものを感じた。いかにもアンジェラが暮らしていそうな場所だった。
到着したのは七時で日が暮れようとしていた。アンジェラに明確な到着時刻を伝えていなかったので、通りの先に見えた小さな宿というか、いわゆるホテルで一泊することにした。手荷物は大きなスーツケース一つと旅行鞄一つだけだった。ブルー家の方角と町からの距離を宿の主に尋ねると、その言葉通り、一ドルで運んでくれる乗り物を午前中いつでも調達できることを知った。ステーキの揚げ物と、粗末なコーヒーと、フライドポテトで夕食を済まし、通りに面した正面玄関にあるロッキングチェアに腰を下ろして、ブラックウッドの村の生活ぶりを眺めて夕方の涼しさを楽しんだ。座ってる間にアンジェラの家庭のことを考え、そこはきっとすばらしいに違いないと思った。この町はそういう小さなところだった……とても静かだった。十一時過ぎまで、市内から次の列車は来ないのだろう。
しばらくしてから起き上がり、夜の空気を吸いながら少し歩いた。後で戻って来て、風通しの悪い部屋の窓を開け放ち、座って外を眺めた。さっきの雨、それで濡れた木々、その青々と茂って濡れた成長し続けるものの匂いがする夏の夜は、人が湿った粘土に注目すべきデザインを刻むように、ユージンにその印象を刻みつけた。ユージンの気分は煌々と光る窓のある小さな家の方へ向いた。時々歩行者の「よお、ジェークス」とか「こんばんは、ヘンリーさん」という声がした。コオロギのうるさい音、アマガエルの鳴き声、木の上の方にかかる輝く恒星と惑星に感動した。夜はせっかちで、実り豊かで、何かをごそごそやっていた。それは人間にはほとんど、あるいはまったく関係なかったが、それでももう少ししてまぶたが垂れて、ベッドに行き、夢も見ない深い眠りにつくまでは、彼は少なくともその一部だった。
明朝ユージンは早起きして、出発の時間が来るのを待ちわびた。九時前に出発するのが好ましいとは思わなかったので、ぶらぶらしていたらかなり注目された。彼のように背が高く、細身で、上品な姿で、力強く目立つ人は地元では珍しかった。九時に立派な軽馬車が自由に使えるようになったので、昨夜の雨でぬかるみ、覆いかぶさる木々がところどころで日陰を作ってくれる、長い黄色の道路へと乗り出した。横木の柵の隅にかわいい野花がたくさん咲いていた……黄色とピンクの野生のバラ、ニワトコ、ノラニンジン、何十もの美しい花……ユージンは我を忘れて称賛した。黄色く色づきかけている小麦畑の美しさ、すでに三フィートもある育ち盛りのトウモロコシ、まわりを小さな森が囲っている干し草と牧草の景色、そして何よりも、虫を追うイワツバメやツバクラメ、少年時代の美しさの夢だった空高く舞い上がるノスリを巡って、彼の心は歌っていた。
馬車に乗ってる間は童心に帰った気分だった……羽ばたく蝶や鳥を愛し、モリバトの鳴き声に夢中になった。(そのとき静かな遠いところで一羽鳴いていた。)……田舎の男たちのたくましい力にあこがれた。乗ってる間に田舎の風景で一シリーズ描きたいと思った。それは時々通り過ぎてゆく農家の前庭のように素朴なものになるだろう。道を直角に横切り、馬の水飲み場にもなるこの小川や、ドアも窓もない、屋根が垂れ下がり、軒下でタチアオイや朝顔が高く伸びているこの古い廃屋の骨組みなどだ。「僕ら都会の住人にはわからないな」まるで大都会の道を歩んできた他の少年少女たちのように、まるで田舎を胸に抱いて都会に持ち込んだことがなかったかのように、ユージンはため息をついた。
ブルー家は、木々に覆われた丘陵のなだらかな二つの尾根の間にある、かなり広いでこぼこの田園地帯のど真ん中にあった。農場のはずれ、家からはあまり離れていないところを小川が走っていた。小さな浅い川は、小石の上を歌うように流れ、川岸に沿ってヤナギやハシバミを生い茂らせ、家から一マイルもないところには小さな湖があった。家の前は十エーカーほどの小麦畑、右側は数エーカーの放牧地、左側は牧草地になっていて、家の近くには、納屋と、井戸と、豚小屋と、トウモロコシの倉庫が一つずつと、小さめの物置きがいくつかあった。家の前には長く開けた芝生があり、その中央を砂利道が走り、両側には高いニレの老木が並んでいた。すぐ前の玄関先の庭は、低い杭の垣根でこの立派な芝生から隔てられ、垣根沿いにライラックの灌木が成長し、垣根の内側の家の近くには、バラ、カリカンサス、オオハンゴンソウの簡単な花壇があった。裏口からかなり離れた夏用のキッチンに通じる四阿の上にはぶどうが生い茂り、黄色い花を咲かせているノウゼンカズラで完全に覆われた高い木の幹の残骸があった。玄関先の庭の芝生はきれいに手入れがしてあった。この立派な芝生は、数本の大きな木の影に美しく飾られた、夢のような緑地だった。家は長いが奥行きはなく、正面に六つの部屋が一列に並んでいて、上の階がなかった。おそらく七十年前になるが、この家はもともと中央の二部屋しかなかった。その後で他のすべての部屋が追加され、この他にも、冬場のキッチンとダイニングがある差し掛け部分と、夏場のキッチンに通じる四阿の西に、塗装していない古いプレハブの倉庫があった。ここは、すべての部分がみすぼらしくて荒れ果てていたが、絵のように美しくて趣があった。
ユージンはここがとても魅力的であることを知って驚いた。中央からドアが開いて、端の部屋が直接芝生の上にあり、つる草がのぼり始めている窓があって、ライラックの灌木が家と広い芝生の間に緑の壁を作っている、長くて低い正面はユージンには魅力的だった。ありがたい日陰を作ってくれる立派なニレの並木は、歩哨の行列のようだった。馬車が正面の荷車用の門をくぐったときにユージンは思った。「愛すべき場所だな! いかにもアンジェラが住んでいそうなところだ」
馬車は芝生の左側にある小石の道をガタゴト走って、庭の門のところで止まった。マリエッタが出て来た。マリエッタは二十二歳だった。姉のアンジェラが厳格で、ある意味で病的だったのと同じ分だけ、陽気で、楽しい人だった。子猫のように軽やかで、いつも物事の明るい面を見て、行く先々で友人をたくさん作り、熱烈な手紙を書いてよこす恋人をわんさか抱えても、気だてのいい同情的な純真さで相手をはねつけた。この農場では町のような社交的な生活を送るチャンスはあまり多くはないと思われたが、いい男はあれやこれやと口実をつけてここにやって来た。マリエッタは磁石だった。アンジェラは妹が作り出した陽気な世界を共有した。
アンジェラはその時ダイニングにいた……呼ぶのは簡単だった……しかしマリエッタは姉がどんな恋人を捕まえたのかを自分の目で確かめたかった。マリエッタは相手の背の高さ、存在感、眼光の鋭さに驚いた。自分の姉の恋人がこんなにすばらしいとは到底理解できなかったが、微笑みながら手を差し出した。
「ウィトラさんですね?」マリエッタは尋ねた。
「そのとおりです」ユージンは少し気取って答えた。「ここまでの道はすてきですね?」
「天気が良ければすてきだと思います」マリエッタは笑った。「さすがに冬だとあまりお好きにはなれないでしょうね。中に入って手荷物を玄関に置いたらいかがかしら? デイビッドが部屋までお持ちしますわ」
ユージンは言うとおりにした。アンジェラのことや、彼女が現れた時のことや、彼女がどう見えるかを考えていた。広くて天井が低い暗く涼しい客間に足を踏み入れた。ピアノと、ラックに積み重ねられた楽譜を見てよろこんだ。開いた窓から、広い芝生の木の下にハンモックがいくつかかかっているのが見えた。ユージンにはすばらしい場所に思えた。詩そのものだった……するとアンジェラが現れた。飾りのない白のリネンの服を着ていた。髪はユージンの好きな大きなロープのように編まれて、額を帯のように横切っていた。大きなピンクのバラを一輪摘んでウエストにさしてあった。ユージンはアンジェラを見て両腕を伸ばした。アンジェラはそこへ飛んでいった。マリエッタが気を利かせて席を外し、二人だけになったので、ユージンは盛んにキスをした。
「やっと会えたね」ユージンはささやいて、再びキスをした。
「ええ、そうね、随分長かったわ」アンジェラはため息をついた。
「僕のつらさに及ぶはずはないさ」ユージンは慰めた。「一分ごとが拷問だった、待って、待って、待ちわびたよ!」
「もうそんなこと考えるのはやめましょう」アンジェラは強く言った。「私たちは一緒なのよ。あなたはここにいるんだから」
「はい、僕はここにいます」ユージンは笑った。「すべての美徳が一着の茶色いスーツを着ているよ。すてきじゃないか……この立派な木々といい、あの美しい芝生といい?」
ユージンはキスをやめて窓の外を眺めた。
「気に入ってくれてうれしいわ」アンジェラは楽しそうに答えた。「すてきだとは思うけど、ここってかなり古いのよ」
「そこがいいんだよ」ユージンは感謝するように叫んだ。「あの灌木はとてもいいね……あのバラが。ねえ、アンジェラ、あのすべてがどんなにすてきだかきみにはわからないかい……それにきみだ……きみはとてもすてきだよ」
ユージンは腕の長さの分アンジェラを離してじっくりとながめた。するとアンジェラはきれいに赤くなった。ユージンの熱心で、直接的で、精力的な攻撃は、時としてアンジェラを混乱させた……彼女の鼓動を速くした。
しばらくして二人は玄関前の庭に出て行った。するとマリエッタが再び現れた。ブルー夫人が一緒だった。人当たりのいい丸い体の六十歳になる母親は心からユージンを歓迎した。ユージンは彼女の中に、自分の母親……すべての立派な母親……に感じるものを感じることができた。秩序と平和への愛、自分の子供たちの幸福への愛、公的な尊敬と私的な名誉と道徳への愛。ユージンは他人の中のこういうすべてのものを心から尊敬した。ユージンは、そういうものを見るのが好きで、そういうものが社会に居場所を持っていることは信じたが、そういうものが自分に固定的な、あるいは重要な関係を持っているかどうかは確信がなかった。人生についてのどんな理論や道理よりも、人生は大きくて、繊細で、暗いものだ、といつも自分の私的な良心の中で考えていた。社会の一定の条件や属性の中で、男性や女性が誠実で道徳的であることは、それなりの価値があることかもしれないが、宇宙の根本的な実体や構成においては重要ではなかった。持続を希望する社会の形態もしくは秩序には、ブルー夫人のような、その社会の最高の基準や理念に一致する人たちがいなくてはならなかった。そして発見されればその人は称賛されるが、変化を続けている自然の微妙な力の中では何の意味もなかった。そういう人たちは、ここの秩序にとってはすべてを意味するものでも、宇宙全体にとっては何の意味もない何かから開花した、ただの偶然が重なったものに過ぎなかった。二十二歳のときユージンはこういうことを考えていた。この考えを発表することは可能だろうか、もし自分が考えたことを実際に世間が知ったら世間は自分をどう思うだろうか、何か本当に安定したもの……しがみつけるような岩……単なるうつろいゆく影や実在しないものではないもの……は存在するのだろうか、と考えていた。
ブルー夫人は優しい目で娘の若い恋人を見た。彼について多くのことを聞いていた。ブルー夫人は自分の子たちが正直で、道徳を重んじる、誠実な人間になるように育ててきたので、その子たちが同じような相手としか付き合わないと信じていた。ユージンがそういう男性だと思い込んでいた。彼の率直で隠し事のない表情とにこにこした目と口が、彼は根っからの善人である、と夫人に信じ込ませた。また、ユージンへの先入観を夫人に抱かせたのは、時々ゲラ刷りでアンジェラに送られた彼のすばらしい絵だった。特にイーストサイドの群衆の絵だった。家族の他の娘たちは、三人が嫁いでいたが、誰もこういうタイプの男性を選ばなかった。ユージンは、すべての社会の慣習的な義務を喜んで当然のこととして果たす、将来の義理の息子と見なされた。
「お言葉に甘えてご厄介になります、ブルーさん」ユージンは愛想よく言った。「こちらへお伺いしたいといつも思ってました……アンジェラからご家族のことをたくさん聞いています」
「私たちが持っているのはただの田舎の家で、大して見るところはありませんが、私たちは満足しています」女主人は答えた。ブルー夫人は穏やかに微笑んで、ハンモックでくつろぎませんかと尋ねた。ニューヨークで仕事が順調にいっているかを知りたがり、それから料理に戻った。すでに彼の初めての食事の準備に取りかかっていた。ユージンはアンジェラと一緒に広い芝生の木の下のところまで散歩して腰をおろした。彼はこの世の人間の感情の中で最も高尚なものを経験していた……若い愛は受け入れられ報れた。若者の願いはニューヨークでの成功で、やってよかったことが証明された。若い安らぎは、十分に稼いだ休暇を手中に収め、そうするための手段と、彼を慰めるための愛と美と称賛と楽しい夏の天気に恵まれて、静かな時を刻んでいた。
すてきな芝生を見つめ、このすべてを認識しながら、ハンモックで揺れるうちに、ユージンの視線が最後にアンジェラのところでとまった。ユージンは思った。「人生にこれ以上すばらしいことがあるものか」
第十八章
正午近くになって、畑で畝の間の土を掘り返していたジョーサム・ブルー老人がトウモロコシ畑からやって来た。六十五歳で、雪のような髪と顎鬚だが、元気そうに見え、九十歳でも百歳まででも生きられそうだった。目は青くて鋭く、肌はバラ色で、若い頃は美青年だっただけに、引き締まった腰にすごく広い肩が乗っていた。
「はじめまして、ウィトラさん」ブルーは畑の黄色い泥を長靴につけたままやってきて、気楽な品のいい態度で言った。ポケットから大きなジャックナイフを取り出して、拾った細い小枝を削り始めた。「お会いできてうれしいです。娘のアンジェラが、あなたのことをいろいろ話してくれました」
ブルーはユージンを見て微笑んだ。そばに座っていたアンジェラは起き上がって家の方へ歩いて行った。
「こちらこそお会いできてうれしいです」ユージンは言った。「このあたりはすてきですね。豊作のようですし」
「豊作ですわ」年をとった家長は、木の根元にあった椅子を引き寄せて座りながら言った。ユージンはハンモックに体を沈めた。
「石灰と炭素とナトリウム……植物を成長させる物質……が豊富な土なんですよ。肥料はほんの少ししか必要ありません……ほんの少しなんです。大事なことは、地面をしっかりと耕して、虫や雑草を寄せ付けないことなんです」
ブルーは黙って考え込むようにして棒を切りつけた。ユージンは、農業に関する化学的、物理的な知識に注目した。作物の栽培の知識が増えたのがわかってうれしかった。
「ここへ来る途中で、立派な小麦畑がいくつかあることに気づきました」ユージンは言った。
「ええ、ここは小麦がよく育つんです」ブルーは続けた。「そこそこ天候に恵まれるとね。トウモロコシだってよく育ちます。この州は、リンゴの収穫が見事なんですよ。それに、ぶどうも概ねうまくいきます。私は常々、ウィスコンシン州は他の渓谷の州の中でも僅差で一番だと思ってるんです。穏やかな気候、大小たくさんの河川、すてきな起伏の激しい風景に恵まれてますからね。北には良質の鉱山があるし、材木だっていっぱいとれます。我々は豊かな市民ですよ、我々ウィスコンシン州の者は、明らかに裕福です。この州にはすばらしい未来がありますよ」
ブルーが話す間、ユージンはその澄んだ青い目の眉間が広いことに気がついた。自分の州と国に対するブルーの考えの大きさが気に入った。決してけちでちっぽけな土地を利用する農夫ではなく、その言葉の広い意味での農場経営者だった……土を理解して土を耕す者……自分の州と国を愛する一人のアメリカ人だった。
「僕はいつもミシシッピ渓谷を将来性のある地域だと考えてきました」ユージンは言った。「ナイル渓谷やユーフラテス渓谷は人口が多いですが、ここはもっと大きいですからね。むしろ、人口の大きな波が将来ここに押し寄せる気がします」
「ここは世界の新しい楽園ですね」ジョーサム・ブルーは削る作業を中断して、強調するために右手をあげながら言った。「我々はその可能性に気づいていないんだ。世界中の国を養うほどの果物、トウモロコシ、小麦をここで栽培できるのに。土の生産力には時々度肝を抜かれますよ。とても気前がいいんです。偉大な母親みたいなもんです。自分が持っているものをすべて与えるために、優しく扱われることを求めるだけですからね」
ユージンは微笑んだ。将来の義父の心の大きさがユージンを魅了した。ユージンはこの人を愛せるような気がした。
二人は他のことも語り合った。周辺の住民の性格、シカゴの発展、ベネズエラとの戦争に関する最近の脅威、民主党の新しい指導者の台頭、ジョーサムはこの男をとても尊敬していた。最近ブラックウッドで会ったらしく、その男の偉業について話をしていると、ブルー夫人が玄関の入口に現れた。
「ジョーサム!」と呼んだ。
ブルーは立ち上がった。「家内のやつ、バケツの水をほしがっているに違いない」と言って行ってしまった。
ユージンは微笑んだ。これはすばらしかった。これこそ人生のあるべき姿だった……健康、強さ、人柄の良さ、理解力、純真さが組み合わさったものだった。ユージンは、自分がジョーサムのように健全で、心の温かい、清らかな、強い男でありたいと思った。考えてみれば、彼は八人の子供を育てあげたのだ。アンジェラがすてきなのも不思議ではなかった。きっと、全員がすてきな人に違いない。
ユージンが揺れていると、マリエッタがニコニコしながら、風に吹かれたブロンド髪を顔のまわりになびかせて戻ってきた。父親と同じように青い目をしていて、父親と同じように、温かくて、血色が良く、楽天的な気質だった。ユージンは彼女に惹かれるのを感じた。彼女は彼に少しルビーを……少しマーガレットを……思い出させた。若々しい健康があふれていた。
「あなたはアンジェラよりも強いですね」ユージンは相手を見ながら言った。
「ええ、私はいつだってエンジェルフェイスなんかに負けないわ」マリエッタは大きな声で言った。「時々喧嘩をするけど、私が姉から物を取り上げちゃうの。姉が降参しなきゃならないのよ。時々私の方がお姉さんって気がするわ……いつも私が主導権を握るんだから」
ユージンはエンジェルフェイスというあだ名を面白がった。アンジェラにぴったりだと思った。アンジェラは、彼が見たことがある古い版画やステンドグラスの窓に描かれた天使の絵に似ていた。しかし、マリエッタの方が優しい気質を持っているのではないだろうか……本当はもっと愛らしくて親しみやすいのではないだろうか、とユージンは漠然と思った。ユージンはこの考えを無理やり頭から追い出した。ここではアンジェラに誠実であらねばならないと感じた。
二人が話していると、末っ子のデイビッドがやって来て芝生に腰を下ろした。十六歳という年齢の割に背が低く、がっしりとしていて、知的な顔立ちと好奇心旺盛な目をしていた。ユージンは彼の性格に安定感と静かな力を同時に感じた。ユージンは、この子供たちが両親から強さだけでなく性格も受け継いだことをわかり始めた。ここはよく出来た子供たちが育てられている家庭だった。しばらくしてベンジャミンが現れた。背が高く、育ち過ぎの、西部風に修正が加わった厳格な若者だった。それからサミュエルが現れた。元気な息子たちの最年長で、最も印象的だった。父親に似て大柄で穏やかで、褐色の肌とヒッコリーのような強さを持っていた。ユージンは会話の中で彼がセントポールで鉄道員をしていること知った……三年家を空けた後で短い休暇をとって帰省していた。グレート・ノーザン鉄道の社員で、すでに乗客係の第二補佐の任につき、とても前途有望だと家族は考えていた。男も女も全員がアンジェラのように垢抜けない、裏表のない正直者ばかりなのが見て取れた。彼らにはキリストの教えが書き記されていた……教会の教義ではなく……キリストの教えが明るく相性良く適用された。できる限り十戒に従い、人が正気やまともと考える範囲内で生活した。ユージンはこれに驚いた。自分の道徳面のだらしなさは彼の悩みの種だった。自分は必ずしも間違っていないのではないだろうか、彼らはすべて正しいのだろうか、とユージンは考えた。宇宙の繊細さ……その化学的な現象の謎……は常に彼と共にあった。ユージンはある種の社会秩序に間違いなくなじめなかった……では、一般的な人生はどうかというと彼にもわからなかった。
十二時三十分、ドア越しにブルー夫人のディナーを知らせる声がかかると全員が立ち上がった。知的な農家によくある簡単なホームパーティーの一つだった。新鮮な野菜、グリーンピース、とれたてのジャガイモ、とれたてのサヤインゲンが豊富にあった。ステーキはこの部位を提供する地方巡回の肉屋から確保したもので、できたてほやほやのあっさりしたビスケットはブルー夫人のお手製だった。ユージンが新鮮なバターミルクが好物だと言うと、子供たちが好まないので、いつもは豚にあげるんだと言いながら、水差し一杯分を持ってきてくれた。彼らは話をして冗談を言い、ユージンはあちこちの人たちに関するどうでもいい情報を聞いた……疝痛で馬を失った農夫と、小麦を刈る準備をしている農夫がいた。ウィスコンシン州の他の町に住む三人の姉たちが頻繁に話題にのぼった。子供が大勢いてかなり大変そうだった。三人ともよく家に来るらしく、家族全体が関係することには密接に関わり合うようだった。
「ブルー家のことを知れば知るほど」ユージンが団結力の強さに驚いていると、サミュエルが話しかけた。「ただの家族ではなく一族であることがわかってきますよ。ニカワのようにくっついて離れないんです」
「それはかなりいい特徴だと言うべきでしょう」ユージンは笑った。彼は自分の身内にこれほど強い関心を感じなかった。
「まあ、ブルー家がどう団結するかを知りたければ、そのうちの一人を何とかすることですな」入ってきた近所のジェイク・ドールが言った。
「確かにそのとおりだな、えっ」アンジェラの隣の席にいたサミュエルが、やさしく手を腕に添えて言った。ユージンはその動きに注目した。アンジェラは幸せそうにうなずいた。
「ええ、私たちブルー家の者はみんな団結するわ」
妹への愛情だとはっきりしていても、ユージンは彼が妬ましかった。果たしてこういう娘は、こういう雰囲気から切り離せるものだろうか……ここから完全に切り離して全く違う世界に連れて行けるのだろうか、とユージンは疑問に思った。アンジェラはユージンを理解するだろうか、ユージンはアンジェラに誠実でいるだろうか。ユージンはジョーサムとブルー夫人に微笑みかけて、そうすべきだと思った。しかし人生は不思議である。何が起こるか決してわからない。
午後には、もっとすばらしい印象深いことがあった。ユージンとアンジェラは、食事後の二時間を二人っきりで涼しい客間で過ごした。その間にアンジェラについての印象を繰り返し述べた。彼女の家庭を彼がどれほど魅力的だと思ったか、彼女の両親がどんなにすてきか、何て面白い兄弟がいるのだろう、と話した。正午にジョーサムのところへ行ったときに、穏やかな似顔絵を描いた。これにアンジェラは喜んで、父親に見せるためにそれを預かった。窓辺でアンジェラにポーズをとらせて、頭部と後光が差しているような髪をスケッチした。バワリー街の夜景の見開きページのイラストを思い出して、自分が泊まることになっている、家の奥にあるすてきな涼しい部屋を初めて探しながら、それを取りに行った。西側の窓からタチアオイが中をのぞいていて、北側のドアからは涼しい日陰の草地に出られた。美しいところに来たものだと考えて、降り注ぐ幸せの上を歩んでいた。美しいものはどこにでもあって永遠に続くのではないのと同じで、こういう喜びはいつもあるとは限らない、と考えるとつらかった。
アンジェラは〈トゥルース〉が複製した絵を見て、喜びと誇りと幸せとで我を忘れた。これは自分の恋人の能力を証明するものだった。ユージンがニューヨークの美術界について毎日のように手紙を書いてよこしたから、アンジェラは誇張されたイメージでそれをよく知っていた。しかし複製された絵と同じで、実際の物事は違っていた。全世界がこの絵を目にするだろう。彼はすでに有名であるに違いない、とアンジェラは想像した。
その夜も次の夜もその次の夜も二人っきりで客間に座っていたので、ユージンは愛する男女の間に生じるあの確定的な合意へとどんどん近づいた。もし根気よく自制しなかったら、ユージンはただのキスや控えめな愛撫だけでやめることはできなかった。愛が進むことはユージンには自然に思えた。彼は結婚していなかった。その責任がどういうものかを知らなかった。彼は、両親が彼を立派な人にするために何に耐えてきたのか、一度も考えたことがなかった。彼の中にはそれを教えてくれる本能がなかった。ユージンには、親になりたいというあこがれがなかった。家庭の未来図や、家族を養う適切な社会的条件を教えてくれるあの普通の欲望がなかった。彼が考えたのは、愛の営みの段階……いちゃいちゃと、それに伴う喜びの恍惚……だけだった。アンジェラの場合は、屈服するのがとても遅かった……自分を守ろうとするので、こういうことは確かに普通ではないのだろうと感じた。時々目をのぞき込むと、感情の嵐を予感させる恍惚の表情が見えた。ユージンはそばに座って手をなで、頬に触れ、髪をなでつけたり、あるいは両腕で彼女を抱きしめたりしていた。アンジェラ自身が、愛の喜びを求めてやまなかったので、ユージンからのかなりの圧力に抗い、手の長さの分の距離を置くのは、彼女にとってもつらかった。
この家族全員の尊敬が高まりつつある中で、ユージンがアンジェラを崖っぷちに追いやったのは、滞在三日目の夜だった。……ユージンではなくアンジェラが偶然感情を乱さなかったら、彼はアンジェラに一線を越えさせていただろう。
みんなで午後、家から少し離れたオコーネーという小さな湖に泳ぎに行った。
その後、ユージンとアンジェラとデイビッドとマリエッタはドライブした。それは時々夏に訪れて、愛と美の心に直接語りかけるすてき午後の一つだった。よく晴れて暖かく、木陰がとても快適だったので、かなりユージンの胸をうずかせた。今は若くて、人生はすばらしいが、老いたらどうなるのだろう? 災難への病的な取り越し苦労が、彼の魂を苦しめているようだった。
彼らが家に近づく頃には、夕日はすでに沈んでいた。昆虫がぶんぶん飛び、時々牛の鈴の音がした。迫りくる夜の先触れの、冷たい空気の息吹が、時々小さな窪地を通過するときに、彼らの頬をなでた。家に近づくと、キッチンの煙突から、夕食が準備中なのを予感させる青い煙がゆらゆら立ち上っているのが見えた。ユージンは感激のあまり我を忘れてアンジェラの手を握った。
夢にひたりたかった……夕闇が降りる間、アンジェラとハンモックで過ごし、このきれいな風景を眺めていた。あたり一面に人生があった。ジョーサムとベンジャミンが畑からやって来ると、汚れを洗い落としているキッチンから声と水しぶきの音がした。納屋では馬が予期して足を踏み鳴らし、遠くの牛がモーと鳴き、豚が腹を空かせて鼻を鳴らした。ユージンは首を振った……とても牧歌的で、とても心地よかった。
夕食では、目の前に置かれたものにほとんど手をつけなかった。食卓にいた人たちが、すばらしい光景として彼の注意を引き続けた。後でユージンは家族の者と一緒に外の芝生に座った。花の香りを吸い、木々の向こうの星を眺め、ジョーサムとブルー夫人、サミュエル、ベンジャミン、デイビッド、マリエッタ、時々アンジェラの話に耳を傾けた。最高に美しいものの前にいたにもかかわらず、ユージンが悲しい気分だったので、アンジェラも静かだった。アンジェラはユージンと父親の話を聞いていて少ししか話さなかったが、話すときの声は優しかった。
しばらくするとジョーサムが起き上がって床についた。他の者も順々に後に続いた。デイビッドとマリエッタは居間に入って、サミュエルとベンジャミンは行ってしまった。彼らは午前中の仕事が大変なのを言い訳にした。サミュエルは再び脱穀に挑戦するつもりだった。ユージンはアンジェラの手を取ってアジサイが咲いているところへ連れ出した。日中は雪のように白かったのに、暗闇だと青白い銀色だった。ユージンは彼女の顔を両手で包んで、再び愛を告げた。
「実にすばらしい一日だったんで、すっかり興奮してしまった」ユージンは言った。「ここの生活はとても美しいね。ここはとても心地いい平和なところだ。そしてきみもね! そう、きみだよ!」キスが言葉を終わらせた。
二人は少しそこに佇んで、それから客間に戻り、アンジェラがランプを灯した。ランプは部屋中に柔らかい黄色の光を投げかけた。部屋を暖めるのにちょうどいいとユージンは思った。最初のうちは並んで二つのロッキングチェアに座っていたが、その後で長椅子に移りユージンはアンジェラを両腕で抱きしめた。夕食の前にアンジェラはゆったりしたクリーム色の室内用ガウンドレスに着替えていた。今度は髪を二つの三つ編みにするようにユージンはアンジェラを説得した。
本物の情熱は鳴りを潜めていた。これはユージンにとってあまりにも強烈だったので、まるで魔法にかかったかのように座って彼女を見つめていた。アンジェラは彼の肩にもたれかかって彼の髪をなでていたが、最後にはそれさえもやめてしまった。何しろ自分の感情が高まり過ぎて動けなかったからだ。アンジェラはユージンのことを、強くて、男らしくて、美しい……輝かしい未来が待っている若い神だと考えた。この数年の間ずっとアンジェラは誰かが本当に自分を愛してくれるのを待っていた。そして今このすばらしい若者が明らかにその身を彼女の足元に投じたのだ。ユージンはアンジェラの手と首と頬をなで、それからゆっくりと引き寄せて、その胸に頭を埋めた。
アンジェラは昔気質で、両親の教えをよく守り、家族の価値観と家族の考え方の影響が強かったが、この状況には抗いきれなかった。まずは彼の腕の圧迫、次に我が身を愛撫する彼のゆっくりとした繊細な感触を受け入れた。ユージンがしっかりと……彼の魅力の中で……抱きしめていたので、今となっては抵抗はほぼ不可能に思えた。最後に彼の手が自分の震える手足を圧迫するのを感じたとき、アンジェラは苦悩と喜びに陶酔して体をのけぞらせた。
「だめよ、だめ、ユージン」アンジェラは懇願した。「だめ、だめだってば! こんな私を救ってください。私を救ってほしいんです。ああ、ユージン!」
ユージンはいったん動くのをやめてアンジェラの顔を見た。激しい苦悶の皺が浮かんでいた……まるで病人のように青ざめていた。体まで完全にぐったりしていた。熱く潤った唇だけが、意味ありげな物語を語った。ユージンはすぐにはやめられなかった。ゆっくりと手を引っ込めた。それから繊細な画家の指を優しく彼女の首……胸元……に添えた。
ここでアンジェラはぎこちなくもがいて、膝をついた。ドレスの首のあたりがゆるんだ。
「やめて、ユージン」アンジェラは頼み込んだ。「やめてったら。父と母のことを考えてよ。私、ずっと誇りにしてきたんだから。両親とも私を信じてくれているのよ。ねえ、ユージン、お願いだから!」
ユージンはアンジェラの髪と頬をなで、アベラールがエロイーズに向けたかもしれない眼差しでその顔を見つめた。
「ああ、理由はわかるわ」アンジェラは発作的に叫んだ。「私だって他の誰よりも優れているわけじゃないし、ずっとずっと待ちわびてきたんだから! でも、いけないことなのよ! ねえ、ユージン、私はやってはいけないのよ! わかってちょうだい!」
ユージンは何となく理解した。アンジェラにはずっと恋人がいなかった。なぜだろう? ユージンは考えた。こんなに美しいのに。ユージンは起き上がった。アンジェラを自分の部屋へ運れていくつもりだったが、立ち止まって考えた。彼女はこういう哀れな人だった。自分は本当にこんな目に遭うほどひどかっただろうか? この場合、自分は妥当ではなかっただろうか? 彼女の父親は彼にとても親切だった……母親もそうだった……少し前と同じように、目の前に、ジョーサム・ブルーと、ブルー夫人と、彼女の立派な兄弟姉妹が見えた。ユージンはアンジェラを見た。相変わらずこのすばらしい人は彼を魅了した……もう少しで抑えきれずに押し流されてしまうところだったが、彼は踏みとどまった。
「立ってくれ、アンジェラ」気を取り直して、相手を激しく見つめながら、ユージンはようやく口を開いた。アンジェラは立ち上がった。「僕を独りにしてくれ」ユージンは続けた。「さあ、早く! きみがいなくなってくれないと僕は自分に責任が負えなくなる。これでも努力しているだ。さあ、行ってくれ」
アンジェラは躊躇して、不安と後悔にかられて相手を見た。
「ねえ、許して、ユージン」アンジェラはすがる思いだった。
「許してほしいのは」ユージンは言った。「僕の方だ。でも今は行ってくれ、アンジェラ。きみにはこのつらさはわからない。せめて席を外してくれ」
アンジェラは立ち去った。ドアにたどり着くまでユージンは、憧れの燃えるような眼差しで後を追った。アンジェラが静かにドアを閉めると、ユージンは自分の部屋へこもって座り込んだ。体に力が入らず、くたくただった。経験した雰囲気が強烈だったので、頭から爪先までうずうずした。ユージンは自分の経験にほとんど唖然としながら、さっきの出来事を振り返り、それから外に出て星空の下に立って耳をすました。アマガオルが鳴いていた。草むらでは虫がうごめくような怪しい物音がした。どこかでカモがかすかに鳴いた。小さな川の水辺のどこかで、家族の牛の鈴の音がした。ユージンは夜空の立派な北斗七星、シリウス、カノープス、天の川の広大な銀河を見た。
「一体、人生って何なのだろう?」と自問した。「人間の体って何なのだろう? 何が情熱を生むのだろう? ここで僕らは数年間、憧れの熱をあげて感情を高ぶらせ、それから燃え尽きて死ぬんだ」ユージンは自分が書くかもしれない詩と、描くかもしれない絵を考えた。まるで映写機のように、その間ずっと彼の心の目に再生されたのは、今夜ひざまづいて彼の腕の中にいたアンジェラの姿だった。ユージンは彼女の真の姿を見てしまった。彼女を両腕で抱きしめたのだ。今夜は自発的に彼女の魅力をあきらめた。とにかく、ひどいことにはならなかった。絶対にあってはならなかった。
第十九章
この特別な夜の体験が、ユージンのアンジェラに対する見方を変えたとしても、それがどのようなものであったを説明するのは難しいだろう。ユージンは自分が彼女の人柄だと思ったもののために、一層彼女を好きになりそうだった。自分の弱さと自分を救えないことを率直に告白したのは、立派だった。崇高な行いをするチャンスを与えられたことは幸運であり、精神が高揚することだった。今やユージンは自分が望めば彼女を自分のものにできることがわかった。いったん冷静さを取り戻すと、正しい形でいこう、無理強いはするまい、と決心した。ユージンは待つことができた。
それとは逆に、感情の爆発から覚めて自分の部屋というか、家の反対側にあるマリエッタと共用している部屋でひとりっきりになってからのアンジェラの精神状態は、みじめだった。彼女は長い間、自分のことを尊敬すべき貞淑な娘だと考えていた。アンジェラにはほんの少し潔癖症じみたところがあった。これは、もし社会の慣習的な意見やオールドミスの気持ちを下に見ているというか、無理解、無関心なユージンが、いつものように物質的な豊かさや年齢制限に目を向けずにやって来て、彼女をつかまえて恋をしていなかったら、彼女を簡単に不幸なオールドミスにしていたかもしれないものだった。ユージンはアンジェラの頭脳を今までの彼女の世界には馴染みがなかった概念の渦で満たし、自分こそ従うべき法であるとして、自分のことをアンジェラの頭脳に組み込んだ。彼は他の男性とは違っていた……それはアンジェラにもわかった。彼は他の男性より優れていた。彼は画家で大した稼ぎはないかもしれないが、彼女にとってはもっと望ましく思える他のものをもたらせるかもしれなかった。名声、名画、有名人の友だちは、お金よりもはるかに優れたものではないだろうか? どう見てもアンジェラにお金のゆとりはなかった。ユージンが少しでも稼いでくれれば彼女はそれで十分だった。ユージンは結婚するには大金が必要だと考えているようだったが、結婚のためならアンジェラはどんなリスクでも喜んで背負っただろう。
ついさっき明らかにされた彼女の新事実は、身持ちの固さを重んじるように慎重に育てられた信念から彼女の心を引き裂いただけでなく、自分へのユージンの愛に最悪の事態を招いたのではないかという疑心暗鬼を同時に引き起こした。新婚初夜まで残しておくべきだった貴重な愛情の表し方を彼に許してしまった今、彼はこれまでと同じように自分を大切にするだろうか? 彼は私のことを、我が身を委ねる絶好のチャンスだけを待っている、軽薄で、簡単に落ちる人間だと考えなかっただろうか? あの時、自分が善悪の感覚を完全に失ってしまったことをアンジェラは知っていた。父親の人柄と彼が奉じる信条、母親が体面を重んじ美徳を敬愛していること、清らかな心で正しい生活を送っている兄弟姉妹……すべてが忘れ去られ、汚れた乙女となって彼女はここにいた。技術的な意味では貞淑であっても、汚れていた。伝統的な価値観を叩き込まれた良心が彼女を激しく打ちのめした。アンジェラは心の中でうめき声を上げた。部屋のドアの外に出て、早朝の湿った草の上に座って考えた。彼女の魂の中以外は、どこもとても涼しくて穏やかだった。両手を顔にあてて、熱い頬を感じながら、今頃ユージンは何を考えているだろう、と考えていた。父親と母親はどう思うだろうか? 手を何度も握り締めてからやっと家の中に入り、眠れないかどうかを確かめた。さっきの出来事のすばらしさと喜びに気づかなかったわけではないが、自分が考えるべきだと感じたことと、自分の将来に及ぼす影響に悩まされた。今、ユージンを手放してはならない……これは微妙な問題だった。これまでどおりに彼の前で堂々と向き合うことができるだろうか? 彼がこれ以上先に進まないようにしなければならない。これは難題だった。アンジェラは一晩中落ち着かずに寝返りを打ち、少ししか眠れなかった。朝、疲労と不安で目が覚めたが、これまで以上に必死に恋をしていた。このすばらしい青年は、全く新しくてものすごくドラマチックな世界をアンジェラに見せてくれたのだ。
朝食前に芝生で再会したとき、アンジェラは白いリネンの服を着ていた。ロウのようにこわれやすそうで、目には彼女を悩ませていた暗い考えと同じくらい暗い隈があった。ユージンは気遣うように彼女の手を取った。
「心配いらないよ」と言った。「わかってるからね。きみが思ってるような悪いことにはなってないよ」そして優しく微笑んだ。
「ああ、ユージン、私もう自分で自分がわからないのよ」アンジェラは悲しそうに言った。「自分はもっときちんとした人間だって思ってたんだけど」
「僕らはどっちもそれほどきちんとした人間じゃないよ」ユージンは簡潔に答えた。「時々そうだと思うだけさ。きみは僕と何も違わないよ。きみが自分でそうだと思っているだけさ」
「まあ、本当?」アンジェラはしきりに尋ねた。
「本当だとも」ユージンは答えた。「どんな二人の間であっても、愛は怖いものじゃない。すてきなだけさ。どうして僕がきみのことを悪く思わなければいけないんだい?」
「だって、きちんとした女の子は、私がしたようなことはしないでしょ。私は、もっときちんとしたことを知りなさい、もっときちんとした行いをしなさい、って育てられてきたのよ」
「きみが信じていることは、すべて自分が教わったことから身につけたことだよ。きみはあれを過ちだと思っている。なぜだい? お父さんとお母さんがそう言ったからさ。そうじゃないかい?」
「あら、それだけじゃないわ。みんながあれを過ちだと思うわよ。聖書だってそう教えているでしょ。人が知ったらみんなあなたに背を向けるわ」
「ちょっと待ってくれ」ユージンは理屈をこねるように言った。彼は自力でこの問題を解こうとしていた。「聖書を持ち出すのはよそう。だって僕は聖書を信じていないからね……とにかく行動の基準としては信じていないんだ。みんながそれを過ちだと思っている事実が、必ずしも過ちだとは限らないだろう?」ユージンは万物を支配する原理の反映としての『みんな』の重要性を完全に無視していた。
「限らないわね」アンジェラは怪訝そうに言った。
「いいかい」ユージンは続けた。「コンスタンチノープルではみんなが、マホメットは神の予言者だ、と信じている。だからといって、彼がそうだということにはならないよね?」
「ならないわ」
「それじゃあ、ここのみんなは、そうではなくても、僕たちが昨夜したことが過ちであると信じるかもしれない。そうじゃない?」
「そうね」アンジェラは混乱しながら答えた。本当はわかっていなかった。アンジェラでは彼と議論ができなかった。ユージンはあまりにも微妙すぎたが、それでもアンジェラのもともとの原理と本能は、十分明白に語り続けた。
「今、きみが本当に考えていることは、世間がどういう行動をとるかってことなんだ。きみは、みんながきみに背を向けるって言うんだろ。これは現実の問題だけどね。お父さんはきみを閉め出すかもしれない……」
「父ならそうすると思います」父親の心の広さをろくに理解していないくせに、アンジェラは答えた。
「お父さんはそんなことしないと思うよ」ユージンは言った。「でも、それが問題なんじゃない。男性がきみとの結婚を拒むかもしれないってことだ。ここが思案のしどころなんだよ。これに本当に正しいとか間違いが関係するって言うつもりじゃないだろうね?」
ユージンは自分の主張に納得のいく結論を持っていなかった。この問題の何が正しくて何が間違っているのかを他の誰よりも知っているわけではなかった。ただ自分を納得させるために話しているだけだったが、アンジェラを混乱させるのに十分な理屈は持っていた。
「私にはわからないわ」アンジェラは言葉を濁した。
「正しいというのは」ユージンは高慢な態度で続けた。「真実の基準に従っていると思われるものさ。今だって真実が何なのか、世界中の誰も知らないよ、誰もね。それを知るすべがないんだ。自分個人の幸福のために、賢い行動ができるか、賢くない行動ができるか、だけだからね。もしきみの心配していることがそれだというのなら、きみの立場はまったく悪化していないと僕は言えるよ。きみの立場には何の問題もない。よくなったと思うよ。だって僕は前よりもきみを好きになったからね」
アンジェラはユージンの頭脳の微妙な考え方に驚いた。確信は持てなかったが、彼の言ったことは本当かもしれなかった。自分の不安は杞憂だったのだろうか? いずれにせよ、少女時代の清純さの一部を失ったことを実感した。
「どうしてそうなれるのかしら?」アンジェラは、ユージンが前よりも彼女を好きになったと言ったことに触れて尋ねた。
「簡単なことさ」ユージンは答えた。「前よりもきみのことがわかったからだよ。僕はきみの率直なところが好きなんだ。かわいいしね……とっても。比べものにならないほどすてきだよ」ユージンは詳しく語り始めた。
「やめてってば、ユージン」アンジェラは唇に指をあてて頼んだ。頬から血の気が引いていった。「お願いだからやめて、耐えられないわ」
「わかった」ユージンは言った。「やらないよ。でも、きみは本当にすてきだよ。ハンモックのところへ行って座ろうか」
「だめよ、朝食の迎えに来たんだから。そろそろ何か食べる時間でしょ」
ユージンは特別扱いをされて快適だった。他の者はみんな出払っていた。ジョーサム、サミュエル、ベンジャミン、デイビッドは畑に出ていた。ブルー夫人は縫物をしていて、マリエッタは道の先まで女の友だちに会いに行った。アンジェラは彼女の前にいたルビーと同じように、この青年の食事づくりに精を出した。ビスケットを混ぜ、ベーコンを焼き、新鮮なデューベリーの実をかご一つ分洗った。
「お前の彼氏はいい人だね」母親が自分の作業場から出てきて言った。「性格がよさそうだよ。だけど、男は甘やかっしゃだめだからね。最初を間違えると後で後悔するのはお前だよ」
「お母さんだってお父さんを甘やかしたでしょ?」父親が受け入れたちょっとした気ばらしの数々を思い出しながらアンジェラは賢く尋ねた。
「あなたのお父さんは強い義務感を持ってるもの」母親は言い返した。「少し甘やかされたくらいで駄目にならなかったでしょ」
「多分ユージンだってそうよ」アンジェラは薄切りのベーコンをひっくり返しながら答えた。
母親は微笑んだ。彼女の娘はみんな幸せな結婚をしていた。おそらく、アンジェラがその中で一番うまくやっていた。確かに、アンジェラの恋人は一番際立っていた。それでも「せいぜい用心することだよ」と母親は口添えした。
アンジェラは考えた。もし母親が、あるいは父親が知ってしまったら。神さま! しかし、ユージンはとてもすてきだった。彼に仕えたかったし、甘やかしたかった。これから毎日、彼と一緒にいられることを願った……もう二人が離れ離れになる必要がないことを願った。
「ああ、彼が私と結婚してくれたらなあ」アンジェラはため息をついた。結婚は彼女の人生を完成させる神聖な一大行事だった。
ユージンだってこの環境の中にいつまでも居続けたくなっただろう。高齢のジョーサムが彼と話すことを気に入ったことに気づいたはずだ。ジョーサムは国内外の情勢に関心を持ち、ずば抜けた特異な人物を認識して、世界各地の動向を追い続けているようだった。ユージンはジョーサムを優れた人物だと考え始めたが、老人はその指摘をやんわりと受け流した。
「私は一介の農民です」と言った。「私は良い子供たちを育てることに大成功したことならあります。せがれらは立派にやっていくでしょう」
ユージンは初めて父親の感覚がわかった。自分の子供たちの中でもう一度人生を送るとはどういうことであるかだが、漠然としかわからなかった。彼は若すぎたし、変化の多い人生を望みすぎたし、あまりにも貪欲だった。だからしばらく、その本当の重要性は失われた。
日曜日が来た。帰らなければならなかった。ここに九日いたわけだが、実は予定していた滞在期間より二日多かった。アンジェラとはお別れだった。彼女はずっと身近な存在になり、しっかり彼に掌握されたので、手玉にとられた子供も同然だった。さらには、理想的な景色とも、少し牧歌的な詩情ともお別れだった。ジョーサムのような、清潔で、親切で、聡明で、トウモロコシ畑の中でぴんと背筋を伸ばし、いい父親であることが誇りで、貧乏を恥じず、老いも死も恐れない、年老いた家長にまた会うのはいつだろう。ユージンは彼からとても多くのことを学んだ。イザヤの足もとに座っているようなものだった。美しい野原、青々とした丘、芝生の散歩道沿いの長い並木、玄関の前庭に咲く白や赤や青の花々ともお別れだ。清潔な部屋でとても心地よく眠り、森の鳩や詩人のツグミなどの鳥の声を楽しく聞き、きれいな小石の上をさらさらと流れるブルー家の小川の水音に耳を澄ませたこともあった。納屋の前の囲いにいた豚も、馬も、牛も、全てが名残惜しかった。グレイの『エレジー』や、ゴールドスミスの『寒村行』と『旅人』が頭に浮かんだ。ここは、こういう男たちが愛したものに似ていた。
その時が来ると、行かなくてはならないのがどんなに残念かを繰り返しながら、アンジェラと一緒に芝生を歩いた。デイビッドが小さな茶色の雌馬を馬車につないで、芝地の一番はずれで待っていた。
「ああ、アンジェラ」ユージンはため息をついた。「きみと一緒になるまで、僕は幸せになれない」
「ねえ、私を連れて行って!」とアンジェラは叫びたかったが「待っているわ」とため息をついた。ユージンが行ってしまうとアンジェラは機械的に自分の仕事をこなした。まるで人生から全ての火と喜びが消えてしまったみたいだった。物事を照らす彼の華麗な想像力がないと、人生がつまらなく思えた。
道中、心の中ですばらしいものの一つ一つ……小麦畑、小川、オコーネー湖、すてきなブルー家の農場の中の家、すべて……に別れを告げながら、ユージンは馬車に乗った。
ユージンは心の中で言った。「これ以上すばらしいものは二度と現れないだろう。質素な小さい客間の中で、僕の腕の中にいたアンジェラ。神さま! 人生はたった七十年しかない……なのに、本当の若さは全部で十年、いや十五年もないんだからな」
第二十章
変化を遂げて一層親密になった二人の関係のおかげで、不思議なほど深みを増したアンジェラへの感情だけではなく、大きくなり続ける彼女の家族への尊敬の念を抱いて、ユージンは帰ってきた。ジョーサム老人はとても印象的な男らしい人で、妻はとても親切で真面目だった。子供たちやお互いに対する二人の態度は至って健全で、社会との関係全体がとても立派だった。別の見方をする人は、彼らの生活の質素倹約ぶりを受け付けなかったかもしれない。しかしユージンは、そういう生活の物質的な質素さをさげすむほど贅沢を十分には知らなかった。ここで彼は、優れた人格、詩に出てきそうな場所、詩的な野心、若さ、そして幸福な前途を見つけていた。ここの子供たちは、とてもたくましくて独立心が強く、世の中に自分たちが望むような場所を自分の力で作るに違いなかった。とても魅力的な女の子のマリエッタは、幸せな結婚をしないはずがなかった。サミュエルは鉄道会社の持ち場で順調にやっていた。ベンジャミンは弁護士になるために勉強していた。デイビッドはウェストポイントに送られることになっていた。彼らには親しみやすい本物の値打ちがあったから、ユージンは彼らのことが好きだった。そして彼らはみんなユージンのことをアンジェラの夫になる人として扱った。滞在が終わるまでに、まるで生まれたときからずっと知っていたかのように、ユージンはすっかり家族と打ち解けていた。
ユージンはニューヨークに戻る前にシカゴに立ち寄って、ハウとマシューズが昔の仕事に励んでいるを見て、それからアレキサンドリアに数日滞在し、そこで父親が昔の仕事を忙しくしているのを知った。ミシンは今でも父親が自分で配達していた。駆け出しの頃と同じように、ミシンを運ぶ軽装馬車が田舎の長い道のりを走っていた。ユージンは今、父親のことを少し役立たずだと思っていたが、それでも父親の辛抱強さ、勤勉さは称賛した。きびきびしたミシンのセールスマンは、息子の成功にえらく感動して、実際に絵に関心を持とうとしていた。ある晩、郵便局から帰ってきて、絵の題材としてアレキサンドリアの通りの風景を挙げた。ユージンは、絵に父親の注意が向けられるようになったのは、自分が努力したからに過ぎないことを知っていた。間違いなく、父親はこれまでもこういうものに気づいていたのに、雑誌で息子の作品を見るまで、それらを全然重視しなかった。「地元の絵を描くなら、この先の滝のそばにあるクックの工場を描くべきだな。あれは私が知る中じゃ一番すてきなもののひとつなんだ」ある晩父親はユージンに、自分が持った関心を息子にも持たせようとして言った。ユージンはその場所を知っていた。そこは魅力的で、明るい水の小川が四十フィートの赤い砂岩の壁の基礎のところを流れていて、最終的に十五フィートの灰色の苔むした石の下り坂を流れ落ちていた。交通量の多い黄色い道路の近くで、それを飾り、四方を守る木々に囲まれていた。ユージンは若い頃、美しいのどかな場所としてそこが好きだった。
「いいところだよね」ユージンは父親に答えた。「いつか見てみるよ」
トーマス・ウィトラはうれしくなった。息子は父親に花を持たせていた。夫と同じようにウィトラ夫人にも、時の経過を物語る最初の目立った痕跡が現れていた。目の横のカラスの足跡は一層深くなり、額の皺は長くなっていた。最初の夜、ユージンを見て、彼女はかなり興奮した。今やユージンはすっかり成長し、自立していたからだ。ユージンは経験を通じて、母親がそれを男らしいと思ったほどのある種の落ち着きを備えていた。彼女の息子は、母親の注意深い指導が必要な子供ではなくなっていた。これは、大人が子供にするように、彼女を指導することも、からかうこともできる人だった。
「ずいぶん大きくなっちゃって、私でもあなただとわからないわ」ユージンが両腕で抱きしめると母親は言った。
「いや、お母さんが小さくなっているだけだよ。僕はお母さんが僕を揺さぶれなくなるほど大きくはならないってよく思ってたんだけど、それどころじゃなくなったね?」
「あなたはあんまり揺さぶる必要はなかったわよ」母親は優しく言った。
マートルは前の年にフランク・バンクスと結婚して、夫が工場の管理をしているアイオワ州オッタムアで暮らすために夫と一緒に行ってしまっていた。だからユージンはマートルと会わずじまいだった。しかし今は二児の母であるシルヴィアとはわずかな時間を過ごした。彼女の夫は、ユージンが最初に気づいたとおりの、物静かで保守的な努力家だった。〈アピール社〉を訪れて、ジョン・サマーズが最近亡くなったことを知った。それ以外はそれまでどおりだった。ジョナス・ライルとケーレブ・ウィリアムズはまだ担当者のままだった……昔とまったく同じだった。時間が来たとき、気分は晴れやかだった。ユージンは軽やかな気持ちでシカゴに戻る列車に乗った。
東部からシカゴに来たときと、ブラックウッドからシカゴに戻ったときに、再びルビーを思い出して激しく心を揺さぶられた。ルビーは彼にとても優しかった。彼の初期の芸術体験は、ある意味で彼女が中心だった。しかし、それにもかかわらずユージンはルビーに会いに行きたいと思わなかった。それとも行きたかったのだろうか? ある意味では気になったので、悲しみで胸を痛めながら、自分に問いかけた。劇や本の中の女の子が気になるように、ユージンはルビーのことが気になった。彼女には悲劇性があった。彼女は……彼女の人生、彼女の環境、彼を愛した彼女の不幸は……ひとつの芸術作品を構成していた。いつかそれを題材にして詩を書けるかもしれないと思った。ユージンはかなり魅力的な詩を書くことができたが、彼はそれを自分だけにとどめておいた。彼は、物事を簡単に、感情を込めて、言葉にする特技を持っていた……相手にイメージを見させることができた。彼の詩の問題点は、そこにまだ本物の崇高な思想が不足していることだった……思ったほど理解が確定的ではなかった。
ルビーには会いに行かなかった。自分で出した理由は、行っても嫌な思いをすることになるからだ。ルビーはもう彼には会いたくないかもしれない。忘れようとしているかもしれない。それにユージンにはアンジェラがいた。そんなことをすれば間違いなく彼女に対して不誠実だった。しかし、街を出て東へ向かう間にルビーが住んでいる地域を眺めて、彼女と一緒に過ごしたあのすてきなひと時のいくらかでも、もう一度過ごせたらいいのにと願った。
ニューヨークに戻ると、多少の小さな変化はあるが、生活は前の年の繰り返しになりそうだった。秋にユージンはマクヒューとスマイトと一緒に住むようになった。彼らのアトリエは大きな仕事部屋が一つと寝室三つで構成されていた。三人は、自分たちならうまくやっていけると意見が一致した。これはしばらくの間、彼ら全員にとっていいことだった。彼らが互いに出し合った批評は、本当に価値があるものだった。そして、一緒に食事をしたり、散歩をしたり、展覧会を見たりするのは楽しいことだとわかった。それぞれが特別な視点を持ち、議論をして、互いに刺激し合った。これはシカゴでハウやマシューズを相手にしたのと同じようなことだった。
この冬の間にユージンは当時の主要な出版物のひとつ……〈ハーパーズ・マガジン〉……に初登場した。以前の作品のゲラをいくつか持ってアートディレクターを訪ねたところ、いいね、何かストーリー性があれば君のことは考えてもいい、と言われたことがあった。その後、来訪を求める手紙が届いて、百二十五ドルで絵を三枚依頼された。ユージンはモデルを使って仕事を成功させて、結果を褒められた。仲間も、彼がやっていることを本当に称賛したから応援してくれた。こういう出版物へ参加が求められるようになったので、〈メイク・スクリブナーズ〉や〈センチュリー〉をはっきりと目指した。重要な仕事は依頼されなかったが、やがてそれぞれのアートディレクターに印象を与えることに成功した。どちらかというと飾りたい気分があって、一方から詩を確保して、もう一方から短編小説を確保した。しかし、どういうわけか、どちらも本物のチャンスだと感じることはできなかった。彼としてはふさわしい画題が欲しかった。あるいは自分の活動分野のいくつかを売り込みたかった。
お金を払ってもらえるほどの評判を確立するのは時間のかかる作業だった。ユージンは画家の間ではあちこちで名前が挙げられていたが、世間やアートディレクターの間では決して重要な要素ではなかった。まだ有望な駆け出しに過ぎなかった……成長はしているが、まだ遠いところまでたどり着いていなかった。
彼の真価を知りたがる編集者はいたが、出してくれるお金はなかった。商業的な意味でかなり絶望的だったが、芸術に対しては十分誠実に貢献していた雑誌〈クラフト〉の編集者リチャード・ホイーラーがこれだった。ホイーラーは詩的な気質を持つ金髪の青年で、彼のユージンの作品に対する熱意は、二人を簡単に親しくさせるほどだった。
ユージンはその冬ホイーラーを介して、ミリアム・フィンチとクリスティーナ・チャニングに出会った。二人は気質も職業も完全に違う女性で、ユージンにまったく新しい二つの世界を開いた。
ミリアム・フィンチの職業は彫刻家だった……気質は批評家で、自分には感情を表現する能力が全然ないのに、他人のその力を見極める鋭い審美眼を持っていた。彼女を見ると、女性らしい生命力にすぐに感銘を受けることになった。彼女は、本当の青春も本当の恋愛も経験したことがない女性だったが、まだどちらも実現できるという、情熱的で、ほとんど愚かな信念を持って、この二つの理想にしがみついていた。ある晩ホイーラーが一緒に彼女のアトリエに行ってみようとユージンを誘ったのだ。ホイーラーは、ユージンが彼女をどう思うか知りたかった。ユージンが会ったときミリアムはすでに三十二歳だった……小柄な、茶色の髪と茶色の目をした女性で、ほっそりしていて、まるで猫みたいな体つきで、話し方も態度も上品で、指先まで優雅だった。十八歳の栄光のようなうら若い美しさはなかったが、完全に優雅で楽しい女性だった。髪はふわふわの雲のような塊になって頭を包み、目は、鋭い知性、感情、ユーモア、共感を備えていて素早く動いた。唇はキューピッドの弓のような甘美な形をしていて、笑顔には微妙にこびたところがあった。血色の悪い顔色に、茶色い髪と、ドレスのくすんだとび色のビロードやコール天がよく似合った。彼女が着るものには著しい簡素さがあって、それが彼女に独特の雰囲気を与えた。服が流行のものであることはめったになかったが、いつもとても似合っていた。なぜなら、彼女は自分自身を全体としてとらえ、自分や生き方とも合わせられる感覚を使って、頭から足までを飾るべき作品として自分を着飾ったからだ。
ユージンのような性質の人にとって、知的で、芸術がわかり、自分で調整して自分でバランスを取れる人間は、常に強烈な魅力と喜びを与えてくれる存在だった。花が光に向かうのと同じくらい自然に有能な人間に目を向けて、そういう存在の完全性と十分性を考えることに喜びを見出した。自分の考えを持っていることは、ユージンには驚くべきことに思えた。自分の考えを明確に述べることができて、前向きな満足できる結論にたどり着けることは、偉大なすばらしいことだった。ユージンは、渇きが満たされるまで、称賛しながらそういう人たちから吸収を続けて……やがて背を向けた。彼らが与えてくれるものが枯渇すれば、戻って来たかもしれないが、そうでなければ戻らなかった。
今までは、こういう優れた資質を持つ人物との付き合いは、すべて男性に限られていた。彼は優れた特性を持つ女性を知らなかった。シカゴで写生のクラスを受け持ったテンプル・ボイルと、イラストのクラスの講師ヴィンセント・ビーアスに始まって立て続けに、ジェリー・マシューズ、ミッチェル・ゴールドファーブ、ピーター・マクヒュー、デイビッド・スマイト、ジョーサム・ブルーに出会った。全員が強烈な独自の感性と信念を持ち、彼に大きな印象を与えた。今、ユージンは初めて、かなり力があって、同じ資質を持つ本当に非凡な女性に出会うことになった。ステラ・アップルトン、マーガレット・ダフ、ルビー・ケニー、アンジェラ・ブルーだって彼女らなりに魅力的な女の子だったが、彼女たちは自分の頭では考えなかった。彼女たちは、ミリアム・フィンチのような、頭の中が整理され、自分で方針を決め、自分を管理できる人間ではなかった。ミリアムは、自分がその中の誰よりも知的にも芸術的にも無限に優れていることをすぐに認識し、その一方で同時に相手の美しさ、健康状態、社会制度の中での価値の等しさに共感し、真価を認めながら理解することを楽しんだだろう。彼女は人生を勉強し、感情を批評し、鋭い認識力を備えた知性で理解していた。それでいて、ステラ、マーガレット、ルビー、そしてアンジェラでさえ持っていたもの……若さ、美しさ、男性に対する興味、恋人の衝動的な情熱を駆り立てる顔や容姿の力強さや魅力や色気……を強く求めていた。彼女は熱烈に美しく人を愛せる人に愛されたかったが、これは一度も実現したことがなかった。
ミス・フィンチの家というかアトリエは、東二十六丁目にあって家族が一緒に暮らしていて、彼女の部屋は三階の北側だった。しかし、こうして家族と同居していても、ユージンにとって最も啓蒙的だった個性や排他性を彼女が獲得する妨げにはならなかった。彼女の部屋は銀色と茶色と灰色で構成され、片隅には高さが優に五フィートはある蝋の花で飾りつけられた立派な燭台、もう片隅には初期のフランドル様式の見事な彫刻が施された箪笥が置かれていた。茶色い書き物机と本棚を組み合わせたものがあって、最高に不思議な書物……ペイターの『エピクロス主義者マリウス』、ドーデの『天才の妻たち』、リチァード・ジェフリズの『心の旅路』、スティーヴンソンの『三重の鎧』、リチャード・バートンの『カシダー』、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの『命の家』、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』……が並んでいた。女性と部屋を見終わったあとだと、これらがここにあるという事実はユージンにとって、これらが重要である、十分な証拠だった。物珍しそうに手にとって、適当に段落を読んで、あちこちさぐって、絵を見て、心のメモ帳に急いで書き留めた。この人は知る価値がある人だと感じた。彼女をもっとよく知ることが許されるくらいの好印象を与えたかった。
ミリアム・フィンチはたちまちユージンに心を奪われた。ユージンには彼女が感銘を受けずにはいられないほどの活力、探究心、鑑賞力、理解といった雰囲気があった。彼は、柔らかくて、暗めの、なめらかな輝きを放つ、灯りのともったランプのようだった。自己紹介が済んでから彼女の部屋を歩き回って、絵やブロンズや粘土の像を見ながら、これを作ったのは誰、あれを描いたのは誰、三つ目のものはどこから来たの、と尋ねた。
「ここの本は一冊も聞いたことがありませんよ」ユージンはその小さな特別に選ばれたコレクションを見て率直に言った。
「ここにはとても興味深いものがいくつかあるでしょ」ミリアムはユージンのそばに近づいて自分から切り出した。彼の気取らない告白は彼女を惹きつけた。まるで新鮮なそよ風のようだった。彼を連れてきたリチャード・ホイーラーは、おろそかにされても不平を言わなかった。自分の発見を彼女に楽しんでもらいたかったからだ。
「まったく」ユージンはバートンの『カシダー』から顔をあげて彼女の茶色い目を見つめながら言った。「ニューヨークを見るとめまいがしますよ。とてもすばらしいですからね!」
「どんな風にかしら?」ミリアムは尋ねた。
「すばらしいものがコンパクトにまとまっているでしょ。先日も古い宝石や装飾品や古風で趣のある石や服でいっぱいのお店を見ました! すべて何だかわかりません……これまでの人生で見たよりも多いんです。そして、この静かな脇道とこの飾り気のない家の中で、この部屋を見つけましたからね。外見は見せるものがなさそうでも、内側はすべてが贅沢というか芸術的な価値があるもので窒息するほどいっぱいに見えますよ」
「この部屋のことを言っているんですか?」ミリアムは言った。
「ええ、そうですとも」ユージンは答えた。
「聞きましたか、ホイーラーさん」ミリアムは肩越しに若い編集者の友人に声をかけた。「贅沢なものがあるなんて言われたの、生まれて初めてだわ。また私の記事を書くときは、贅沢だって認めてもらいたいわね。それ、気に入っちゃった」
「必ずそうしますよ」ホイーラーは言った。
「そうね、『芸術的な価値があるもの』ってこともね」
「はい、『芸術的な価値があるもの』と書きますよ」ホイーラーは言った。
ユージンは微笑んだ。彼女の陽気なところが気に入った。「あなたが言いたいことはわかります」ミリアムは付け加えた。「私もパリで同じことを感じたことがありますもの。あそこって小さな飾り気のない店に入っても、そういうすばらしいものに出くわすわ……いい服、骨董品、宝石が山積みなのよ。そういった興味深い記事を読んだんだけど何でだったかしら?」
「〈クラフト〉じゃありませんよね?」ホイーラーは言った。
「違うと思うわ。〈ハーパーズ・バザー〉よ、確か」
「なんだ!」ホイーラーは叫んだ。「〈ハーパーズ・バザー〉か! くだらない!」
「でも、あなたがやってもおかしくはないんじゃない。おやりになったらどう……いかが?」
「やりましょう」彼は言った。
ユージンはピアノのところへ行って楽譜の山をひっくり返した。またもや見慣れないもの、異色なもの、明らかに優れたものに出くわした……グリーグの『アラビアの踊り』、ラッセンの『それは夢だった』、マスネの『エレジー』、ダヴィドフの『オティディ』、パーセルの『ニンフと羊飼い』……いかにも色と美しさを感じさせる題名を持つものばかりだった。グルック、スガンバティ、ロッシーニ、チャイコフスキー……イタリアのスカルラッティ……ユージンは自分が音楽をわかっていなかったことに驚いた。
「何か弾いてください」ユージンが頼むと、ミリアムは笑顔でピアノに向かった。
「『それは夢だった』ってご存知かしら?」ミリアムは尋ねた。
「いいえ」ユージンは言った。
「いい曲だ」ホイーラーが口を挟んだ。「歌ってくださいよ!」
ユージンはおそらく彼女は歌もいけそうだと考えてはいたが、声とともに色がはじけるとは思っていなかった。それはすばらしい声ではなかったが、彼女が自分に課した仕事と同等の甘くて共感を呼ぶ声だった。彼女は服を選ぶように音楽を選んだ……自分の力量に合うものだった。歌を聞いて浮かぶ詩的で共感を呼ぶ思い出が胸を打った。ユージンは楽しかった。
「ああ」自分の椅子をピアノに近づけて、ミリアムの顔を見つめながら叫んだ。「美しい歌声ですね」
ミリアムは華麗に微笑みかけた。
「このままでよければ、何でも好きな曲をあなたのために歌ってあげるわ」
「僕は音楽が大好きなんですが」ユージンは言った。「音楽のことを何も知りません。でもこういうのは好きです」
「あなたは本当にいいものが好きなんですね。わかるわ。私もそうだから」
ユージンは褒められてうれしかった。『オティディ』、『ナイチンゲール』、『エレジー』、『最後の春』……ユージンがこれまで聞いたことがない曲……を鑑賞した。しかしユージンは、これまで知っていた誰が持っていたものよりも、優れた知性と、鋭い選択的判断力と、繊細な芸術的衝動を示す演奏を自分は聴いている、とすぐにわかった。ルビーはピアノをひいたし、アンジェラもかなり上手にひいた。しかしそのどちらもこういう演奏を聞いたことはあるまい、とユージンは確信した。ルビーはポピュラーな曲しか好まなかった。アンジェラは定評のある曲……美しいがありふれたもの……を好んだ。ここにいる者は、大衆の好みを無視した。……その先にいた。ユージンは彼女のすべての音楽の中で、自分が知っているものを何も見つけられなかった。これは重要な事実として彼の中で大きくなった。ユージンは彼女に優しくしたかった。彼女に自分を好きになってもらいたかった。だからユージンは近づいて微笑みかけた。ミリアムはいつも微笑み返した。他の人と同じように、ミリアムは彼の顔と口と髪を気に入った。
「魅力的な人だわ」やがてユージンが帰ると、ミリアムは思った。彼女に対するユージンの印象は、特に意義深い優れた女性に対するものだった。
第二十一章
ミリアム・フィンチは家族から独立しているように見えたが、家族が彼女に影響を及ぼさないわけではなかった。家族は中西部出身で、芸術家の気質にあまり理解も共感もしなかった。両親は、ミリアムが初めて芸術に向き合う明確な努力を示し始めた十六歳のときから、用心して娘を芸術界の腐敗した雰囲気だと自分たちが考えたものから守ってきた。母親はオハイオからニューヨークまで娘に同行し、娘がアートスクールで絵を勉強する間は一緒に暮らし、どこにでもついて行った。ミリアムが海外に行くことが望ましくなったときは、彼女が思ったとおりに、娘と一緒に行った。ミリアムの芸術家としてのキャリアは、適切に管理されることになった。パリのカルチェラタンに住んだときは母親が一緒にいたし、ローマの画廊や宮殿の雰囲気の中をぶらぶら歩くときは母親がそばにいた。ポンペイやヘルクラネウムでも……ロンドンやベルリンでも……母親が、当時四十五歳だった鉄の意志を持つ小さな女性が、娘と一緒だった。母親は娘にとって何がいいことかを正確に知っている自信があって、多かれ少なかれ自分の理論を娘に信じさせていた。やがてミリアムの個人的な判断が母親の判断から少しずれ始めて、それから問題が出始めた。
最初は漠然としていた。娘の心の中ではっきりと具体的な形をしたものではなかった。しかしその後それは成長して、自分の人生は束縛されているという確かな感覚になった。あの人やこの人とは付き合うなと警告され、アトリエの自由で束縛のない生活を取り巻く落とし穴を見せられた。平均的な芸術家との結婚が考慮されることはなかった。ヌード、特に男性のヌードをモデルにした創作活動は最初のうち母親の大きな悩みの種だった。母親は同席することを強く要求した。彼女はずっとそれでいいと思っていた。最終的に、母親の存在も考え方も理知的な強要も煩わしくなって、その後はっきり断絶した。これは保守的な両親を殺したも同然の家族の悲劇の一つだった。フィンチ夫人の心は事実上折れてしまった。
この断絶の問題点は、ミリアムの幸せにとって発生が少し遅すぎたことだった。この執拗な付き添いを強いられたせいで、彼女は青春を……そのとき自分に自然な自由があってもおかしくなかったと彼女が感じた期間を……失っていた。彼女は、十九歳と、二十歳と、二十一歳のときに自分に熱い気持ちを抱いて近づいてきた何人かの男性の関心を失っていた。彼らは母親のあら探しに耐えられなかったのだ。母親と断絶した二十八歳には、一番楽しい恋愛期間は終わっていて、ミリアムは悲しみと憤りを感じた。
そのとき、彼女は自分の力で、完全に、徹底的に変わることにこだわった。方々の美術商を通して、自分が精魂込めた塑像の注文を何とか取り付けた。当時の有名なダンサー、カルメンチータの雰囲気の一つを視覚化した踊る少女像があって、それが大衆の心をつかんだ……少なくとも彼女のために作品を扱っている特定の美術商は、そのレプリカを一体当たり百七十五ドルで約十八体販売した。フィンチの取り分は一体につき百ドルだった。もうひとつ小ぶりの作品があった。『眠り』と呼ばれる六インチのブロンズ像で、一体当たり百五十ドルで約二十体のレプリカが売れ、今でも売れていた。寒いからなのか、かがんでうずくまっている人物の像『風』も売れていた。年間三千から四千ドルは安定的に稼げそうに見えた。
このとき彼女は母親に、自分専用のアトリエを持つ権利、好きなときに出入りする権利、好きなところを一人で歩き回る権利、男性や女性を自分個人の部屋に来てもらって、自分で自分流に楽しませる権利を要求した。どんな形であれ管理に反対し、批判をはねつけ、自分自身の生活を送る、と宣言した。しかし、そうこうするうちに、盛りは過ぎてしまったことを……一番そうしたかったときにしたいようにする知恵も力も自分にはなかったことを……彼女は悲しみながら気がついた。このままでいけば、彼女はほぼ自動的に保守的になるだろう。彼女にはどうしようもなかった。
ユージンは初めて彼女に会ったときに、これを感じた。彼は、彼女の気質の繊細さ、彼女の哲学的な結論、彼女の感情的な失望とでも呼ぶべきものを感じた。彼女は人生を熱望していた。多くのものを持っているように見えたから、ユージンにはそれが奇妙に思えた。徐々に彼女から事情を聞き出した。何しろ、二人はすっかり仲良しになっていたからだ。それから事情をはっきりと理解した。
三か月がたち、クリスティーナ・チャニングが現れるまでに、ユージンはミス・フィンチに対して、これまでどの女性にも達したことがなかった、最も健全で清らかな理解に到達した。週に一回、場合によっては二回、そこへ立ち寄るのが習慣になった。ユージンは彼女の視点を理解するようになった。それは、超然とした美学で、感覚的な世界からかなりかけ離れていた。彼女の恋人の理想像は、ギリシャ全盛期の彫像や詩……ヒュラース、アドニス、ペルセウス……と、ミレー、バーン=ジョーンズ、ゲブリエル・ロゼッティ、フォード・マドックス・ブラウンの描いた中世の男性像で、ある程度固められていた。古典的な顔立ちで、ひと際優れた体をしていて、態度が上品で、良いものがわかる知性を備えた若者を求めていた。男らしいが芸術がわかる男でなければならなかった。それはかなり高い理想で、すでに三十になった女性がそう簡単に手に入れられるものではなかったが、それでも夢を見る価値はあった。
彼女は極力才能のある若者に……若い男性にも若い女性にも……囲まれてきたが、「その人」に出会ったことはなかった。ほんの少しの間、その人を見つけたと想像したことはあったが、その空想が失敗に終わるのを見ざるを得なかったことが何度もあった。彼女が知る若者たちはすべて自分たちより年下の若い娘と恋に落ちる傾向があった……彼女が紹介した興味深い乙女たちを相手にする者もいた。理想の相手が、自分に背を向けて、つまりその精神と同じ性質のものに背を向けて、数年で衰える美の単なる肉体的な幻想にこだわるのを見るのはつらいことである。しかし、それが彼女の運命だった。時には絶望しそうになることもあった。ユージンが現れたとき彼女は、愛は自分に向いていない、と結論を出しかけていた。まさかユージンが自分と恋に落ちるなどと都合のいいことは考えなかった。それでも、彼女はユージンに興味を抱かずにはいられず、ときどき彼の気になる顔や姿を憧れの目で見ていた。もし彼が愛してくれたら、それはドラマチックに、おそらくはすばらしいものになるのは明らかだった。
時が経つにつれて、彼女は懸命に彼に合わせるようになった。ユージンはこのとおり、彼女の部屋に自由に入れた。彼女は宗教、芸術、科学、行政、文学関係の、展覧会、人物、活動に精通していた。社会主義に傾倒しがちで、人々の過ちを正すことを信条としていた。ユージンもそう思ったが、見世物としての人生に強い関心があったので、そうすべきだとは思っても思ったほどは共感する時間をもたなかった。彼女は展覧会を見たり、人に会うためにユージンを連れ出した。優れた才能をもつ若者をかなり自慢していた。彼が概ね受け入れられることを知って喜んだ。人々は、特に作家、詩人、音楽家は……あらゆる分野の駆け出しは……ユージンを覚えておこうという気になった。彼は話しやすくて、機知に富み、すぐに打ち解け、完全に自然体だった。ユージンは物事を正確に判断して公平であろうと努力したが、若かったので強い偏見を持ちやすかった。ユージンは彼女の友情に感謝し、二人の関係をもっと親密にしようとはしなかった。誠実なプロポーズをしなければ彼女を手に入れられないことはわかっていたし、そこまでするほど彼女は大切ではなかった。自分はアンジェラと結びついていると感じ、ミリアムの年齢が二人の間の障壁だと感じた。ユージンはミリアムをとても敬愛し、彼女を通して自分の理想がどうあるべきかを学んでいたが、彼女を愛したいと思うほどは惹かれなかった。
しかし彼はその直後に出会ったクリスティーナ・チャニングに、美しさはほとんど遜色ないのに、もっと官能的で魅力的なタイプの女性を見出した。クリスティーナ・チャニングの職業は歌手だった。彼女もまたニューヨークで母親と一緒に暮らしていて、まだ母親が娘に大きな影響力を持っていて行使できる年齢だったが、フィンチほどは徹底して母親に支配されなかった。年齢は二十七歳で、その後自分のものになる名声をまだ獲得していなかったが、最終的な勝利をもたらすあの明るい自信に満ちていた。これまで彼女はいろいろな教師のもとで熱心に勉強し、何度か恋愛を経験したが、自分の選んだ仕事をやめて勝ち取るほど真剣なものはなかった。そして、何も知らないで芸術の何かを始めて、この世界の成り立ちや、成功するためには何をしなければならないか、を最終的に経験して理解に至る人たちのさまざまな経験をくぐり抜けた。
ミス・チャニングの芸術センスは、ミス・フィンチのアトリエの雰囲気を特徴づけた、物質的な環境でのあの明確な芸術的表現には至らなかったが、人生の喜びの表し方という点でははるかに進んでいた。彼女の声は豊かなコントラルトで、深みがあり、豊かで、華やかだった。哀愁と深い悲しみの響きが、彼女の最も陽気な歌に少し感情を与えた。彼女は繊細さと激しさを加えて、自分の歌に合わせて演奏することができた。現在はニューヨーク交響楽団のソリストのひとりで、時々外部の仕事を引き受けてもいい特権を持っていた。今度の秋、彼女は著名な宮廷オペラ劇団と契約を結んでニューヨークで成功する地ならしができないかを確認するために、最後の力を振り絞ってドイツへ行く準備をしていた。有望なオペラ歌手の候補として音楽界ではすでにかなり知られていた。最終的にたどり着くかは才能というより運の問題だった。
この二人の女性がしばらくユージンに魅力を振りまいたが、アンジェラに対する彼の思いは変わらないままだった。アンジェラは知性と芸術の面で見劣りしたが、彼女の方が感情的に豊かだとユージンは感じた。彼女のラブレターには深い悲しみがあった。彼を前にすると彼女の個人的感情には激しさがあって、それが思わず彼を感動させた……サッフォーやマルグリット・ゴーティエの物語を思い出させる痛みが彼女にはあった。もし彼女を捨てたら彼女は大変なことになるかもしれない、と近頃思うようになった。そういうことをしようと実際には考えなかったが、彼女と、ミリアム・フィンチのような知的な女性との間には違いがあることに気づき始めていた。その他にも、上流社会の女性たちが大勢彼の視界に押し寄せてきた……彼がまだ、新聞や、〈タウントピックス〉や〈ヴォーグ〉のようなしゃれた週刊誌を通してしか知らなかった女性たちで、それでも三級品の完成度は見せていた。ユージンは、世界が広大で微妙であることや、女性には夢にも思わなかった学ぶべきことがたくさんあることを漠然と理解し始めていた。
クリスティーナ・チャニングはある意味で、肉体の美しさという点でアンジェラといい勝負だった。背が高く、完璧な丸みを帯びた体型で、かわいらしい卵形の顔と、頬と唇に健康のバラ色の輝きがある栗色の肌と、青みを帯びた豊かな黒髪をしていた。大きな茶色の目はキラキラして思いやりに満ちていた。
ユージンは、ボストンにいる共通の友人から彼女への紹介状をもらったショットマイヤーの好意で彼女に会った。ショットマイヤーはユージンのことを、とてもすばらしい若い画家で、自分の友人だと話していた。いつか夜、あなたの歌を聞きに彼を連れていきたいと言ったところ、ミス・チャニングは同意した。彼女は彼の絵を何枚か見たことがあって、その中の詩的な特徴に衝撃を受けていた。ショットマイヤーは、自分の著名な知人のことが自慢で、知人は彼の面白いうわさ話が目当てで彼を大目に見ていた。その彼が、ミス・チャニングの言葉をユージンに伝えて、そのうち夜、彼女のところへ行きたくないかと尋ねた。「喜んで」ユージンは言った。
会う約束が成立すると、二人は一緒に十九丁目にある上等な下宿のミス・チャニングの部屋に行った。ミス・チャニングは、赤みを帯びた黒いビロードの、滑らかで体にぴったりとしたドレスを着て二人を迎えた。ユージンは、ルビーが着るのを見た最初の衣装を思い出した。目がくらんだ。ミス・チャニングは、後に彼に語ったように、奇妙な理屈に合わない動揺を意識していた。
「あの夜リボンをつけるときにね」ミス・チャニングはユージンに語った。「買ったばかりのダークブルーのシルクのやつをつけるつもりだったんだけど、とっさに思ったの。『違う、赤いのをつけた方が彼は私を気にいる』って。それって不思議じゃない? あなたは私を好きになる……私たちはお互いをもっとよく知るようになるかもしれない、って感じたの。あちらの若い方が……何て名前だったかしら……とても正確にあなたのことを説明してくれたわ」彼女がこれを告白したのは数か月後のことだった。
ユージンが入ったとき、そこには、彼の生活が東部で広がり始めてから身につけた華やかな雰囲気があった。ユージンは才能を持つ人、特に才能を持つ女性とは真面目な関係を持った。背筋を伸ばして立ち、目立つほどの大股で歩き、自分が見ている相手の魂そのものに調べるような視線を送った。彼は印象を、特に才能の印象をつかむのが早かった。彼は他人の能力を感じ取ることができた。ミス・チャニングを見たときは、それを強い波……強烈な意識の振動波……のように感じた。
彼女は柔らかい白い手を差し出して、ユージンに挨拶した。二人は、自分たちがお互いについて何を聞いたかを打ち明けた。ユージンはどういうわけか彼女の芸術に対する自分の熱意を相手に感じさせた。「音楽はもっとすばらしいものですよ」ユージンは、彼女が彼自身の才能について語ったときに言った。
クリスティーナのこげ茶色の目がユージンの頭から足までを見渡した。彼は彼の絵と同じだとクリスティーナは思った……見応えがあった。
ユージンは彼女の母親に紹介された。彼らは座って話をして、やがてミス・チャニングが『エウリュディケなしでどうする』を歌った。ユージンはまるで彼女が自分に向かって歌ってくれているように感じた。彼女の頬は紅潮し、唇は赤かった。
彼女が歌い終えると母親が言った。「今夜はすばらしい声だわね、クリスティーナ」
「特に調子がいい気がするわ」クリスティーナは答えた。
「すばらしい声だ……まるで大きな赤いケシか、立派な黄色いランのようだ!」ユージンは声高に言った。
クリスティーナは感動した。その表現は彼女の心をとらえた。そのとおりに思えた。自分が発した音の中にそういうものを感じたからだ。
「『シルヴィアって誰』を歌ってください」少ししてからユージンは頼んだ。クリスティーナは快く応じた。
「これはあなたのために書かれたんですよ」歌い終えるとユージンは優しく言った。彼はピアノの近くまで来ていた。「あなたは私をシルヴィアのイメージで見ているのね」クリスティーナの頬があたたかく染まった。
「ありがとう」彼女はうなずいて、目でもお礼を言った。クリスティーナは彼の大胆さを歓迎し、その思いを喜んで彼に伝えた。