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「天才」 第一部 青春  作者: ドライサーの小説の翻訳です
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第1章~第8章

第一章

 



この物語はイリノイ州アレキサンドリアで始まる。時期は一八八四年から一八八九年までであり、当時そこの人口は大体一万人くらいだった。そこには田舎で暮らしている感覚を和らげる程度の都会らしさがあった。路面鉄道が一つ、劇場というか、いわゆるオペラハウスが一つ(そう呼ぶ者がいないのは一度もオペラが上演されたことがないからである)、駅のある鉄道が二つ、公共広場に通じる四つの活発な地域から構成されるビジネス街が一つ、広場には郡裁判所と新聞が四つあった。この朝刊二紙と夕刊二紙は、地方も国も問題だらけであり、やるべき興味深いいろいろなことがたくさんある事実をそこの住民にかなり認識させた。町はずれに湖がいくつかときれいな小川が一つあった……おそらくアレキサンドリアで一番の名所で……これが手頃な価格帯の避暑地の雰囲気に似ていなくもない印象を与えた。造りを見ればわかるがこの町は新しくはなかった。この頃のアメリカ中の町がすべてそうだったように、ほとんどが木造だったが、所によってはきれいに整備され、通りから離れたところに、花壇、レンガの歩道、快適な家庭生活につきものの緑の木々がある立派な裏庭を構えた家があった。アレキサンドリアは若いアメリカ人の街だった。その精神は若く、ほとんどすべての人の前に人生があった。生きるとは実にすばらしかった。


この街のあるところに、その性格も構成も典型的なアメリカ人で、中西部的と考えてもいい家族が住んでいた。決して貧しくはなかった……少なくとも当人たちはそう思っていなかったが、かといってどう見ても裕福ではなかった。父親のトーマス・ジェファーソン・ウィトラは、一番有名で一番売れているメーカーのその郡の総代理店でミシンの営業をしていた。二十ドル、三十五ドル、六十ドルのミシンを売るたびに、三十五パーセントの利益を得ていた。ミシンの売上は大きくなかったが、それでも年収二千ドルくらいは稼げた。それを元に家と土地を買い、家具をそろえて快適にし、子供たちを学校へ通わせ、最新型のミシンが展示された公共広場にある地元の店を維持した。他のメーカー品だろうと下取りして新しいミシンの購入代金を十から十五ドル割り引いた。ミシンの修理もした……そしてアメリカ人らしいあの独特のやる気を起こして、ついでに少し保険の仕事もやろうとした。最初のうちは、十分な年齢になったときに、保険の仕事が十分に軌道に乗っていたら、息子のユージン・テニソン・ウィトラがこの保険の仕事をやればいいという考えだった。息子がどうなるかはわからなかったが、いつだって備えておくに越したことはなかった。


ウィトラは背丈こそ大したことはないが、機敏で体の引き締まった活動的な男性だった。髪は砂色で、目立つ眉の青い目をしていて、鷲鼻で、随分とうれしそうな愛想のいい笑い方をした。しぶとい主婦や、無関心というか昔気質の亭主を何とか説き伏せて、一家に一台本当に新しいミシンが必要だとわからせる努力をする訪問セールスマンの仕事は、彼に注意力と機転と駆け引きをたたき込んだ。ウィトラは人と楽しく接する方法を知り、彼の妻も似たような考え方をした。


確かにウィトラは正直で、勤勉で、繁盛していた。マイホームと、いざという時のための多少の蓄えならある、と言える日が来るのを二人はずっと待ちわびていた。その日はやって来たし、人生は少しも悪くはなかった。家はこざっぱりしていた……色は白で緑の雨戸があり、手入れの行き届いた花壇のある庭と、きれいに刈り込んだ芝生と、形のいい伸び伸びと育った数本の木に囲まれていた。正面玄関には揺り椅子があり、一本の木にはブランコ、もう一本の木にはハンモックがつってあり、近くの厩舎には一頭立て馬車が一台と、セールス用の荷馬車が数台あった。ウィトラは犬好きでコリーが二匹いた。ウィトラ夫人は生き物が好きだったからカナリアが一羽、猫が一匹、鶏が数羽いた。ポールのてっぺんには巣箱があってルリツグミが数羽暮らしていた。ここは小さいながらも素敵な場所で、ウィトラ夫妻はここをかなり誇りにしていた。


ミリアム・ウィトラは夫にお似合いのいい妻だった。マクリーン郡アレキサンドリア近くの小さな町ウスターで干し草と穀物を扱う商人の娘だった彼女は、これまでスプリングフィールドとシカゴよりも遠い世界には行ったことがなかった。スプリングフィールドは、かなり幼い頃にリンカーンが埋葬されるのを見に行ったことがあり、シカゴは、毎年湖畔で数日開催される農産物の品評会だか展示会に夫と一緒に一度行ったことがあった。年の割には若く見え、きれいで、見るからに控えめな外見の下はロマンチストだった。一人息子にユージン・テニスンという名前をつけると言い張ったのは彼女だった。これは兄のユージンと、有名なロマン派の詩人にあやかったもので、『国王牧歌』という彼の作品にとても感動したからだった。


ユージン・テニスンだと中西部のアメリカの男の子の名前にしては、かなりインパクトが強いように父親のウィトラには思えたが、妻を愛していたので、大抵のことは妻の好きにさせた。妻が二人の娘につけたシルヴィアとマートルという名前はかなり気に入っていた。子供たちは三人ともみんなかわいらしかった……シルヴィアは二十一歳で、黒髪、黒い目、バラのように咲き誇り、健康で、活発で、笑顔が絶えなかった。マートルは活気な性格という点では劣っていて、小柄で、青白く、はにかみ屋だが、ものすごく優しかった……花にちなんで(訳注:マートルはキンバイカ)名前がつけられたと母親は言った。勉強熱心で思慮深く、詩を読んで、夢見がちだった。ハイスクールの若者たちはマートルに話しかけたり一緒に歩きたくてたまらなかったが、言葉を見つけられなかった。マートルの方でも相手に何を言ったらいいのかわからなかった。


ユージン・ウィトラは目の中に入れても痛くないほど家族に可愛がられた。二人の姉よりも二歳年下で、まっすぐで滑らかな黒髪、黒いアーモンド形の目、まっすぐな鼻、尖っているのに攻撃的ではない顎をしていて、歯並びのいい白い歯は、微笑んだときに、まるでそれを自慢するかのように気になる優雅さをのぞかせた。もともとあまり強靭ではなく、気分屋で、かなり芸術家っぽいところがあった。胃が弱くて多少貧血気味なせいか、本当は強靭でも実際にはそう見えなかった。感情も、情熱も、憧れもあったが、それらは控えめという壁の後ろに隠されていた。内気で、プライドが高く、繊細で、自分というものにあまり自信がなかった。


家にいるときは、ディケンズ、サッカレー、スコット、ポーを読みながらごろごろしていた。人生について考えながらぼんやりと本を読みあさった。大都市に魅力を感じ、旅をすばらしいものだと考えた。学校では朗読の時間の合間にテーヌやギボンを読み、世界の偉大な王室の豪華絢爛ぶりに驚嘆した。文法も数学も植物学も物理学も、あちこちにある奇妙な部分以外は何も気にしなかった。雲の成り立ち、水の成り立ち、地球の化学元素など、気になる事には注意が向いた。春でも夏でも秋でも、自宅のハンモックで横になって、木々の間から見える青空を眺めるのが好きだった。何かを目指して舞い上がって飛んだノスリが彼の目を釘付けにした。ウールのように高く積み重なって、島のように漂っている真っ白い雲のすばらしさは、彼にとっては歌のようだった。ウィットに富み、ユーモアのセンスがあり、哀愁を感じる力があった。時には絵を描こうと思い立ち時には文章も書いた。自分には両方の才能が少しはあると思ったが、実際にはどちらも皆無だった。時々スケッチをしたが中途半端なものばかりだった……煙突から煙が渦巻いて立ち上り、鳥が飛んでいる小さな屋上や、柳が覆いかぶさるように曲がっていておそらく船が停泊しているちょっとした水辺や、鴨が浮かぶ水車用の池や、土手にいる少年と女性などだった。現に、このときの彼には解釈の優れた才能はなく、ただ強烈な美的センスがあるだけだった。飛んでいる鳥、咲き誇るバラ、風に揺れる木の美しさ……こういうものが彼をとらえて離さなかった。夜に故郷の町の通りを歩いて、店のショーウィンドウの明るさや、人混みにつきものの若さと熱狂を感じたり、木々に囲まれた家々の明るく輝いている窓越しに伝わる愛情や安らぎや団欒を感じながら、良さを感じていた。


彼は女の子が好きだった……女の子に夢中だった……しかし、もっぱら本物の美人にしか夢中にならなかった。自分で思いついた詩的な言い回しを連想させる女の子が学校に二、三人いた……『ピンっと張った弓のような美しさ』、『すみれ色の髪にして、古風な面持ち』、『舞う姿、喜びの形』……しかし彼はその女の子たちに気安く話しかけることができなかった。高嶺の花だった。彼はその女の子たちに、相手が持っていた以上の美しさを与えた。その美しさは彼自身の魂の中にあった。しかし彼はそれを知らなかった。黄色い髪を、熟したトウモロコシのような立派な黄色い三つ編みにして首にかけた女の子のことばかり、いつも考えていた。彼が遠くから崇めても、彼女にはわからなかった。その子は自分が見ていないときに、どんな真面目な黒い目が熱く自分を見ていたのか、全く知らなかった。家族がよその町に引っ越し、その女の子がアレキサンドリアを離れると、やがてユージンは正気に戻った。何せ、美人はいくらでもいるのだ。しかし、彼女の髪の色と首のすばらしさは、いつまでも彼から離れなかった。


ウィトラには子供たちを大学に行かせる計画があったのに、子供たちは誰も学業に大きな意欲を示さなかった。子供たちは想像力と感情の領域に生きていたので、おそらくは本よりも賢かった。シルヴィアは母親になりたい一心から、二十一歳で、〈モーニング・アピール〉紙の編集長ベンジャミン・C・バージェスの息子のヘンリー・バージェスと結婚し、一年目で赤ん坊を授かった。マートルは代数学や三角法を通して夢を見て、教師になろうか結婚しようか迷っていた。何しろ家族がほどほどのいい暮らしをするには彼女が何かをしなければならなかった。ユージンは実用的なことは何も学ばないままぼんやりと勉強した。少しは文章を書いたが、十六歳が努力したところで高が知れていた。絵を描いたところで、描いた作品に少しでも見どころがあるのかないのか話す人がいなかった。実務的な問題は、どれも彼にはあまり重要ではなかった。しかし、世の中が勤労奉仕……父親のような売買、店での事務仕事、大事業の運営……を求めるという事実には従うしかなかった。どうしたらいいのかわからないでいた。いい歳をして、自分はどうなるのだろうと悩んでいた。父親がやっているような仕事は嫌ではなかったが関心はなかった。それが無意味で退屈な生計の立て方なのが自分でわかっていた。保険も同じくらいひどいものだった。どの保険の書類でも項目別に記載されている明細のあの長ったらしい説明を読み通す気にはなれなかった。時々……夕方とか土曜日に……父親の店で店員をすることがあったが、辛い仕事だった。仕事に身が入らなかった。


父親は早くも十二歳でユージンが仕事に向いていないとわかり始め、十六歳になるまでにそれを確信した。読書の傾向と学校の成績から、息子が勉強に興味がないことも同じように確信した。マートルはユージンより二学年上のクラスだったが、時々同じ教室になることがあったので、彼が夢ばかり見ていることを報告した。彼はいつも窓の外を見ていた。


ユージンの女性経験はあまり幅広くなかった。若いころにあるほんの些細なことはあった……こっそり女の子にキスをするとか、女の子がこっそりキスしてくれるとか……ユージンの場合は後者だった。彼はどの女の子にも特別な関心を持たなかった。十四歳のときに、パーティーの席で、その晩だけお相手として女の子に指名されて『郵便局(キス)』ゲームをやり、暗い部屋で抱きついてきた女の子の腕と唇の感触のよさを楽しんだことがあった。しかしそれ以降そういう類のことは全く起こらなかった。この一つの経験を叩き台にして恋愛をしようと思ったが、いつも恥ずかしがってよそよそしい態度をとってしまった。女の子が苦手だった。実を言うと女の子も彼が苦手だった。女の子には彼のことが理解できなかった。


しかし、十七歳の秋、ユージンは一人の女の子に出会った。その少女は彼に深い印象を与えた。ステラ・アップルトンは抜群の美人だった。ユージンと同じ年齢で、とても色白で、目がとても青く、ほっそりしたシルフのような体をしていた。普通の多感な男子の心にとって自分がいかに危険であるかをまったくわかっていない誘惑的な態度で、浮かれて、愛想を振りまいた。それが面白かったのと、特に気になる相手がいなかったのとで、好んで男子といちゃいちゃした。しかしそこにはこれっぽっちも卑しさはなかった。むしろ相手のみんなをかなりすてきだと考えた。彼女にすれば、洗練された相手よりも、あまり賢くない相手の方が魅力的だった。ステラはもともとユージンの引っ込み思案なところを気に入ったのかもしれなかった。


初めてにステラに出会ったのは、前学年の始めに彼女がこの街に来てハイスクールの二年生のクラスに転入したときだった。稼働したての新しい滑車工場の管理者に赴任するために、父親がイリノイ州モリーンからやって来たのだった。ステラはユージンの姉のマートルとすぐに友だちになった。マートルがステラの明るさに引かれたように、ステラもおそらくはマートルの物静かなところに引かれたのかもしれなかった。


ある日の午後マートルとステラが郵便局から帰宅する途中に大通りを歩いていると、男の友だちのところへ行く途中のユージンに出くわした。本当に恥ずかしがり屋だった。ユージンは二人が近づいてくるのを見て逃げたかったが逃げ場がなかった。二人の方でも彼に気がついた。するとステラが堂々と近づいた。マートルはかわいい連れがいたので、弟を足止めしたくなった。


「あなた、家にいたんじゃなかったの?」マートルは立ち止まって尋ねた。ステラを紹介するいいチャンスだった。ユージンは逃げられなかった。「アップルトンさん、これが私の弟のユージンです」


ステラは晴れやかな励ましの微笑みを向けた。ユージンははれものに触るようにその手を握った。明らかに緊張していた。


「僕はあまりきれいじゃないんだ」ユージンは申し訳なさそうに言った。「父さんが馬車を修理するのを手伝ってたんだから」


「別に、私たちは気にしないわよ」マートルが言った。「あなた、どこへ行くの?」


「ハリー・モリスのところさ」ユージンは説明した。


「何しに行くの?」


「ヒッコリーの実を取りに行くんだ」


「まあ、私もほしいわ」ステラは言った。


「僕が取ってきてあげるよ」ユージンはさっそうと申し出た。


ステラは再び微笑んだ。「じゃ、お願いね」


もう少しのところでステラは、私たちのことも連れて行けばいいでしょと言えたのに、経験が足らなくて言えなかった。


ユージンはたちまちステラの魅力に打ちのめされた。少し前に視界に入ってきて消えた、手の届かない女の子たちの一人に見えた。ステラにはトウモロコシ色の髪の少女に似たところがあったが、ステラの方が生身の人間で、夢っぽさがなかった。この少女は繊細で、優雅で、桃色で、磁器のようだった。華奢なのにそれでいて男性的だった。ユージンは息をのんだ。しかし多少彼女に気後れを感じた。ステラが自分のことをどう考えているのかユージンにはわからなかった。


「じゃあ、私たちは家に帰るわ」マートルは言った。


「ハリーに行くって約束してなかったら僕も一緒に行くんだけどな」


「いいわよ、そんなこと」マートルは答えた。「私たちは気にしないから」


ユージンはかなり悪い印象を与えてしまったと感じながらその場を後にした。ステラの目はかなり興味津々でユージンに釘付けで、立ち去る姿を見送った。


「いかしてるじゃない?」ステラは率直にマートルに言った。


「まあね」マートルは答えた。「いい線いってるかも。でもね、気分屋なんだな、これが」


「どうしてかしら?」


「あまり丈夫じゃないからよ」


「いい笑顔をしてると思うわ」


「言っとく!」


「やだ、やめてよ! 言わないわよね?」


「言わないって」


「でも、いい笑顔してるって」


「そのうち私があなたを夕食に誘うわ。そうすればまた会えるでしょ」


「ぜひ、お願い」ステラは言った。「待ち遠しいわ」


「土曜日の夕方に来て一晩中いなさいよ。その時なら弟は家にいるわ」


「そうする」ステラは言った。「すてきじゃない!」


「あなた、弟のこと好きなんでしょ!」マートルは笑った。


「すごくいいと思うわ」ステラはあっさりと言った。


二度目の出会いは手筈どおりに土曜日の晩、ユージンが父親の保険事務所の奇数日勤務から帰宅したときにあった。ステラが夕食に来ていた。ユージンは服を着替えに二階にあがったときに、開いた居間のドア越しに彼女を見かけた。この年頃の彼には胃の病気や肺の弱さでもかなわない若さの炎があった。期待の震えが全身を駆け巡った。赤いネクタイを直してビシッと決めて、髪を入念に中央で分けて、身だしなみは特に苦労した。自分にふさわしい何か気の利いたことを言わねばならないと意識しながら下に降りた。さもなければ、自分がどんなに魅力的かがステラにはわからないだろう。それでもユージンはその結果が怖かった。ユージンが居間に入ると、ステラは姉と一緒に囲いのない暖炉の前に座っていた。赤い花模様の笠をかぶったランプの光が部屋を暖かく照らしていた。青いテーブルクロスが覆うセンターテーブル、ありふれた大量生産の椅子、小説と歴史書が並ぶ本棚がある普通の部屋だったが、家庭的で、団欒を強く感じた。


主婦としての自分の用事がないかを探しながら、時々、ウィトラ夫人が出入りした。父親はまだ帰宅していなかったが夕食の時間までには戻るつもりだった。ミシンのセールスで郡の郊外のどこかの町に出かけていた。ユージンは父親がいようがいまいが構わなかった。ウィトラ氏はユーモアあふれる人で、機嫌がいいと息子や娘をからかったり、子供たちの芽生え始めた異性への関心を口にしたり、時が来れば激しい情熱に至るよくある山場を予測したりした。お前はいつか馬の専門医と結婚するぞとマートルに話すのが好きで、ユージンにはエルサ・ブラウンという、妻に言わせると脂ぎった巻き髪の娘を予想した。こんなことがあってもマートルもユージンも怒らなかった。冗談が好きなのでユージンの顔には苦笑いさえ浮かんだ。しかしこの年でも彼はなかなかはっきりと父親を見ていた。自分の仕事の小ささ、そんな職業が自分に何でも要求することの馬鹿馬鹿しさが目についた。彼は決して口に出したがらなかったが、彼の中ではその平凡への不満が燃えていた。読み取れる人にとっては、時々不気味に噴煙をあげる爆発を控えた噴火口の中のマグマだまりだった。父親も母親も息子を理解していなかった。両親からすれば、夢見がちで、病弱で、自分が本当にほしいものが何なのかが未だにわかっていない変わった男の子だった。


「あら、おかえり!」入室するなりマートルが言った。「こっちへ来て座ったら」


ステラが魅惑の笑みを向けた。


ユージンは歩いてマントルピースのところへ行き、そこに澄まして立っていた。この少女にいいところを見せたかったが、どうしたらいいのかさっぱりわからなかった。何を言ったらいいのかよくわからなかった。


「私たちが何をしてたのか、あなたには想像もつかないでしょ!」姉が甲高い声で助け舟を出してくれた。


「ああ……何してたの?」ユージンはぽかんとして答えた。


「当ててごらんなさいよ。見事に当てられない?」


「とりあえず、一つ言いなさいよ」ステラが割り込んだ。


「ポップコーンを作っていた」ユージンは半笑いしながら思い切って言った。


「おしい」マートルが言った。


ステラは丸い青い目で彼を見て「もう一度よ」とうながした。


「栗だ!」ユージンは予想した。


ステラは明るくうなずいた。「何てすてきな髪なんだ!」とユージンは思った。それから……「栗はどこにあるの?」


「はい、これ」彼の新しい知り合いは小さな手を差し出して笑った。


その笑顔に励まされながらユージンは自分の言葉を見つけて「これだけかい!」と言った。


「別に意地悪してるんじゃないわ」ステラは叫んだ。「私はなけなしの一つをあげたんだから。あなたは自分の分をあげないのね、マートル」


「撤回するよ」ユージンは弁解した。「知らなかったんだ」


「私はあげないわよ!」マートルは叫んだ。「はい、ステラ」マートルは残り少ない栗を差し出した。「これを受け取って。弟に渡しちゃだめよ!」ステラの求める手に栗をおいた。


ユージンは姉のねらいがわかった。取れるものなら取ってみろというのだ。ステラが渡すにしてもユージンに頑張らせたいのだ。ユージンは姉の計画に乗った。


「くれって!」ユージンは手を広げた。「それはないだろ!」


ステラは首を振った。


「一つでいいからさ」ユージンはねばった。


ステラの頭がゆっくりいやいやっと左右に振れた。


「一つ」ユージンは近づきながら言った。


またしてもつれない反応だ。しかしステラの手はすぐ真横にあった。ユージンがつかめる位置だった。ステラが背後で手の中身をもう片方の手に移し替えようとしたところへ、ユージンが飛びついてつかんだ。


「マートル! 早く!」ステラが呼んだ。


マートルが来た。三つ巴の戦いになった。争奪戦の最中にステラが体をよじって立ち上がった。髪がユージンの顔をかすめた。ユージンは彼女の小さな手をしっかりと握った。同時に目をのぞき込んだ。何だろう? 彼は口が利けなかった。自分だけ半分力をゆるめて相手に勝ちを譲った。


「やった」ステラはにっこりした。「はい、一つあげるわ」


ユージンは笑ってそれを受け取った。両腕で抱きしめたかった。


夕食の少し前に父親が現れて腰を下ろしたが、すぐにシカゴの新聞をとってダイニングへ読みに行った。それから母親がテーブルにみんなを呼んだ。ユージンはステラのそばに座った。ステラが何をして何を言うのかが気になって仕方がなかった。唇が動けばその動き方を見守り、歯が見えればきれいだと思った。おでこにかかった小さな巻き毛が黄金の指のように彼を招いた。『彼女の髪の輝いている房』という詩的な表現のすばらしさを感じた。


食事が済むと、ユージンとマートルとステラは居間に戻った。父親は新聞を読むために、母親は皿を洗うために、そこに残った。少したつと母親を手伝うためにマートルが居間を離れたので、二人は取り残された。ようやく二人っきりになれたのに、ユージンには大して話すことなかった……話すことができなかった。ステラの美しさの何かが彼を黙らせてしまった。


「学校、好き?」しばらくしてステラが尋ねた。話をしなければならないように感じたからだ。


「まあまあかな」ユージンは答えた。「僕はあまり興味がないんだ。そのうち、やめて働こうと思ってる」


「何をするつもりなの?」


「まだわからない……画家になりたいな」ユージンは生まれて初めて自分の野心を告白した……言えたためしがなかったのに。


ステラはそれを気にも留めなかった。


「私を二年生に入れてくれないんじゃないかと心配したけど、入れてくれたわ」ステラは言った。「モリーンの校長がこっちの校長に手紙を書かなくちゃならなかったんだけどね」


「そういうところが意地悪なんだよな」ユージンはじっと考えた。


ステラは立ち上がって、本を見に本棚へ行った。ユージンは少し遅れて後に続いた。


「あなた、ディケンズが好きなの?」ステラが尋ねた。


ユージンは重々しく頷いて肯定した。「かなりね」と言った。


「私は好きになれないな。長ったらしいのよね。スコットの方が好きかな」


「スコットだって好きだよ」ユージンは言った。


「私の愛読書を教えてあげるわ」ステラは話すのをやめて、タイトルを思い出そうとしながら唇を開いた。まるで空中からその本を取り出すみたいに手をかざして「『公正な神』よ」と最後に叫んだ。


「うん……いいよね」ユージンは賛成した。「アワニーを犠牲にしようとする古いアステカの殿跡のシーンはとてもすばらしいと思ったよ!」


「ええ、そうよね、あそこいいわよね」ステラが付け加えた。ステラは『ベン・ハー』を取り出してぼんやりとページをめくった。「あと、これなんかいいわよね」


「いいよね!」


二人は話をやめた。ステラは窓辺に行き、安物のレースのカーテンの下に立った。月夜である。通りの両側に並んだ木々は葉を落とし、芝生は茶色く枯れていた。銀の透かし細工のような細く絡み合った小枝越しに、よその家の半分おろしたブラインドからランプが輝いているのが見えた。人が薄明かりの中で黒い影となって通り過ぎた。


「きれいじゃない?」ステラは言った。


ユージンは近寄って「すてきだね」と答えた。


「スケートができるくらい寒ければいいのにな。あなた、スケートするの?」ステラはユージンの方を向いた。


「そりゃ、するさ」ユージンは答えた。


「ねえ、月明かりの夜だとすてきよね。モーリンでは結構滑ったんだから」


「ここもスケートは盛んだよ。湖が二つもあるからね」


ユージンは、よくグリーン湖の氷がすごく轟く音を立てて割れる、澄み切った水晶のような夜のことを考えた。叫び声をあげる少年少女の群れや、遠くの影や、星のことを考えた。今まで彼は一緒に上手にスケートができる女の子を見つけたことがなかった。誰でもそう簡単にいくと思ったことがなかった。試しにやってみたが、一度、女の子と一緒に転んでしまった。それが彼をずっとスケートから遠ざけていた。ステラとだったら一緒に滑れそうな気がした。ステラなら自分と一緒にスケートをしたがるかもしれないと感じた。


「もっと寒くなったら、行こうか」ユージンは思い切って言ってみた。「マートルも滑るからね」


「ええ、そうしましょうよ!」ステラは拍手した。


ずっと外の通りを眺めた。


少ししてから煖炉のところに戻って来て、寂しそうにうつむいたままユージンの前に立った。


「ステラのお父さんって、ずっとここにいるつもりかな?」


「そう言ってるわ。とても気に入ってるもの」


「ステラは?」


「好きよ……今は」


「どうして……今なの?」


「だって、最初は好きじゃなかったもの」


「どうしてさ?」


「まあ、知り合いがいなかったからだと思うわ。だけど、今は好きよ」ステラは目をあげた。


ユージンは少し近寄った。


「いいところだよ」ユージンは言った。「だけど、僕にはあまり合ってないな。来年出ていこうと思ってる」


「どこに行くつもりなの?」


「シカゴだよ。ここにはいたくないんだ」


ステラは火に体を向けた。ユージンは彼女の後ろの椅子まで行ってその背もたれにもたれかかった。ステラは彼をかなり近くに感じたが、動かなかった。ユージンは自分でも驚いていた。


「ずっと戻って来ないの?」ステラは尋ねた。


「多分ね。状況次第だよ。そう思うんだ」


「私はまだ、あなたが出ていきたがってるとは思わないわ」


「どうしてさ?」


「ここはいいところだってあなたが言ってるからよ」


ユージンは何も答えなかった。ステラは肩越しにのぞいた。ユージンはステラの方にぐんとを体を乗り出した。


「冬になったら僕と一緒にスケートしない?」ユージンは思いを込めて尋ねた。


ステラはうなずいた。


マートルが現れた。


「二人して何の話をしているのよ?」マートルは尋ねた。


「ここはスケートが盛んだって話さ」ユージンは言った。


「私、スケート大好き」マートルは叫んだ。


「私もよ」ステラが付け加えた。「最高よね」





第二章



その後の交際期間にあった出来事のいくつかは、確かにはかないものだったが、ユージンの心に深い印象を残した。それから間もなく、彼らはスケートをするために集まった。雪が降り、氷が張って、グリーン湖は素晴らしいスケート場になった。霜がとても長く続いたので、氷室があるミラーズ岬では、馬を連れ氷を切るノコギリをもった男たちが、厚さが一フィートもあるブロックを切り出していた。感謝祭が終わると、ほとんど毎日のように学校帰りの少年少女が集まってきて、アメンボみたいに駆け回っていた。ユージンは店で父親の手伝いをしなければならなかったので、平日の夕方と土曜日はいつも行けなかった。しかし定期的にマートルに頼んでステラに連絡をとり、夜にみんなで一緒に出かけることができた。その他にも、二人だけで行こうとユージンが頼むこともあった。ステラが来ることは珍しくなかった。


ある時、高台の湖の近くにひっそりとある集落のふもとにいた。月が昇ると、誘うような月明かりがピカピカの氷の表面に反射した。湖の辺りに立ち並ぶ黒く密集した木々の間から、黄色い家庭的な窓の明かりが見えた。ユージンとステラは減速して向きを変え、スケートをしている人たちから少し離れた。ステラのカールした金髪は、少しはみ出したものを除いて、フランス帽で覆われ、体は腰の下まで、ぴったり密着した形のいい、白いウールのジャージで包まれた。下のスカートは厚手のウールの灰色の混紡で、ストッキングは白いウールのレギンスで覆われた。ステラは魅力的に見えたし、それを知っていた。


ターンしたときに、突然、スケート靴の片方がゆるんだので、足を引きずりながらそのことを叫んだ。「待ってて」ユージンは言った。「僕が直してあげる」


ステラが彼の前に立ち、ユージンは膝をついてねじれた紐をほどいた。スケート靴を脱がせて履かせる準備を整えて顔を上げると、ステラは笑顔でユージンを見下ろした。ユージンはスケート靴を落とすと、ステラの腰に勢いよく抱きつき、頭を彼女のウエストに当てた。


「いけない子ね」ステラが言った。


ステラはしばし無言でいた。この美しい場面の中心たる彼女は神聖だった。ユージンが抱きついている間に、ステラは彼のウール帽を脱がして髪に手を乗せた。ユージンの目は涙がこぼれそうだった。とても幸せだった。同時に、それはすさまじい情動を目覚めさせた。ユージンは思いっきりステラを抱きしめた。


「ねえ、しっかりスケート靴を履かせてよ」ステラは巧みにあしらった。


ユージンは抱きつこうとして立ち上がったが、ステラは許さなかった。


「だめよ、だめ」きっぱりと言った。「そんなことしちゃいけないわ。もしそんなことするのなら、あなたとは来ないわよ」


「ねえ、ステラ!」ユージンはせがんだ。


「これは本気で言ってるのよ」ステラは譲らなかった。「そういうことはしちゃいけないの」


ユージンは傷つき、半分怒りを感じながらもおさまった。しかしステラの出方を恐れた。ステラは実際には、ユージンが考えていたほど愛撫を受け入れる準備ができていなかった。


またあるとき、学校の女生徒の何人かで、そり遊びのパーティーが開かれて、ステラとユージンとマートルが招待された。雪が降る星空の、それほど寒くはない、すがすがしい夜だった。大きな箱型の馬車が解体されて、車体にスキーが取り付けられて、藁と暖かい長めの衣類が積み込まれた。そりがのどかな小さい家を十軒くらい回った後で、ユージンとマートルも他の子供たちと同じように自宅の玄関先で拾われた。ステラはまだ乗っていなかったが、じきに彼女の家に着いた。


「ここに乗りなさいよ」箱の半分くらいユージンから離れたところにいたのに、マートルが声をかけた。姉の誘いはユージンを怒らせた。「僕のところにおいでよ」ステラが来ないのを恐れたがユージンは声をかけた。ステラはマートルのそばに乗り込んだが、いづらいと気づいて奥へ移動した。ユージンは自分のそばに居場所を確保しようと特別に努力したので、ステラは偶然そうなったようにそこに来た。ユージンはステラの周りに水牛のローブを引き寄せた。彼女が本当にそこにいると思うと興奮した。そりは他の子供たちを拾うために鐘を鳴らしながら町をまわり、それが終わると郊外に飛び出した。そりは雪で静まり返った広大な暗い森林地帯を通過した。小さな白い木造の農家の家が大地に寄り添い、窓がほんのりロマンチックに光っていた。星が無数にきらめいていた。このシーンのすべてがユージンに強烈な印象を与えた。ユージンは恋をしていた。少女は暗がりの中、彼のすぐそばで青白く顔の輪郭をうかがわせた。ほっぺのかわいらしさ、目、髪の柔らかさまで手に取るようにわかった。


おしゃべりや歌でとても盛り上がった。こうやって気晴らしをしている間もユージンは何とかしてステラのウエストに腕をまわして手を握り、じっと目を見つめてその表情を読み取ろうとしていた。ステラはいつもユージンに恥ずかしそうにしてみせたが、必ずしも言いなりではなかった。ユージンはこっそりほっぺに三、四回、口に一回キスをした。暗がりで強引に引き寄せ、唇に長々と濃厚なキスをして相手を怖がらせてしまった。


「いやよ」ステラはピリピリして抗議した。「だめだってば」


ユージンは図に乗りすぎたと感じてしばらくおとなしくした。しかし、そのすべてが美しい夜と、美しい彼女は、忘れられない印象を残した。


* * * * * *


「ユージンには新聞とかそういう方面の仕事をさせるべきだと思うんだが」父親のウィトラが妻に提案した。


「少なくとも今はそうするしかなさそうね」ウィトラ夫人は答えた。息子がまだ本当の自分を見つけていない、とわかっていたからだ。「やがてもっと立派なことをするようになると思うわ。あの子はあまり健康に恵まれていないんですもの」


息子は生まれつき怠け者なんだ、とウィトラは半分疑っていたが確信はなかった。シルヴィアの将来の義理の父親で〈モーニング・アピール〉紙の編集長でオーナーのベンジャミン・C・バージェスが、基礎から一つずつ仕事を学べるような記者か植字工の職をユージンに世話してくれるかもしれない、とウィトラは提案した。〈アピール社〉には従業員が少ししかいなかった。しかしバージェスなら、もしユージンが文章を書けるのであれば記者、あるいは植字工の見習い、あるいはその両方として働かせることに反対しないかもしれない。ある日、ウィトラは往来でバージェスに頼んでみた。


「なあ、バージェス」ウィトラは言った。「あなたの職場にうちの倅の働き口はないものかな? 倅はちょっとした書きものが好きなんだ。大したことはないと思うんだが、絵も少し描くと言ってたっけな。倅だって何かを始めるべきだからね。学校では何もしてないんだ。多分、植字なら覚えられるよ。その線に沿って進むつもりなら、どん底から始めても害にはならんだろうしね。最初は給金なんて問題にしないからさ」


バージェスは考えた。ユージンを町なかで見ることはあったが、無気力でかなりの気分屋であること以外には欠点を知らなかった。


「折を見て私のところへ会いによこしなさいよ」バージェスはどっちつかずの返事をした。「私の方でユージンに何か世話ができるかもしれませんからね」


「そうしてくれるなら、恩に着るよ」ウィトラは言った。「今のところ、倅の奴、大したことをしてないものでね」そして、二人の男は別れた。


ウィトラは帰宅してユージンに話した。「折を見てお前が会いに行けば〈アピール社〉で植字か記者の職をやってもいい、とバージェスは言ってるんだ」ウィトラは、息子がランプのそばで読書をしている方角を向いて説明した。


「バージェスさんが?」ユージンは冷静に尋ねた。「僕は文章なんか書けないけど、植字ならいけるかもしれない。お父さんが頼んでくれたの?」


「そうだよ」ウィトラは言った。「いつか会いにいくといい」


ユージンは唇を噛んだ。これは自分がだらだら過ごしていることに意見してるんだ、とユージンは受けとめた。順調にはいっていない、それは確かだ。それでもやはり植字は、彼のような気質の人間にとって明るい分野ではなかった。「学校が終わったらそうするよ」ユージンはそう締めくくった。


「学校が終わる前に話をつけた方がいいぞ。その時期になると他にもそういう職を希望する奴が出て来るかもしれないからな。その仕事で自分の腕を試したところで損にはなるまい」


「そうするよ」ユージンは素直に言った。


ある晴れた四月の午後、ユージンはバージェス氏のオフィスに立ち寄った。オフィスは公共の広場にある三階建てのアピールビルの一階にあった。太って少し禿げているバージェス氏は、鉄縁の眼鏡越しにユージンをじろじろ見た。ほんの少ししかない髪は白髪だった。


「それで、きみは新聞の仕事をやりたいと思ってるんだね?」バージェスは尋ねた。


「そこで自分の腕を試してみたいんです」若者は答えた。「それが気に入るかどうかを確かめたいんです」


「今すぐにだって言えるけど、その可能性はとても少ないな。お父さんが言うには、きみは物を書くのが好きだそうだね」


「確かに好きですが僕に務まるとは思いません。植字を学びたいと思います。もし物を書く仕事をいただけるのでしたら、ぜひやりたいです」


「いつから始めたいと思ってるんだい?」


「そちらさえよければですが、学校が終わってからです」


「それは大した問題じゃないな。実際に人が不足しているわけじゃないからね、だけどきみくらい働かせることはできるよ。週五ドルでいいかい?」


「構いません」


「じゃ、準備ができたらおいで。私に何ができるか確認しておくよ」


バージェスは太い手を動かして将来の植字工を追い払うと、黒いクルミ材の机に向かった。机は薄汚く、新聞紙で埋め尽くされ、緑色のシェードをかぶった電灯に照らされていた。ユージンは部屋を出た。新しい印刷用インクの匂いと、それと同じくらい強烈な生乾きの新聞の匂いが鼻を突いた。面白い経験にはなるだろうが、どうせ時間の無駄使いだと思った。彼はアレキサンドリアをあまり重視していなかった。いずれそこから出ていくつもりだった。


アピール社のオフィスは、この地球上の他のどの地方新聞社のオフィスとも違いはなかった。一階の正面は営業所で、奥に大型の平台印刷機が一台と業務用印刷機が数台あった。二階には植字室があり、高い箱戸棚の上に活字の入ったケースが並んでいた。この新聞社も他の多くの地方新聞社と同じように、まだ活字を手作業で組んでいた。正面にはいわゆる編集者だか編集長だか社会部長の薄汚い仕事部屋があった……この三役全てを、バージェスがその昔どこかからか連れてきたケーレブ・ウィリアムズという同じ人物が兼任していた。ウィリアムズは小柄な細身の屈強な男で、黒く尖った顎髭を生やし、片目が義眼で、黒い瞳がずれて相手を見据えた。おしゃべりで、仕事から仕事へと飛び回り、いつも緑色の目ひさしを目深にかぶり、茶色いブライアーパイプを吹かしていた。彼には大都会の新聞社勤めの経験で積み重ねた知識が山ほどあった。間違いなく、海図もない波乱の海を航海した後で、妻と三人の子供を連れてここに錨を下ろしていて、勤務時間が終わると喜んで誰彼構わず生い立ちや経験を話してくれた。地元のニュースを集めて、記事を書くか編集するには、午前八時から午後の二時までかかった。彼は通信員を大勢かかえていたようで、その連中が周辺の要所々々から毎週ニュースを送って寄こした。AP通信が電信で小さなネタを配信してくれた。そして、二ページ分が、小説、家事のヒント、薬の広告など、彼の時間と負担を省けるいろんなものからなる『片面刷り』ができた。彼のもとに届いたニュースの大半は、編集で軽くあしらわれた。「シカゴなら、こういったネタは重宝したものさ」ウィリアムズは近くにいる誰にでも言ってきかせた。「だが、ここじゃ掲載できん。実際、読者はこんなものを期待しちゃいない。読者が求めているのは地元のネタなんだ。私はいつだってちゃんと読み応えのある地元のネタを探している」


バージェス氏は広告部門を担当した。実際には自力で広告を頼んでまわり、広告主が望む形できちんと活字に組まれ、その日の都合と先方の権利と要求にかなうようにきちんと配置されるのを確認した。そういうことにかけては仕切り屋で、やたらと愛想がよく、やり方まで指導した。時々社説を書き、ウィリアムズと一緒に社の見解がどうあらねばならないかを決め、編集者に面会しにオフィスに来た訪問者の応対をし、あらゆる既知の問題を調停した。郡の一定の共和党指導者の言いなりだったが、彼自身の気質も性分も共和党だったからそれは自然に見えた。多少貢献した報いに郵便局長に任命されたが、局長職の恩恵よりも新聞の方が実際に儲かっていたので断った。共和党指導者の裁量でまわってきた市や州の広告は何でも受け入れ、とても上手にこなした。ウィリアムズは、彼の政治的な関係が複雑なのをある程度知っていたが、それがその勤勉な魂を悩ませることはなかった。道徳を説いたりしなかった。「私は自分と妻と三人の子供の暮らしの面倒をみなきゃならんのです。他人のことで頭を悩ませることなく、自分がやっていければそれでいいんだ」そういうわけで、この職場は実に穏やかに、効率的に、そしてほとんどの面で快適に運営された。働くにはいいところだった。


十一学年目が終わって、十七歳になったばかりのときにここに来たウィトラは、ウィリアムズ氏の人柄に感動し、彼のことが好きになった。植字室の室長と呼ばれていいかもしれない立場で働くジョナス・ライルと、端物(はもの)印刷が急増した時にいつも臨時で働くジョン・サマーズのことが好きになった。ジョン・サマーズは、五十五歳、白髪頭で、割りと無口で、肺が弱く、酒飲みだとすぐにわかった。サマーズは日中何かにつけて職場を抜け出し、五分から十五分いなくなった。誰も何も言わなかった。ここには仕事の重圧がなかった。やるべき仕事は済ませてあった。ジョナス・ライルはもっと面白い人だった。十歳若く、力強くて、いい体格で、それでいて個性的だった。やや無気力なところがあり、達観していて、少し文学をかじっていた。やがてユージンは知るのだが、彼は全米の各地……デンバー、ポートランド、セントポール、セントルイスなど……で働いたことがあり、あちこちの経営者のことを随分覚えていた。新聞で特別な著名人の名前を見るといつも、ウィリアムズや、後に仲良くなってからはユージンのところへ新聞を持っていって言った。「こいつとは知り合いでね……どこそこで郵便局長(あるいは何々)だったんだ。あれから随分と出世したものだなあ」ほとんどの場合、ライルはこういう有名人を個人的には全く知らなかったが相手のことだけは知っていた。知人の名声がこんな世界の片隅にまで響いてくることが彼を感動させた。ウィリアムズのために大急ぎで慎重にゲラ刷りを読み、素早く活字を組む、自分の仕事に忠実な男だった。なのに世界のどこへ行ってもものにはならなかった。所詮、彼は機械に過ぎなかった。ユージンには一目でそれがわかった。


ユージンに植字の技術を教えたのはライルだった。初日に彼は、活字ケースのます目や置き場の原理や、ある文字が他の文字よりも使いやすく手元に置かれている理由、ある文字が量を表す理由、大文字が特定の目的で使われたり使われなかったりする理由、を説明した。「今〈シカゴ・トリビューン〉では、教会、船舶、書籍、ホテルといったものの名前はイタリック体を使用している。私が知る限り、新聞でそういうことをするのはそこだけだ」ライルは言った。活字の塊、植字架、ゲラ刷り、ページをまたぐ記事、とはどういうものなのかがすぐにわかった。指で触れば鉛の量がわかるようになるとか、ベテランになると一々考えなくても活字がほとんど本能的に所定の置き場に戻る道を見つけるとか、ライルは楽しそうに伝えた。自分の知識を真剣に受けとめてもらいたかったのだ。元々ユージンは何事でも学ぶことを尊んだので、この真剣な気遣いはただただうれしい限りだった。彼は自分が何をやりたいのかわからなかったが、何でも知りたがっていることだけはよくわかった。だから、しばらくはこの職場が彼の関心事だった。植字工とか記者とか地方の新聞に大きくかかわる者になりたいわけではなかったが、人生について学んでいた。ユージンは、開いた窓から自分にその存在を示す世界に笑顔を向けて楽しそうにデスクで仕事をした。自分が組んだ活字のニュースや論評や地元の広告の面白そうな部分を読み、世界が自分のため用意してくれるかもしれないものを想像した。かといってまだ大きな野心はなく、希望はあったが同時に少し悲観していた。知り合いの若い男女が往来や街角をぶらついている姿が目についた。テッド・マーチンウッドが父親の馬車で通り過ぎたり、ジョージ・アンダーソンが労働と無縁の人物のような態度で往来を行くのが見えた。ジョージの父親はたったひとつだけホテルを所有していた。釣りだとか、ボートに乗るとか、かわいい女の子とどこかをぶらつきたいと頭で考えはしたが、残念ながら女の子はそう簡単に彼を好きになりそうもなかった。彼は内気過ぎた。金持ちなのはすてきなことに違いないと考え、そういう夢を見た。


ユージンは熱く自分を語りたい年頃だった。恋をして激しい感情に駆られても、恥ずかしくて手控えてしまう年頃でもあった。ステラに、些細なことに思えそうなことを言って、自分の強さを見せることしかできなかった。しかしステラにとって最も嬉しかったのはその些細なことであって、強さではなかった。ステラはこのときでさえ、ユージンが少し変わり者で少し相手の気持ちを気にし過ぎるところがあると思い始めていた。それでもステラはユージンのことが好きだった。ステラがユージンの彼女であることは町中に知れ渡った。小さな町や村では、在学中に交際するとだいたいそうなってしまう。ユージンがステラと一緒に出かけるところが見受けられた。父親は彼をからかった。ステラの両親はこれを子供の恋愛程度にしか思わなかった。ユージン以外の男子が言い寄ってきてもみんな軽く受けとめる傾向があったのに気づいていたので、娘の方はあまり本気ではないと見ていた。ユージンの感傷的な態度にステラはすぐに嫌気がさすだろうと考えた。さすがに親が娘を見る目に狂いはなかった。数名の女子高校生に開かれたあるパーティーで、『田舎の郵便局』ができた。キスすることだけが目当てのただのゲームのひとつだった。当てっこには一連の罰ゲームがあって、しくじった者が郵便局長となり、誰かに『手紙』を取りに来させる。『手紙』とは暗い部屋(そこに局長がいる)で好きな人か、自分を好いてくれる人にキスしてもらうことである。郵便局長になった者には、好きな相手を呼び出す権限というか強制力……これについてはどう感じてもいいが……がある。


このときは、ステラがユージンの前に当たってしまい、キスをするために誰かを呼び出さねばならなかった。真っ先に思い浮かんだのはユージンだったが、やることがストレートなことと、彼の真剣さにステラが潜在的な恐怖を感じたので、口にせざるを得なかった名前はハービー・ラターだった。ハービーは、ステラがユージンと初めて会った後で出会ったハンサムな少年だった。ハービーはステラの目にはまだ魅力的に映らなかったが愉快だった。ハービーがどんな相手か確かめるために、ちょっかいを出したくなった。これが最初の手っ取り早いチャンスだった。


ハービーは浮き浮きした足取りで中に入った。ユージンはたちまち嫉妬に狂った。ステラがなぜ自分にこんな仕打ちをするのか、ユージンには理解できなかった。自分の順番が来るとユージンはバーサ・シューメーカーを呼び出した。バーサのことは好きだし、一応優しい女の子だったが、彼の評価ではステラとは比べ物にならなかった。本当は他の女の子としたいのにバーサとキスするつらさは大きかった。ステラはユージンが出てきたときに、目で不機嫌なのがわかったが無視することにした。ユージンは楽しんでいるふりをしていたが、明らかにやる気をなくして沈んでいた。


ステラに二度目のチャンスが巡って来て、今度はユージンを指名した。ユージンは行きはしたが半分ふてくされていた。ステラをこらしめたかった。ステラの方では、暗がりで会えばユージンが抱きついてくると期待して、両手がユージンの肩がありそうなあたりまであがっていた。ところがユージンは片手でステラの片腕をつかみ、唇に冷淡なキスをした。もしも彼が「どうしてなんだよ?」と問い詰めるなり、ギュッと抱き締めて邪険にしないでほしいと頼んでさえいたら、この関係はもっと続いたかもしれない。しかしユージンは何も言わなかった。ステラは反発して明るく出て行った。パーティーが終わってステラを自宅へ送り届けるまで、二人の間に気まずい緊張があった。


「今夜はしょんぼりしてるわね」二人とも一言も口を利かないまま二街区歩いてからステラが言った。通りは暗く、二人の足音がレンガの舗道にうつろに響いた。


「えっ、僕は気分爽快だよ」ユージンは不機嫌に答えた。


「ヴァイマーさんの家はとってもすてきよね、あそこはいつ行っても楽しいわ」


「ああ、楽しさ満点だ」ユージンは人を馬鹿にした態度で応えた。


「ねえ、つっかからないでよ!」ステラは怒った。「あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」


「へえ、ないの?」


「ええ、ないわよ」


「まあ、そっちがそう感じているなら、ないんだろうね。僕はそう思わないけど」


「まあ、あなたがどう思おうが、私にはどうでもいいことだわ」


「へえ、どうでもいいんだ?」


「ええ、どうでもいいわよ」ステラの頭があがった。怒っていた。


「じゃ、こっちもどうでもいいや」


家に着く寸前まで再び沈黙が続いた。


「来週の木曜日のパーティーには来るのかい?」ユージンは尋ねた。ユージンはメソジスト派の夜会のことを言っていた。ろくに気にしていなかったが、ステラに会って家まで送るのにはいい口実だった。明らかな破局が迫っているのではないかと不安に駆られて尋ねた。


「行かない」ステラは言った。「行くもんですか」


「何でさ?」


「行きたくないもの」


「しょうがないな」ユージンは責めるように言った。


「私に関係ないでしょ」ステラは答えた。「あなたは態度がでかすぎるのよ。とにかく私はあなたのことがあんまり好きじゃないんだわ」


いやな予感がしてユージンの心臓は縮んだ。


「好きにすればいいさ」ユージンは意地を張った。


二人はステラの家の門にたどり着いた。物陰でキスをするのが……相手が抵抗しようが、少しの間しっかり抱き締めるのが……ユージンの習慣だった。近づく間に、ユージンは今夜もそうしようと思ったが、ステラはその隙を与えなかった。門に着くと、すばやく開けて滑り込むようにして中に入ってしまい「おやすみなさい」と言った。


「おやすみなさい」ユージンは言った。それから相手がドアにたどり着いたところで「ステラ!」と声をかけた。


ドアが開き、ステラはさっさと中に入った。ユージンは傷つき、悲しみ、参ってしまい、暗がりで立ち尽くした。どうしよう? 向こうから彼のところへ来るまで二度と口をきかず見向きもしないとか、それとも追い詰めてとことん争ってやるとか、知恵を絞りながらぶらぶらと家路についた。ステラが悪いのはわかっていた。寝るときはそのことで深く悲しみ、目が覚めると一日中それがついて回った。


ユージンは、植字と、報道の原理をある程度学びながら急速に成長しつつあった。言われた仕事をこつこつと真面目にこなした。ユージンは窓の外を眺めながら絵を描くのが好きだった。しかし最近になって、ステラをよく知り、つれない態度のせいで喧嘩をするようになってからは、そっちに関心が行かなくなった。出社して、エプロンを着用し、前日から繰り越された地元の投書や、彼あてに新たに送られた電信の原稿に取りかかることには、建設的な価値があった。ウィリアムズは地元のニュースの担当にユージンを記者として起用しようとしたが、仕事が遅い上に事実の全貌を掌握することがほとんどできなかった。インタビューのやり方がわからないらしくて、他の情報源から補足しなくてはならないような話を持ち帰る始末だった。実は報道というものを理解していなかった。ウィリアムズではそれを部分的にしか彼に理解させられなかった。ほとんど活字ケースでの作業だったが、いくつか学んだことがあった。


まず、広告というものがわかり始めてきた。地元の商人は毎回同じ広告を載せた。そして、そのうちのほとんどがその内容を大きく変えなかった。ユージンはライルとサマーズが同じ広告を扱っているのを見た。月が変わっても広告の主要な部分の特徴は変わらないようで、組版に戻す前にほんの二言三言を変えただけだった。どれも寄ったりで驚いた。やがて校閲をまかされるようになると、少し変えることができたらなあ、とよく思うことがあった。言葉ばかりなのでかなり退屈に思えた。


「何でこういう広告に小さな絵を入れないんですか?」ある日ユージンはライルに尋ねた。「そうすれば少しはましに見えると思いませんか?」


「さあ、わからんね」ジョナスは答えた。「それだってかなり見た目はいいからな。ここいらの連中はそういうのを望まないのさ。そういうのを凝り過ぎだって思うんだよ」ユージンは雑誌の広告を見て一応は勉強していた。彼にはそっちの方がずっと魅力的に見えた。どうして新聞広告は変えられないのだろう? 



しかしこの問題で彼に悩む余地はなかった。広告主と応対するのはバージェス氏であり、広告のあり方を決めるのは彼だった。バージェス氏はユージンやサマーズには決してそういう話をしなかったし、ライルにも毎回話すわけではなかった。時々ウィリアムズに字体やレイアウトをどうするかを説明してもらうことがあった。ユージンはかなり若かったのでウィリアムズは最初彼にあまり注意を払わなかった。しかししばらくしてここに有望な人材がいるのがわかると、それからは物事……ある記事のスペースが短いのに他の記事が長い理由とか、郡のニュースと、アレキサンドリア周辺の小さな町のニュースと、市民に関する話題は、トルコのサルタンの死を正しく報じるよりも経済的にはるかに重要である理由……を説明するようになった。最も重要なことは地元の名前を正しく知ることだった。「決してつづりを間違えるな」彼は一度注意した。「名前の一部でも極力省略するな。客はそういうのにものすごく敏感なんだ。気をつけないと購読をやめちまうんだよ。何が問題なんだかお前にはわからないだろうがな」


ユージンはこのすべてを胸に刻み込んだ。基本的にはこれは少し小さいことに思えたが、彼は物事がどう扱われるのかを知りたかった。実際には、ほとんどの場合、人は少し小さく見えた。


彼の関心を引いたものの一つは、紙が印刷機に置かれて流れていくのを見ることだった。組版の固定を手伝ったり、組版がどんな風に組み付けられて位置合わせをされるのかを見るのが好きだった。印刷機が稼働する音を聞いたり、生乾きの新聞を郵送台や正面の配送カウンターに運ぶのを手伝うのが好きだった。新聞の発行部数はあまり多くなかったが、この時間の人生には少し活気があって、彼はそれが好きだった。手や顔が縞々になっても気にしなかったり、髪が乱れたのを鏡で見る感覚が好きだった。少し不器用でのろまなことが多かったが、役に立とうと努力し、新聞社のいろいろな人に好かれるようになった。この時期は丈夫ではなく胃の調子が悪かった。本気で心配しはしなかったが、インクのにおいが肺にさわるかもしれないと考えていた。基本的にここは面白かったが、なにぶん小さかった。外にはもっと大きな世界があることを彼は知っていた。いつの日かそこへ行きたかった。ユージンはシカゴに行きたかった。





第三章



ステラが自立志向を強める一方なので、ユージンはますます不機嫌になり、かなりやきもきした。ユージンが不機嫌でいるものだから、ステラはますます関心を示さなくなった。他の男子たちがステラの気を引こうと躍起になっている事実が大きな要因だった。特に一人の少年ハービー・ラターが常に優しくて、しつこくなく、ユージンよりも実際にハンサムで、はるかに気立てがよかった事実が大きく寄与した。ステラが時々ハービーと一緒にいるところや、ハービーと一緒か少なくともハービーがいるグループと一緒にスケートに出かけるのをユージンは目撃した。彼は心底ハービーが嫌いだった。おとなしく自分に従わないからステラまで時々嫌いになった。それでも彼女の美しさには夢中だった。それはユージンの頭脳にひとつの手本というか理想を刻み込んだ。これ以来、本当に美しくあるために女性らしさはどうあるべきか、を実に明確な形で知るようになった。


そしてそれがなしえたもう一つのことは、世界の中での自分の立ち位置をユージンに自覚させたことだった。これまでは食事も服も小遣いもずっと両親に依存していた。両親はあまり気前よくなかった。ユージンは、シカゴやスプリングフィールドまで……後者の方が近かった……土曜日と日曜日を楽しむために出かける金を持っている若者たちを知っていた。こういう楽しいことが彼には何もなかった。父親がそれを許さないというか、そういうことに使うお金をくれなかった。お小遣いをたっぷりもらった結果、町の伊達男になった若者もいた。水曜日と土曜日、ときには日曜日の夕方、どこかへ出かける準備をして、想像をはるかに超えた豪華な服装をまとい、一流どころの主要なたまり場になっている角の本屋の外で、彼らが時間をつぶしているのをユージンは見かけた。大手の繊維業者の息子テッド・マーチンウッドはフロックコートを持っていて、ガールフレンドに会いに行く前に髭を剃りに床屋へ行くとき、時々それを着て現れた。ジョージ・アンダーソンは夜会服を持っていたし、ダンスはすべてダンス用のポンプスを履いていた。エド・ウォーターベリーは自分専用の馬と小型の馬車を持っていると知られていた。こういう若者は少し年上で、少し年上の女の子が関心の対象だったが、要点は同じだった。こういうことが彼を傷つけた。


ユージンの見る限り、彼には経済的な繁栄をもたらしてくれそうな進路がなかった。父親がお金持ちになることは決してなかった。これは誰にでもわかった。ユージン自身が学業で何の実績も出していなかった……本人はこれを知っていた。保険の仕事……勧誘や書類の作成……は嫌いだった。ミシンの仕事を見下していた。どこに行けば、文学とか芸術で自分がやりたいと思うことで、何かを得られるのかわからなかった。絵は話にならないし、書いているものや書きたいという願いは要領を得なかった。悩ましいほど不幸だった。


ある日のこと、ずっと彼の様子を見守ってきたウィリアムズがユージンのデスクで立ち止まって言った。


「なあ、ウィトラ、いっそシカゴに行ったらどうだ? あそこはここよりも、きみのような若者のためになるものが、はるかに多くあるだろう。きみは地方の新聞社で働いてもどうにもならないよ」


「それはわかってます」ユージンは言った。


「まあ、私とは違うんだ」ウィリアムズは続けた。「私は勝負がついた。私には妻と三人の子供がいる。男は家庭を持ったら思い切ったことはできない。だが、きみはまだ若い。シカゴに行って新聞の仕事についたらどうだ? ものになるかもしれないぞ」


「僕が何になれますかね?」ユージンは尋ねた。


「組合に入れば植字工の職につけるかもしれない。きみが記者としてどれほど優れているかはわからんな……きみがそっちに向いているとは到底思えない。だが芸術を勉強して絵の描き方を学ぶのはいいだろう。報道画家はいい金になるんだぞ」


ユージンは自分の画力を考えた。大したことはない。これは大して使いものにならない。それでもシカゴのことを考えた。この世界は彼には魅力的だった。ここから抜け出すことさえできたら……週給で七、八ドル以上稼げさえしたらいいんだが。こういうことをじっくりと考えた。


ある日曜日の午後、ユージンとステラはマートルと一緒にシルヴィアの家に行った。少しいてから、ステラが帰らなくちゃいけないと言った。娘が帰宅するのを母親が待っているからだ。マートルはステラと一緒に帰るつもりだったが、残ってお茶を飲もうとシルヴィアが頼むと気が変わった。「ユージンに送らせればいいじゃない」シルヴィアが言った。ユージンは、未練がましく、期待こそしなかったが、喜んだ。ステラの愛情は勝ち取れない、とまではまだ思っていなかった。二人はさわやかな気持ちのいい空気の中を歩いた……春が近づいていた。ユージンは、今ならうまくいく……ステラを自分に振り向かせる……何か気の利いたことを言うチャンスがあるはずだと感じた。


二人はステラが住んでいる通りの隣りの通りを町境まで進んだ。ステラは自宅の通りで曲がりたかったが、ユージンは行くなと言った。「今すぐ帰らなくちゃいけないのかい?」ユージンは頼むようにして尋ねた。


「別に、少しくらい歩いたっていいわ」ステラは答えた。


二人は空き地にたどり着いた……一番はずれの家まで少し距離があった……だらだらと話をしていた。話が続かなくなってきた。楽しませようとして、ユージンは小枝を三本ひろい、バランスをとる秘訣を実演して見せた。それは、二本を互いに直角に並べて、三本目を支柱として使うというものだった。もちろん、ステラにはそんなことはできなかった。本当は大して関心もなかった。ユージンはステラにやってもらいたがった。そしてステラがやり始めるとその努力を無にしないように右手をつかんだ。


「やめてってば」と言ってステラは手を引っ込めた。「自分でできるわよ」


ステラはおぼつかない手つきで小枝をいじって倒しそうになった。そのときユージンが両手をつかんだ。あまりに突然だったので振り切ることができず、ステラは相手の目をまっすぐ見据えた。


「放してよ、ユージン、頼むから放して」


ユージンは首を振って相手を見つめた。


「頼むから放してよ」ステラは続けた。「こんなことしないでよ。あなたにはしてほしくないわ」


「どうしてさ?」


「だって」


「だって、何さ?」


「だって、してほしくないんだもの」


「じゃ、もう僕のことは好きじゃないんだね、ステラ?」ユージンは尋ねた。


「好きだとは思わない、そういうんじゃないわ」


「だけど、好きだっただろ」


「好きだと思ったのよ」


「心変わりしたんだね?」


「ええ、そうだと思うわ」


ユージンは両手を放すと、じっと芝居がかった態度で相手を見た。その態度はステラには通じなかった。二人は歩いて通りを引き返した。自宅の玄関先の近くまで来た時にユージンは言った。「じゃ、もうきみに会いに来ても無駄だね」


「来ない方がいいわ」ステラはあっさり言った。


ステラは振り返ることなく中に入った。ユージンは姉の家に戻らず家に帰った。とても憂鬱な気分だった。しばらくだらだら時間を過ごしてから自分の部屋へ行った。夜になった。座って外の木々を眺め、失ったものを嘆き悲しんだ。おそらくユージンはステラに相応しくなかった……ステラに自分を愛させることができなかった。ユージンは十分にハンサムではなかったのだろうか……確かに彼は自分をハンサムだと思わなかった……それとも、勇気か強さが足りなかったのだろうか? 


しばらくしてから、空では月が明るい盾のように木々の上にかかっていることに気がついた。二層の薄い雲が、違う高さを違う方向に動いていた。ユージンは思考を中断して、この雲はどこから来たのだろうと考えた。ユージンは、大型の商船隊のような雲が出た晴れた日に、雲が目の前から消えたのに、驚いたの何の、何もないところから再び現れたのを見たことがあった。かつて初めてそれを見たときはびっくり仰天した。そのときまで雲が何なのかを全く知らなかったからだ。後に、自然地理学の本で雲について読んだ。今夜は、そういうことや、上空を風が吹き抜ける大平原や、何マイルにも及ぶ草木……大きな森……のことを考えた。なんてすばらしい世界だろう! ロングフェロー、ブライアント、テニスンなどの詩人がこれについて書いていた。『死観』や『哀歌』を思い浮かべた。どちらもユージンの大好きな作品だった。これは、人生とは、何だろう? 


それから痛みを抱えてステラに戻った。ステラは本当にいなくなってしまった。あんなに美しかったのに。ステラがユージンに話しかけることはもう二度とないだろう。ユージンがステラの手を握るとかキスをすることも決してないだろう。痛みを抱えながら手を握りしめた。ああ、氷の上のあの夜、そりに乗ったあの夜! 何てすてきな夜だったんだろう! 最後は服を脱いで床についた。ユージンは独りになりたかった……孤独にひたりたかった。清潔な白い枕の上に横になり、存在していたかもしれないもの、キスや愛撫やあまたの喜びを夢想した。


ある日曜日の午後、シカゴの新聞の土曜午後版……日曜版がないので日曜版の代用品のようなもの……を開いたとき、ユージンはハンモックに横になって、アレキサンドリアは何て退屈なところなんだ、と考えていた。そして暗い気分で新聞に目を通した。毎度のことだが、新聞は微妙な驚きだらけだった。都市の驚き、それが磁石のように彼を引きつけた。誰かが建てようとしている大きなホテルのデッサンがあるかと思えば、演奏しに来る著名ピアニストのスケッチがあった。新作のコメディードラマの記事、住居に転用した老朽化した船があってヨタヨタ歩くガチョウがいるシカゴ川のグース島についてのちょっぴりロマンチックな読み物、南ハルステッド・ストリートの地下石炭置き場に転落した男の話は読み応えがあった。この通りは六千二百台だった。こんな長い通りがあると思うと想像せずにいられなかった。シカゴはものすごい大都市に違いない。ほとんど憧れのような魅力を感じながら、車の列、群衆、列車のことを考えた。


たちまちその虜になった。このすばらしさ、この美しさ、ここでの生活が、彼の魂をつかんだ。


「僕はシカゴに行くぞ」ユージンはそう考えて立ち上がった。


目の前にはすてきで静かな小さい家があった。中には、母親、父親、マートルがいる。それでも行くつもりだった。その気になれば戻って来られるのだ。「どうせ戻って来られるんだ」ユージンは思った。この魅力に駆り立てられて、ユージンは家に入り二階の自分の部屋に行き、持っていた小型の鞄だか旅行鞄を手に取った。すぐに必要になりそうなものを鞄に詰めた。ポケットには九ドルあった。しばらく前から貯めていたお金だった。ついにユージンは下の階に降りて居間の入口に立った。


「どうしたの?」母親は息子の物々しい思い詰めた顔を見ながら尋ねた。


「僕はシカゴに行きます」ユージンは言った。


「いつ?」母親はびっくりして尋ねた。息子が何を言いたいのか少し解せなかった。


「今日です」ユージンは言った。


「まさか、冗談でしょ」母親は信じようとせずに微笑んだ。これは子供の悪ふざけだ。


「僕は今日発ちます」ユージンは言った。「四時の列車に乗るつもりです」


母親の顔が悲しみに曇った。「本気じゃないわよね?」母親は言った。


「戻りたくなれば」息子は答えた。「戻れますから。僕は何か他のことをやりたいんです」


このタイミングで父親が現れた。外の納屋に小さな仕事部屋があって、そこで時々ミシンを掃除したり乗り物の修理をすることがあった。今、その仕事を終えたばかりだった。


「どうした?」息子のそばにいる妻を見ながら尋ねた。


「ユージンがシカゴへ行くっていうのよ」


「いつ行くんだい?」ウィトラは面白がって尋ねた。


「今日なのよ。これから発つって言うんです」


「そんなことはあるまい」ウィトラは驚いて言った。本気にしていなかった。「少し時間をかけてじっくり考えたらどうだ? どうやって暮らしていくつもりなんだ?」


「生きてはいけるさ」ユージンは言った。「僕は行きます。ここはもうたくさんです。僕は出ていきます」


「わかった」父親は言った。最後は自発性を信じた。結局、父親はこの子をよくわかっていなかったらしい。「荷造りは済んだのか?」


「いいえ、でもお母さんが送ってくれるでしょ」


「今日はおよしなさい」母親は訴えた。「準備できるまでお待ちなさいよ、ユージン。待って、少し考えればいいんだわ。明日まで待ちなさい」


「僕は今日発ちたいんです、お母さん」ユージンは母親に腕をまわした。「小さな母さん」ユージンは今はもう母親よりも大きかった。まだ成長が続いていた。


「わかったわ、ユージン」母親は優しく言った。「だけど、母さんはお前に行ってほしくないわ」我が子が自分のもとを去ろうとしていた……母の胸は痛んだ。


「戻って来られるんだよ、お母さん。たった百マイルのことなんだから」


「そうね、わかったわ」最後に明るく振る舞おうとしながら言った。「お母さんが荷造りしてあげるわ」


「それは済んでるんだ」


母親は見に行った。


「そろそろ時間だぞ」ユージンが折れるかもしれないと思っていたウィトラが言った。「残念だがな。だがお前にはその方がいいかもしれない。いつだってここに帰ってきていいんだからな」


「わかってます」ユージンは言った。


最終的にユージンと父親とマートルが一緒に列車のところまで行った。母親は見送りに行けず、家に残って泣いた。


駅に行く途中でシルヴィアの家に立ち寄った。


「ねえ、ユージン」シルヴィアは叫んだ。「馬鹿げてるわよ! およしなさいってば」


「本人が決めたことだ」ウィトラは言った。


ユージンはようやく自由になった。愛情、家族の絆、すべてのもの、そこに至る一歩一歩と戦っているようだった。ようやく駅にたどり着いた。列車が来た。ウィトラは愛情を込めて息子の手を握った。「達者でやれよ」息を呑んで言った。


マートルはキスをした。「ほんと、おかしな人ね、ユージン。手紙、ちょうだいね」


「出すよ」


ユージンは列車に乗り込んだ。発車のベルが鳴った。列車が走りだした……駅の外へどんどん。ユージンは見慣れた光景を眺めた。やがて本当のつらさが襲ってきた……ステラ、母親、父親、マートル、小さな我が家。そのすべてが彼の人生から消えようとしていた。


「あー」咳を払いをしながら、半分うめき声をあげた。「ああ!」


それから深く座って、いつものように何も考えないようにした。成功しなくてはならない。世界はそのために作られたのだ。彼はそのために作られたのだ。それは彼がやらなければならないことだった……





第四章



シカゴという街……それを描写するとしよう! このものすごい人の集団は、湖岸のじめじめした湿地帯に突如出現した。何マイルにもわたって寂れた小さな家屋が立ち並び、何マイルもの木塊舗装の通りにはガス灯が設置され水道の本管が敷設されている。人通りのない歩行者用の木塊歩道まである。ハンマーをたたく音が鳴り止まず、左官のこての物音が絶えなかった。電信柱が一点に集まりながら延々と並び、警備員の小屋や、工場の建物、そびえ立つ煙突が数え切れないほどあった。空き地で寂しげにたたずむ孤独でみすぼらしい教会の尖塔が方々にあった。未開の大草原のひろがりが黄色い草で覆われていた。十、十五、二十、三十もの線路が通るだだっ広い本線が横並びに敷かれて、たくさんの粗末な車両が数珠のようにつながっていた。エンジンが鳴り響き、列車が走り、人が交差点で待機していた……歩行者、荷馬車の御者、路面鉄道の運転士、ビール運搬車両、石炭やレンガ、石、砂などを積んだトラックがいた……新しい、ありのままの、日常生活の光景だ! 


ユージンはその近くまで来て初めて大都市を実感して重要性を理解した。この鮮やかで明確な活気あるものに比べたら、彼が読んで知る中で扱ってきた新聞の影の存在は、何だったのだろう? ここに新しい世界の本質があった。中身があり、魅力があり、まったく違っていた。列車が市内に向かう中で、サウスシカゴの立派な郊外の駅が彼の目を奪った。これまでに彼が見た同じ種類のものでは最高のものだった。ユージンはこれまでこんなにたくさんの外国人……労働者……を見たことがなかった。リトアニア人、ポーランド人、チェコ人が普通列車を待っていた。ユージンはこれまで本当に大きな工場を見たことがなかったが、ここにはあっちにもこっちにもいくらでもあった……製鉄所、窯業所、石鹸工場、鋳物工場が、日曜日の夕方の空気の中で、寂しく厳然としていた。日曜日だというのに、通りは何だか若々しく、活気があり、生き生きしているように見えた。気がつくと路面鉄道が待機していた。ある場所で小さな川が跳ね橋と交差していた……汚く暗い川だが、船が行き交い、巨大な倉庫、穀物倉庫、石炭貯蔵庫……必要で実用的な建物……が並んでいた。彼の想像力はこれによって火をつけられた。ここは黒で鮮やかに仕上げられる場面だ……船や橋の照明は赤か緑の点で表せばいい。雑誌だとこういうことをする者が何人かいたが、あまりぱっとしないだけだった。


列車は車両の長い行列を縫うようにして進み、いよいよ駅の大きな屋根の下に入り込んだ。アーク灯が点滅していた……大きな弧を描く鋼鉄とガラスの屋根の下にたくさんついていた。そこでは人が慌ただしく行き来していた。エンジンがシューと音をたてベルがけたたましく鳴り響いた。身寄りも、頼る相手もいなかったが、ユージンはどういうわけか孤独を感じなかった。この人生の光景が、この新しさが、彼を魅了した。列車を降りて、どっちへ行こうか考えながらのんびりと出口に進んだ。街角まで来ると、すでに灯っていた街灯がマディソンという地名を照らし出した。この通りを気をつけて見ると、目が届く範囲で、商店街が二か所、ジャラジャラ音を立てる馬車鉄道、歩行者が見えた。いい眺めだと思いながら西に曲がった。物思いにふけりながら三マイルほど歩いた。やがて日が暮れた。寝る場所を用意していなかったのでどこで食事をして眠ろうか考えた。貸し馬車屋のドアの外で傾いた籐椅子に座っていた太った男なら何か知っていそうだった。


「この辺で部屋が借りられそうなところを知りませんか?」ユージンは尋ねた。


ぶらぶらしていた男はユージンを値踏みした。男はそこのオーナーだった。


「その向こうの七百三十二号に住んでいる年寄りが」男は言った。「ひと部屋もっているはずだ。お前さんなら使わせてくれるかもしれないな」男はユージンの見た目が気に入った。


ユージンは通りを渡って一階のベルを鳴らした。すぐにドアを開けてくれたのは、背の高い親切な女性だった。いかにも女主人という感じで髪は白かった。


「何かしら」女は尋ねた。


「向うの貸し馬車屋の主人が、ここなら部屋を借りられるかもしれないと教えてくれたものですから。実は部屋を探しているところなんです」


女は愛想よく微笑んだ。この若者は、よそ者で、気になるものに目を見張り、田舎から出てきたばかりに見えた。「お入りよ」女は言った。「ひと部屋あるんだ。見てみるといいよ」


それは正面側の部屋だった……大きなリビングから離れた小さな寝室で、清潔で、質素で、使い勝手がよかった。「これはいいな」ユージンは言った。


女は微笑んだ。


「週二ドルだよ」女は言った。


「いいですよ」ユージンは旅行鞄を置きながら言った。「借りることにします」


「夕食は済ませたのかい?」女は尋ねた。


「いいえ、でもすぐ出かけますから。通りを見たいんです。何か見つかるでしょう」


「何かこしらえてあげるよ」女は言った。


ユージンが礼を言うと女は微笑んだ。シカゴがこの地方にしたのがこれだった。シカゴは若者を連れて来るのだ。


ユージンは窓の閉まっていたシャッターを開けて、窓台にもたれながらその前でしゃがんだ。すべてがとてもすばらしかったので、ぼんやり外を眺めた。店の窓には明るい照明が灯っていた。通行人が急いでいた……ツカ、ツカ、ツカと足音を響かせた。西の果てから東の果てまで、すべてがこんな調子だった。どこもかしこもこんな具合で、やたらとでかくて、すばらしい街だった。ここに来てよかった。ユージンはこの時実感した。すべてが有意義だった。よくもまあ、アレキサンドリアなんかに長居できたものだ! ここでならうまくいくだろう。きっとうまくいくだろう。ユージンはそれに絶対の自信があった。彼にはわかった。


確かにこの頃のシカゴは、駆け出し者に希望とチャンスに満ちた世界を提供した。そこはとても新しく、まだ手つかずで、すべてが出来上がる途中だった。延々と立ち並ぶ住宅も店舗もほとんどが一時的な間に合わせのもの……一、二階建ての枠組み構造……だった。あちこちに、やがて来るもっといい時代を見越した三、四階建てのレンガ造りの建物があった。湖と川の間に位置するビジネス街、ノースサイドとサウスサイドは、ものすごい未来を語る地域だった。ここはシカゴだけではなく中西部の消費者までまかなう商業地だった。立派な銀行、立派なオフィスビル、立派な小売店、立派なホテルがあった。この限られた場所が、何百万人という、若さ、幻想、未熟な願望を代表する人たちの栄枯とともに動いていた。この地域に足を踏み入れると、シカゴが意味するもの……熱望、希望、欲望……を感じることができた。ほとんどすべてのくじけかけた心に活力を注いでくれる街だった。駆け出しには夢を見させ、老人には決して変わらないほど不幸はひどくないと感じさせた。


もちろん、水面下に葛藤はある。若さと希望とエネルギーがものすごいペースを刻んでいた。ここでは働いて、動いて、生き生きと歩まねばならなかった。アイデアがなければならなかった。この街は相手が全力を出すことを求めるか、相手と関わらないか、なのだ。何かを探している若者……と老人……は、すぐにこれを実感した。ここは決して愚者の楽園ではなかった。


ユージンは落ち着ついてすぐにこれがわかった。何となく、活版の仕事はやめようと思った。もうやりたくなかった。どう始めたらいいのかよくわからなかったが、画家かそういった何かになりたかった。新聞は一つの方法を提示していたが、先方が初心者を雇う確証はなかった。ユージンは何の訓練も受けたことがなかった。姉のマートルが一度、ちょっとした簡単なスケッチをかわいいと言ったことがあったが、姉に何がわかるだろう? もしどこかで勉強できるのなら、教えてくれる人を見つけるのだ……その一方で働かなければならない。


もちろん真っ先に新聞社に当った。世の中で成長を願う者には、こういう立派な組織が理想的な手段に思えた。しかし、しかめっ面のアートディレクターや批評家的な新聞記者でいっぱいのオフィスはユージンを怖気づかせた。あるアートディレクターは、ユージンが見せた三、四枚の小さなスケッチに見どころを見つけたが、たまたま虫の居所が悪くて、とにかく誰のことも欲しがらなかった。ただ、いらない、と言っただけで終わった。画家としても失敗する運命かもしれない、とユージンは思った。


この青年の問題点は、実はまだ半分が覚醒していないことだった。人生の美しさが、そのすばらしさが、彼に魔法をかけていても、ユージンはまだそれを線と色で描けなかった。ショウウィンドウをのぞき込んだり、川の小船を見たり、湖の船を見ながら、こういうすばらしい通りを歩き回った。ある日、湖畔でたたずんでいると、沖合いに帆を張った船が現れた……生まれて初めて見たものだった。それが彼の美意識をとらえた。緊張しながら手を握り、それに興奮した。それから湖の壁に腰掛けて、船が徐々に水平線の彼方に沈むまで何度も見た。さすがに大きな湖だ、大海原もこうに違いない……大西洋、太平洋、インド洋だ。まさに海だ! いつの日かニューヨークに行くかもしれない。そこには海があった。しかし、小さいのでよければここにもあった。それもすばらしいのがあった。


人は生活する手段が整わなければ、湖畔や、店のショウウィンドウの前や、跳ね橋をうろついてはいられない。ユージンにはなかった。家を出たときに独立しようと決めていた。少なくとも生活できるだけの給料を何かの手段で得たかった。手紙を書いて、自分は順調にやっていると言えるようになりたかった。トランクと、母親からの愛情のこもった手紙と、多少の金が届いたのに、ユージンはそれを送り返した。たった十ドルだったが、そういう始め方をしたくなかった。自分の力で稼ぐべきだと考えた。とにかく試したかったのだ。


十日後、手元の資金が枯渇し、一ドル七十五セントになった。どんな仕事でもいいからやらなければならないと決心した。今は絵や活字の仕事にこだわっている場合ではなかった。組合員証がなくて植字工にはなれなかったので、何でもいいから職につかねばならなかった。だから片っ端から店を当たった。彼が尋ねて回った安っぽい小さい店の数々は痛ましいほど醜悪だったが、ひとまず芸術的感性は脇に置く努力をした。パン屋でも、洋品店でも、お菓子屋の店員でも、何でもいいからお願いした。しばらくして金物屋があったので、そこで尋ねた。主人はじろじろと彼を見た。「ストーブを保管する仕事ならやってもいいぜ」


ユージンはわかっていなかったが快諾した。週給六ドルにしかならなかったが、それで生活していくことができた。ユージンは、ストーブの取り付け、磨き、修理をやる二人の荒くれ者が仕切る屋根裏部屋へ案内され、仕事は、汚れたストーブのサビ取り、組み立てとネジ留めの手伝い、商品を磨いたり運んだりすることだとぶっきらぼうに説明された。ここは、街中の屑屋からストーブを買い取って修理をする中古のストーブ屋だった。ユージンは窓際の低いベンチで研磨作業をすることになった。しかし脇道にいくつかある家の青々した庭を眺めてしょっちゅう時間を浪費した。彼にとってこの街は驚きに満ちていた……細かいすべてのものまでが魅力的だった。屑拾いが「古着、屑鉄」と声をかけたり、野菜売りが「トマト、ジャガイモ、青トウモロコシ、エンドウ豆」と叫びながら通り過ぎると、手を止めて聞き入った。掛け声の節回しのいい悲しげな響きに聞き惚れてしまった。アレキサンドリアにはこういうものが全くなかった。すべてが見なれないものばかりだった。気がついてみれば、裏庭の物干しの綱や、籠を抱えた家政婦など、いろいろなものをペンとインクでスケッチしていた。


(そこに二週間いて)我ながらよく働いていると思ったある日のこと、二人の修理工の一人が言った。「おい、さっさとやれよな。窓の外をながめるためにお前に給料が払われてんじゃないんだぞ」ユージンは手を止めた。彼には自分がだらだらやっているという認識がなかった。


「それがあなたに何の関係があるんですか?」機嫌を損ね、半分喧嘩腰で口答えした。自分は彼らの同僚であって部下ではない、という思いがあった。


「言っとくがな、新米小僧」二人のうちの年長者が言った。彼は「ビル・サイクス」を模して作られた人間だった。「お前は俺の下にいるんだぞ。きびきび動け、そしてこれ以上この俺に口答えすんな」


ユージンは驚いた。青天の霹靂だった。画家がやるように横目でどんなタイプか分析していたところ、野獣が姿を現し始めた。



「うるせえよ」ユージンは状況の厳しい現実に半分しか気づかずに言った。


「何だと!」男は叫んでユージンに向かって行った。壁の方にユージンを突き飛ばして、大きな鋲打ち靴で蹴ろうとした。ユージンはストーブの足を拾った。顔面蒼白だった。


「二度とやるなよ」暗然として言った。足をしっかりとつかんだままだった。


「よせやい、ジム」いくら怒っても無駄だと見越した相棒が言った。「殴っても仕方ない。気に入らないんなら、そんな奴、下の階に降ろっしゃえ」


「じゃ、お前はここから出ていけ」ユージンのお偉い上司は言った。


ユージンはストーブの足を持ったまま、帽子とコートのある場所まで歩いた。二発目の攻撃を気遣いながら、慎重に襲撃相手の脇を通り過ぎた。男はその頑なな態度に反発して、もう一度蹴りたいところだったが我慢した。


「お前は生意気なんだよ、ウィリー。目を覚ましたいだろう、顔でもこねるんだな」ユージンが移動する間に男は言った。


ユージンはおとなしく退散した。心が傷つき、ずたずただった。何たるざまだ! ユージン・ウィトラともあろうものが足蹴にされた。蹴り出されたも同然だ。しかも週給六ドル程度の仕事で。大きなものが胸につかえたが、またもと通りになった。泣きたかったがそんなまねはできなかった。両手と顔にストーブの洗浄剤をつけたまま下の階に降り、事務係に直行した。


「辞めたいんですが」ユージンは雇い主に言った。


「わかった、どうしたんだい?」


「あのでっかいけだものが僕を蹴ろうとしたんです」ユージンは説明した。


「なかなか荒っぽい連中だからな」雇い主は答えた。「うまくやっていけるか心配はしてたんだ。お前さん、あまり強くなさそうだからね。はい、これ」男は三ドル五十セントを出した。ユージンは自分の不満がこんな変なふうに受けとめられたのを驚いた。こっちが向こうに合わせなくてはならないのだろうか? 向こうがこっちに合わせなければならないのではないのではないだろうか? 都会にはこういうむごたらしさがあった。


ユージンは帰宅して汚れを洗い落として再び出かけた。今は仕事をしないでいられる状況ではなかった。一週後に働き口を見つけた……不動産関係の住宅まわりで、空家の軒数を調べたり窓に「貸家」の張り紙をする仕事だった。給料は八ドルで、昇進のチャンスがあるようだった。そこが三か月後に破産しなかったら、ユージンはずっとそこにとどまったかもしれない。やがて秋服の季節が来て冬のオーバーコートが必要な季節が来た。しかし家族に愚痴一つこぼさなかった。現実はどうあれ、順調にいっているように見せたかった。


この時期に彼の人生観を鍛えて研ぎ澄ましたもののひとつは、いくつかの方面で豪華なものを見せられたことだった。ミシガン・アベニューとプレーリー・アベニュー、アシュランド・アベニューとワシントン大通りが出会うところは、ユージンがこれまでに見たことがなかった豪邸でにぎわう一画だった。設備の豪華さ、芝生の美しさ、窓のすばらしさ、主人に随行して仕える馬車や供回りが立派なのに驚いた。生まれて初めてお仕着せを着た従者を見た。彼にはびっくりするほど美しく思えた若い娘や年配の女性を遠くから目撃した……着ているドレスが一段ときれいだった。若い男性がこれまでに見たことがないような格調高い雰囲気をまとっているのが見えた。これこそ新聞がいつも話題にしている上流階級の人たちに違いない。彼の思考はまだ何も分け隔てをしなかった。立派な衣装や立派なアクセサリーがあれば当然、社会的な名声はそれについて回った。これは彼に、地方から出てきたばかりの駆け出しの境遇と、世の中が実際にくれるもの……あるいは世の中が頂点に立つ一部の者に浴びせるように贈るもの……との間に、どれほど隔たりがあるかを初めて思い知らせた。これは彼を落ち込ませ、少し悲しませた。人生は不公平だった。


木の葉を茶色くし、煙を散らして塵を渦巻かせる木枯らしが吹く秋の日々は、都会が残酷になりうることをユージンに教えた。目がくぼみ、陰鬱で、やつれ、明らかに深い絶望から彼を見るみすぼらしい男たちにユージンは出会った。この連中は、みんな困った状況に陥ってこうなったようだった。仮にこの連中が物乞いをしたら……裕福には見えないから彼に向かってはするまいが……不幸な境遇が彼らをこんなふうにしたと言われるのだ。お前も簡単に破滅するかもしれないぞ。切れ者に見えなかったら本当にひもじい思いをするかもしれないぞ……この街は早々彼に教えてくれた。


この頃、ユージンはひどく孤独だった。あまり社交的ではなく、内向的すぎた。友人を作る術がなかったか、一人もいないと思っていた。だから夜の街をぶらついて、目にした光景に驚くか、自分の小さな部屋に閉じこもっていた。女主人のウッドラフ夫人は親切で母親みたいだったが、若くはなく、彼の好みではなかった。女の子のことや、自分に声をかけてくれる女の子がいないのは何て悲しいことだ、と考えていた。ステラは去った……夢は潰えた。いつ、また彼女のような女の子を見つけるのだろう? 


ひと月近くぶらぶらしてから洗濯物を配達する仕事についた。その間に母親が仕送りしてくれた金を使って服を一揃い、分割払いで買わざるを得なかった。週給十ドルだったので仕事はとてもよさそうに見えた。疲れていないときに時々スケッチをしたが、やっていることが無意味に思えた。絵を始めるために学校に出願するとか、絵のレッスンを受けるべきときに、こんなところで働いてワゴン車を運転していたのだ。


冬の間にマートルが手紙で、ステラ・アップルトンが父親の行ったカンザスに引っ越したことや、母親の体調が悪いことや、ユージンに帰ってきてしばらく家にいてほしがっていることを書いて寄こした。ユージンがマーガレット・ダフという小さなスコットランド娘と知り合いになったのはこの頃だった。クリーニング店で働く娘で、すぐに彼の女性経験の前例を確立する関係を結んだ。彼はこれ以前に女の子の体を知らなかった。ここにきていきなり、新しくて、それが悪ではないにしても、少なくとも彼の性格を破壊し混乱させる性向を覚醒させた何かの中に放り込まれた。彼は女性を、その体の曲線の美しさを愛した。容姿の美しさを愛し、しばらくすると心の美しさを愛するようになった……このときは漠然と、未熟な形で愛した……しかし、彼の理想はまだ彼にもはっきりしていなかった。マーガレット・ダフは、多少態度が純真で、多少精神が寛大で、多少体の形がよくて、多少顔立ちが整っていた……それ以上ではなかった。しかし、それを糧に成長しながら、彼の性欲は強くなった。数週間でほぼ彼を支配した。ユージンは毎日この娘と一緒にいたくてたまらなかった……そして娘の方でも関係が過度に目立たない限り、完全にその気だった。マーガレットは両親のことを少し心配した。二人とも労働者だったので早寝でぐっすりと眠った。若い娘が男の子といちゃいちゃするのを気にしていないようだった。この最新の相手に目新しさはまったくなかった。三か月間激しく燃え上がった……ユージンはしきりに求め、飽くことがなかった。娘の方はそれほどではなかったが従順だった。マーガレットは男に火がついた形跡……自分が引き起こした激しく燃え上がる炎……が好きだった。しかししばらくすると少し飽きてきた。やがて、ちょっとした性格の不一致が発生した……好みが違い、意見が違い、興味が違った。実際、ユージンは真面目な話を彼女にできなかったし、彼の人一倍繊細な感性に対する反応を得られなかった。マーガレットは自分の好きなささいなこと……芝居の冗談や、他の若い男女についての気の利いた意見……を彼がすぐにわかったとは思えなかった。服装のセンスについてマーガレットは多少考えを持っていたが、他のこと、芸術や文学、一般知識をまったく知らなかった。一方ユージンは若くても、このすばらしい世界で起こっていることにとても敏感だった。カーライル、エマソン、ソロー、ホイットマンといった偉人の名前と偉業はちゃんと耳に入れていた。偉大な哲学者、画家、音楽家、西欧社会の知的な空を全速力で駆け巡る流星について読んで、思いを巡らせた。いつの日か自分も何かをするために呼ばれる気がした……若さの熱に浮かされたせいか、そういうことが近いうちにあるかもしれないと半分考えた。自分がもてあそんでいるこの娘が、自分をつなぎとめられないことをユージンは知っていた。彼女が彼を誘惑したのだとしても、いったん誘惑されてしまえば、支配し、判断し、批評を加えるのは彼だった。この女がいなくてもやっていける……もっといい相手を見つけられる……と感じ始めていた。


情熱に飽きが来るとこういう態度が出てくるので、こういう態度が情熱に終止符を打つのは自然だった。マーガレットは冷淡になった。時々彼の偉そうな態度や、尊大な口のきき方に憤慨した。二人は些細なことで喧嘩した。ある夜、ユージンはいつものように傲慢な態度で、マーガレットに何かをやれと言った。


「ねえ、そんなに利口ぶらないでよ!」マーガレットは言った。「あなたっていつも、まるで自分が私を所有してるかのように話すのよね」


「僕のものだからね」ユージンは冗談めかして言った。


「あなたのもの?」マーガレットは激怒した。「他にもいるんだけど」


「じゃ、きみがその気になったらいつでもそいつらをきみのものにすればいい。僕はかまわないから」


実際には間の悪いちょっとしたからかいに過ぎなくて、聞こえた言葉よりももっと優しい意味合いだったが、その口調は相手を傷つけた。


「じゃあ、その気になったわ。あなたが会いたくないんじゃ、私に会いに来る必要はないわよね。私ならうまくやっていけるわ」


マーガレットはそっぽを向いた。


「馬鹿なまねはよそうぜ、マーギィ」ユージンは自分がたてた逆風に気がついて言った。「きみにそんなつもりはないくせに」


「私にない? まあ、今にわかるわよ」マーガレットはユージンから離れて部屋の別の隅まで行った。ユージンは後を追ったが、彼女の怒りはまたもや彼の反発をまねいた。「ああ、わかったよ」ユージンはしばらくして言った。「帰った方がよさそうだ」


相手は何も答えず、言い訳も呼びかけもしなかった。ユージンは帽子とコートを取りに行って戻って来た。「さよならのキスをしたいかい?」と尋ねた。


「いいえ」マーガレットは簡単に言った。


「おやすみ」ユージンは声をかけた。


「おやすみなさい」マーガレットはそっけなく答えた。


この後も、この関係はしばらく続いたが、仲直りに向かうことはなかった。





第五章



この出会いはしばらくの間、ほとんど抑えきれなくなるほど女性に対するユージンの関心をかき立てた。ほとんどの男性は内心では女性を征服したことを……征服できる能力を……誇りに思う。そして、惹きつけたり、楽しませたり、つなぎとめたりする能力の証は、優越感や充実感を男性にもたらしがちな要素の一つであり、あまり勝ったことがない男性には時としてこれが欠けていることがある。これはそういう意味においてその類の彼の最初の勝利であり、彼を大いに満足させた。いずれにしても、恥じるどころか、かなり自分に自信がついた。これに比べたら、アレキサンドリアにこもっている愚かな若者は、人生について何を知っているのだろう、と思った。何も知らないのだ。ユージンは今シカゴにいた。ここは別の世界だった。彼は、自分が男であり、自由であり、ひとりの人間であり、他の人たちの興味の対象だとわかりかけてきた。マーガレット・ダフは、彼についていいことをたくさん話してくれた。彼のルックスや、全体の風采や、特定のものを選ぶセンスのよさを褒めた。ユージンは女性を所有することがどういうことかを実感した。ユージンはしばらく威勢がよかった。解雇される準備はしっかりできていたから、かなり一方的に解雇されたという事実は、少ししか影響しなかった。今になって突然、仕事に対する不満が彼の中で湧き上がった。週給十ドルは自尊心のある若者が自分を養っていける金額ではなかった……特に、終わったばかりのああいう関係を維持することを考えた場合はなおさらだった。もっといい職場に就くべきだと感じた。


それからある日のこと、ウォーレン・アベニューの女性の家に荷物を届けに行ったところ、相手が呼び止めて尋ねた。「あなたみたいな配達の人って週給どのくらいもらうのかしら?」


「十ドルです」ユージンは言った。「もっともらう人もいると思います」


「あなたは立派な集金人になるべきよ」女は続けた。大柄で、家庭的で、単刀直入で、ずけずけ物を言う女だった。「そういう仕事に転職してみない?」


ユージンはクリーニング屋の仕事にうんざりしていた。長時間の重労働なのだ。日曜日などは午前一時まで働き通しだった。


「やってみようかな」ユージンは大きな声で言った。「それがどんなものなのかは知りませんけど、この仕事はちっとも面白くないんです」


「うちの主人が〈みんなの家具社〉を経営してるのよ」女は続けた。「時々、優秀な集金係が必要になるの。主人ならすぐに替えてくれると思うわ。私から主人に話してあげるわよ」


ユージンは嬉しそうに微笑んで女に礼を言った。これはきっと幸運が舞い込んだのだ。集金係がどれほどの稼ぎになるのか知りたかったが、聞くのは野暮だと思った。


「主人があなたを雇えば、多分、最初は十四ドルもらえるわ」女は自分から切り出した。


ユージンはわくわくした。だとすれば確かに世の中で一段あがることになる。四ドルも増えるのだ! それだけあればいい服が手に入れられるし、他のことにもお金が使える。絵を勉強するチャンスができるかもしれない。展望が広がり始めた。努力すれば人は出世できるのだ。このクリーニング店のために頑張った配達が、これをもたらしたのだ。他の分野でさらに努力すれば、もっと大きな成果が得られるかもしれない。それに彼はまだ若かった。


クリーニング屋で六か月働き続けた。六週後、〈みんなの家具社〉の経営者のヘンリー・ミッチリー氏がクリーニング屋気付で彼に、夜八時以降自宅に来ればいつでも会うつもりでいる、と手紙をくれた。「あなたのことは家内から聞いている」と付け加えてあった。


ユージンはその手紙を受け取ったのと同じ日に話に乗って、細身で、活発な、四十歳の調子のよさそうな男の面接を受けた。男はユージンに仕事や家庭や配達員としていくらもらっているのかなどを尋ねて最後に言った。「うちには聡明な青年が必要なんだ。真面目で、正直で、勤勉な者にはいい仕事だよ。家内のやつがきみをなかなかの働き者だと思っているようなので、試したくなったんだ。きみには十四ドルで働いてもらう。来週の月曜日に来てもらいたい」


ユージンは男に礼を言った。ミッチリー氏に勧められて、一週間後にやめることをクリーニング屋の店主に告げた。マーガレットにやめることを話したら、彼のために喜んでいるようだった。ユージンはいい運転手だったので、店主は少し残念がった。最後の一週間は後任の新人を手伝って、月曜日にミッチリー氏の前に現れた。


ミッチリー氏は、ユージンを行動力と実力を備えた青年と見ていたから雇えたのを喜んだ。仕事は簡単だと説明した。内容は、時計、銀の食器、敷物など、会社が販売したあらゆるものの請求書を受け取り、いろいろなルートを回って正当なお金を回収するというものだった……平均すると一日に七十五から百二十五ドルだった。「うちのような会社は大抵、保証人を求めるものなんだが」男は説明した。「うちはまだそこまでいってない。相手を見れば、正直な若者ってわかると思うんだ。いずれにしても、うちには監査システムがある。不正を働きがちな奴は、うちじゃうまくやれないよ」


ユージンはこの正直という問題についてあまり考えたことがなかった。彼はささやかな小遣いを気にする必要がない環境で育てられ、当面の欲求を満たせるだけのものを〈アピール社〉で稼いでいた。それに、彼が日頃交流していた人たちの間では、正直であることはとても正しくて必要なことだと考えられていた。そうでない者は逮捕された。夜に店に押し入ったかどでアレキサンドリアで逮捕さた知り合いの若者のとても残念な事件を思い出した。当時のユージンには恐ろしいことに思えた。それ以来、正直とは何なのかを漠然と随分考えてきたが、まだ結論は出ていなかった。自分が管理をまかされたものはすべて最後の一ペニーに至るまで責任を持つことを期待されたことがわかり、喜んでそれに応えるつもりだった。もしそうやって生きていかねばならなかったら、稼いだお金があれば十分だと思えた。彼は他の誰かを支えるのを手伝う必要がなかった。だから彼は割りと簡単に、事実上テストもされずに、順調な滑り出しを見せた。


ユージンは自分にあてがわれた初日の請求書の束を受け取って、丁寧に一軒一軒回った。ある場所では渡した領収書の分のお金が支払われ、またある場所では会社と以前にもめたことを口実にして支払いを先延ばしされたり断られたりした。跡形もなく行方をくらまし、未払いの品物まで荷造りして引っ越してしまった場所も多かった。ミッチリー氏が説明したように、近所の人からその連中の足取りを聞き出す努力をするのがユージンの仕事だった。


この仕事は気に入りそうだとユージンはすぐにわかった。新鮮な空気、野外での活動、歩くこと、仕事が片付く早さ、すべてがユージンに好都合だった。集金ルートはユージンを、彼がまだ見たことがなかったこの街の知らない新しい場所へと連れて行き、出会ったことのないタイプの人たちを紹介した。クリーニング屋の仕事は一軒一軒回って新鮮味があったが、これもまたそうだった。もう少し上手に絵が描けるようになったら、きっと立派なものにできるかもしれないと確信を抱いた景色を目にした……暗くそびえ立つ工場地帯、雨でも雪でも晴天でも迷路のようにたたずむだだっ広い鉄道操車場、朝夕の空を横切るようにその黒い背丈を投げかけている巨大な煙突。ユージンは、それらが赤や薄紫の光の中で際立つ夕暮れ時が一番好きだった。「すばらしい」と、よく心の中で叫んだ。もしドレの作品のようなすばらしい絵を自分が描けるようになったら、世間はどれだけ驚くだろうと考えた。ユージンはドレのものすごい想像力を称賛した。自分が油絵の具、水彩絵の具、チョークで……ペンとインクだけで、しかも白と黒の見事な、おおざっぱな斑点で……何かを描いているところは思いつかなかった。あれはそういうふうにやったのた。そうやって効果が加えられたのだ。


しかしユージンにはそれができなかった。彼には考えることしかできなかった。


ユージンの主な楽しみの一つはシカゴ川だった。その黒くて汚い水面は、あえぐような音を出して進むタグボートにかき乱され、大きな赤い穀物倉庫と黒い石炭貯蔵庫と黄色い材木置き場が川岸に並んでいた。ここには本物の色と人生……描く対象……があった。屋根の低い、ありふれた、雨ざらしの小屋が、平らな牧草地帯に、ひっそり、わびしく、数軒並んでいた。多分どこか近くに小さな木が一本くらいはあるかもしれない。ユージンはこういうものが大好きだった。包んでいるものを取って、それ自体の感じをつかもうとした……彼の言い方では質感……しかし出せなかった。ユージンが描いたものは、どれも安っぽくて平凡に見えた。ただの無意味な線と硬い木の塊にしか見えなかった。偉大な画家たちは、どうやってあの滑らかさやゆったりした感じを出したんだろう? ユージンは不思議に思った。





第六章



ユージンは集金して毎日正確に報告した。やりくりして少しお金を蓄えた。マーガレットはもはや過去の一部だった。大家のウッドラフ夫人がミズーリ州のセダリアにいる娘と一緒に暮らすためにいなくなった。ユージンはサウスサイドの東二十一丁目にある比較的立派な家に引っ越した。この家は、家の前の五十フィートの空き地にあった一本の木のおかげでユージンの目にとまった。他の部屋と同じで費用は少ししかかからなかった。ユージンは民家に下宿した。そこで取る食事を一食二十セントと決めて、これでぎりぎりの生活費を週五ドルに抑えこんだ。節約しながら残りの九ドルを服や、交通費や、遊びに費やすと、後にはほとんど何も残らなかった。少しお金に余裕ができたことがわかると、昇進の道として頭の中に浮かんでいたアートスクールを探して、どんな条件で夜間のデッサンのクラスに参加できるのかを調べようと考え始めた。聞いた話では、受講料はとても手頃で、四半期でたったの十五ドルだった。条件があまり厳し過ぎなければ始めることにした。自分は画家になるために生まれてきたのだと確信し始めていた……いつそうなるかはわからなかった。


現在の印象的な建造物の先駆けともいえるこの古いアートスクールは、ミシガン・アベニューとモンロー・ストリートのところにあり、当時の大衆の好みを代表している建物のほとんどには存在しない独特の雰囲気があった。ブラウンストーン造りの大きな六階建てのビルには、展示室や授業用の部屋の他にも、画家や彫刻家や音楽教師用のスタジオがたくさんあった。昼と夜のクラスがあって、この当時でも学生は多かった。西部人の魂が、ある程度、芸術のすばらしさに刺激されて燃え上がった。大衆の生活に、こういうものはほとんど存在しなかった……この分野で物事を成し遂げて、より洗練された環境で生活できる人たちの名声は大きかった。パリへ行こう! どこでもいいからその街の立派なアトリエで門下生になろう! あるいはミュンヘンやローマで、ヨーロッパの芸術の宝庫の特徴を知ろう……芸術の都で暮らそう……そうすれば何とかなる。教育を受けていない大勢の若い男女の胸には、平凡な階級から抜け出したいという野生的な願望と言ってもいいものがあった。この当時想定されていた芸術的気質の特徴や装いを身につけたがり、洗練された、半分憂いで、半分無関心という態度をとって、アトリエで生活し、普通の人とは一致しない道徳観や気質で一定の自由を持ちたがった……そうすることや、そうであることは、すばらしいことだった。もちろん、芸術品の創作はこの一部だった。最終的には名画を描くとか、立派な彫刻を作らねばなるまいが、その間は芸術家らしい生活が送れるのであり、送ればいいのだ。そしてこれは美しくて、素晴らしくて、自由だった。


ユージンはずっとこれを何となく感じていた。シカゴにアトリエがいくつもあることを知っていた。一定の人たちはいい仕事をしていると思われた……ユージンはそれを新聞で見ていた。時々展覧会が話題になり、ほとんどが無料なのに、市民はほんのわずかしか参加しなかった。一度、何かの目的で西部に来ていたロシアの偉大な画家のヴェレシチャーギンの戦争画展があった。ユージンはある日曜日の午後にそれを見て、戦争の要素の捉え方のすばらしさに心を奪われた。見事な色彩、リアルな人物、ドラマ性、示されたすべての周囲に、その中に、それを通して、とにかく存在する力強さ、危険、恐怖、苦しみが感じられた。この画家は力強さと洞察力、すばらしい想像力と気質を備えていた。こういう作品はどうやって作り出されたのだろう、と考えながらユージンは立ったままじっと見つめた。それからというもの、ヴェレシチャーギンの名前は彼の想像力を掻き立てる大きな声になった。もしもお前が画家になるつもりならそういう画家になりたまえ、と。


一度、別の絵がこの地にやって来た。元々その魅力の根幹は芸術性だったが、彼の本質の別の面をくすぐった。それは、大胆な裸体の描写で彼の時代を驚かせたフランスの画家ブグローのすばらしい温かみのある淡い色合いの裸体画だった。彼が描くタイプは、強さと情熱をうまく紡ぎ出した、いやに感傷的な小柄でスリムな体型の女性ではなく、首や腕や胴体や腰や太腿の官能的な輪郭が、青年の血を熱く燃やすのに十分なほど立派に成熟した女性だった。この男は明らかに理解していて、情熱、形への愛、欲望への愛、美しさへの愛を持っていた。彼は背景に新妻のベッドを意識して、母性と、うれしそうに授乳している太った育ち盛りの赤ん坊を描いた。こういう女性たちが、目に欲望をやんわりにじませてさそい、豊満な唇を開き、頬を健康の血潮で赤く染めて、持ち前の美しさと魅力を大きく際立たせた。だから、保守的で清教徒的な考えを持つ者や、激しい気性の宗教家や、訓練の期間中か愛好家で慎重な者には毛嫌いされた。売り物としてこの絵をシカゴに持ち込めば物議を醸すのに十分だった。こういう絵は描かれるべきではない、描かれても展示されるべきではない、が新聞の論調だった。ブグローは自分の才能で世の中の道徳を腐敗させようしている卑劣な画家の一人だと多くの人に思われた。そんなものの公開は禁止されるべきだという声があがった。こういう特別な階級が反対の声をあげるといつもそうなるように、一般大衆の関心が呼び覚まされた。


ユージンもこの議論に注目した者の一人だった。彼はブグローの絵どころか、実は他の画家の独創的な裸体画も見たことがなかった。いつもは三時を過ぎると暇なので、こういうものを見に行く余裕があった。いい服装で仕事をするできるとわかったので、毎日一番いいスーツを着るようになっていた。ユージンは厳粛な雰囲気を持つ、かなり見栄えのいい若者だった。だから、どんな画廊で何かを見せてほしいと要求しても、全然驚かれなかっただろう。まるで知的で芸術のわかる階級に属しているように見えた。


二十歳そこそこのこんな若造がどんな歓迎を受けるのかわからなかったが、それでも思い切ってブグローが展示されている画廊に立ち寄って、その絵を見たいと頼んだ。担当の係員は好奇の目で彼を見たが、濃い赤が垂れ込めた奥の空間に案内した。赤いブラシ天で覆われた個室の天井に設置された白熱電球をパッと灯して、カーテンを引き、絵を見せてくれた。ユージンはこういう姿も表情も見たことがなかった。それは夢に見た美しさだった……彼の理想が実現したのだ。顔と首、後頭部にまとめられた茶色い官能的な髪のやわらかそうな塊り、花のような唇とやわらかい頬をじっくり観察した。胸と腹部が暗示するものに彼は驚いた。その母性に潜むものは男性にとって熱く燃える炎だった。ユージンは夢を見ながら、贅沢な気分で、何時間でもそこに立っていられただろう。しかし彼を数分、絵のところに置き去りにした係員が戻って来た。


「これはいくらするんですか?」ユージンは尋ねた。


「一万ドルです」という答えが帰ってきた。


ユージンは厳かに微笑み、「すばらしい作品だ」と言い残してその場を後にした。係員は照明を消した。


この絵はヴェレシチャーギンの絵と同様に、彼に強烈な印象を与えた。不思議なことに、ユージンはこういう絵を描きたいという憧れは抱かなかった。それを見て喜んだだけだった。これはユージンに、彼の現在の女性の理想像……肉体的な美しさ……を伝えた。ユージンは、自分を好意的に見てくれる人を見つけたいと心から願った。


彼の印象に残った展覧会は他にもあった……本物のレンブラントを展示するものもあった……しかし、こうやって、はっきりと彼の心を揺さぶったものは何もなかった。彼の芸術への関心はどんどん高まっていた。そのすべてを解明したかった……自分でも何かをしたかった。ある日、思い切ってアートスクールの校舎を訪ねて事務員に相談したところ、科目の内訳を説明してくれた。相手が実務と事務に長けた女性だったので、授業が十月から五月まであることや、写生か古代美術のクラス、あるいは当時は古代美術だけが勧められたが両方とも受講できることや、さまざまな時代の衣装をさまざまなモデルが着てくれるイラストのクラスを受講できることを学んだ。ユージンは会う必要はなかったが、クラスごとに注目すべきインストラクターがいることを知った。クラスごとに指導係がいた。どの学生も自分のためになるように真面目に取り組むのが建前だった。ユージンは教室を見ることはできなかったが、そこの全体的な優雅さは感じ取れた。廊下や事務室は優雅に装飾がほどこされ、腕や脚、胸、腿、頭などの石膏の像がたくさんあった。まるで扉を開け放った入口に立って新しい世界を眺めるみたいだった。ありがたいことにイラストの授業でペン画か筆画を学ぶことができた。それに写生クラスのデッサンで夕方の時間帯を割り当てれば、追加負担なしで毎日午後五時から六時までスケッチのクラスを受講できた。渡された印刷の入学案内を見て、写生クラスではヌードモデル……男女両方……が使われると知って少し驚いた。ユージンは今、確実に別の世界に近づいていた。それは必要で自然なことに思えたが、それでもそれには近づきがたい雰囲気があった。才能を持つ者だけがそこへ立ち入りを許される聖堂の奥の聖域を思わせた。自分には才能があるのだろうか? 待ってろよ! たとえ世間知らずなお上りさんだったとしても、いずれ世界に自分の存在を示すつもりだった。


彼が入ることにしたクラスは、一つは月水金の夜七時に実習室の一つに集まって十時まで授業が続く写生のクラスと、もう一つは毎日午後五時から六時まで開かれるスケッチのクラスだった。ユージンは人体や解剖学的構造をあまりというか全然知らなかったので、それをもっと勉強した方がいいと感じた。コスチュームやイラストは後回しにしなければならない。大好きな風景画というか都市の風景画は、絵の基礎を多少学ぶまで延期してもいいかもしれない。


細密画や大きなシーンの細部の描写を除くと、ユージンはこれまであまり顔や人物のデッサンを試みたことがなかった。今、彼は生きている人間の頭部や体を木炭でスケッチする必要に迫られて、少し怖気づいていた。他の男子学生十五人から二十人と一緒に一つのクラスになることを知った。彼がやっていることをみんなが見てコメントできるのだ。週に二回、インストラクターが回ってきて彼の作品を評価してくれる。毎月一番優秀な作品を描いた学生には特典があることを案内書で知った。すなわち、新しいポーズが始まるたびにモデルを囲む席を最初に選ぶことができた。クラスのインストラクターはアメリカの美術界でもかなりの大物に違いないと思った。何しろNA、つまり国立アカデミー会員だった。彼はこの名誉が、ある方面でどれほど軽蔑的に受けとめられるのかをよく知らなかった。さもなければ、これをそれほど重視しなかっただろう。


十月のある月曜日の夕方、入学の手引きで購入を求められていた画用紙数枚を用意して絵を描き始めた。明るく照らされた廊下や教室を見て少し緊張した。若い男女が群がって動いていたが、彼の不安を和らげてくれそうもなかった。このクラスの個々のメンバーの特徴である陽気さ、決意、肩のこらない礼儀正しさにすぐに注意が移った。男子は好奇心旺盛で、たくましく、ほとんどがハンサムであり、女子は上品で、かなり威勢がよくて、自信に満ちていた。気になった一、二名が悪い意味で美しかった。ここはすばらしい世界だった。


数ある教室も他に例を見ないものだった。教室は古い使い込まれたもので、壁はパレットからこすり落とされた絵の具の塗り重ねで完全に覆われていた。イーゼルや他の道具がないのに、椅子と小さな腰掛けだけがあった……ユージンが教わったところでは、椅子はひっくり返してイーゼルにされ、腰掛けは学生が坐るためのものだった。部屋の中央には、モデルがポーズをとるための普通のテーブルほどの高さの台があり、片隅には更衣室になるついたてがあった。絵も彫像もなかった……何もないただの壁があった……しかし、なぜか片隅にはピアノがあった。廊下や大きな休憩所には裸体画や、ありとあらゆるポーズをとっている人体のパーツがあった。未熟な若者の考え方でユージンはそれらを扇情的だと思った。こっそり見て喜んだが、思ったことを何も口にしてはいけないと感じた。画学生は、こういう扇情的なものに対して平然としている……こういう欲望を超越している……ように見えるに違いない、とユージンは確信していた。ここには絵を描くために来たのであって、女性にうつつを抜かしに来たのではなかった。


クラスの集合時間が来ても、方々でちょこちょこ動き回って学生同士で話し合いが続いていた。やがて気づいてみれば、男子は男子の部屋、女子は女子の部屋にいた。ユージンは、自分の部屋にいた若い娘が、ついたての近くで起き上がって、ぼんやりと周囲を見回すのを目にした。少しアイルランド系の面影がある、黒髪で黒い目をしたかわいい娘だった。ポーランドの民族衣装の髪飾りを模した帽子をかぶり、赤いケープをまとっていた。ユージンは、このクラスのモデルだろうと思い込み、本当にこの娘のヌード姿を拝むことになるのだろうかと密かに考えた。数分後に学生全員が集められた。三十六歳くらいのかなり活発で絵に描いたような男がぶらりと入室すると、教室がざわざわした。男は教室の前方に歩いて行って、静粛にするようクラスに求めた。グレーのツイードのみすぼらしいスーツを着て、片耳にかぶさるようにだらしなく小さな茶色の帽子をかぶり、取ろうともしなかった。カラーやネクタイを着けずに、柔らかい青のヒッコリー・シャツを着ていて、かなりのうぬぼれ屋に見えた。背が高く、痩せた、骨ばった体で、顔は細長く、目はでかくてぱっちりしていて、口は大きくて真一文字に結んでいた。大きな手足をしている割に、よろめくような歩き方をした。ユージンは直感的にこれが国立アカデミーのテンプル・ボイル先生、このクラスのインストラクターだろうと思った。何らかの最初の挨拶があるのだと想像した。しかしインストラクターは、ウィリアム・レイ氏が指導係に任命されたことと、騒いだり時間を無駄にしたりしないよう願います、と言っただけだった。指導係が批評する日が定期的にある……水曜日と金曜日だった。生徒の一人一人がめきめき上達することを願った。いよいよ授業が始まるのだ。それから男は歩き出した。


ユージンはすぐに学生の一人から、今のが本当にボイル先生だと教わった。アイルランド人の若い娘はついたての陰に行ってしまった。ユージンは自分が座っている場所から、娘が服を脱いでいる様子を部分的に見ることができた。少し衝撃を受けたが、他にも大勢人がいたから、勇気を出して平然としていた。他の人がするのを見よう見まねで、椅子をひっくり返して腰掛けに座った。木炭は傍らの小さな箱の中にあった。画板に紙を乗せて伸ばし、できるだけ平らになるよういじくり回した。学生の数名がしゃべっていた。突然、娘が薄いガーゼのシャツを脱ぎ捨てるのを目にした。次の瞬間、娘は裸のまま平然と出てきて台に上り、両腕を横、頭を後ろにそらして、直立不動の姿勢をとった。ユージンは興奮し、顔を赤らめ、娘を直視するのが怖いほどだった。それから木炭を一本とり、頼りなくスケッチを始め、この人物とこのポースの何かを紙に伝えようとした。自分がしていること……この教室にいること、この娘がこういうポーズを取っているのを見ること、要するに画学生であること……が、すばらしいことに思えた。これはまさしく、彼がこれまで知っていたどんな物ともまったく違う世界だった。そして、ユージンはその一員になろうと自ら名乗りを上げたのだった。





第七章



ユージンが初めて実家に帰ったのは、アートスクールに入る決心をした後のことだった。たった百マイルしか離れていなかったのに、クリスマスでさえ戻ろうという気になったことがなかった。今なら発表するだけの明確なことがあるように思えた。ユージンは画家になるつもりだった。仕事に関してはあそこで順調にやっていた。ミッチリー氏は彼を気に入ったようだった。回収分と未回収分の請求書を持参して毎日ミッチリー氏に報告したからだ。ミッチリー氏によって、回収分が現金と照らし合わされて、未払いの請求書が確認された。たまにはユージンもミスを犯した。多過ぎることもあれば少な過ぎることもあった。『多過ぎ』はいつも『少な過ぎ』で相殺されたので差額はほとんど生じず、ユージンが金銭問題で不祥事をしでかす兆候は何もなかった。欲しいものをたくさん思いついても、時間をかけて合法的に手に入れることで十分満足していた。ミッチリーが気に入ったのは彼のこういう特徴だった。もしかしたらユージンは商業に進めばものになれるかもしれないと考えた。


九月の第一月曜日、街中が休日となるレイバーデー前の金曜日の夜、彼は出発した。仕事を終えて土曜日に発ち日曜日と月曜日を休もうと思っていることをミッチリー氏に話したところ、何なら土曜日の仕事を木曜日と金曜日に振り分けて金曜日の晩に発ってもいい、と申し出てくれた。


「どうせ、土曜日は半ドンなんだ」彼は言った。「そうすれば自宅で三日過ごせる。それでいて仕事も遅れない」


ユージンは雇い主にお礼を言ってお言葉に甘えた。持っている服の中で一番いいものを鞄につめて、どんなものを見つけるのだろうと考えながら帰省した。すべてが違っていた! ステラはいなかった。彼の若さゆえの素朴さはなくなっていた。ユージンは多少の将来性がある都会人として里帰りすることができた。彼は自分がどれほど子供じみて見えるか……どれほど空想家なのか……どれほど世の中が高く評価する厳しい現実的な判断からかけ離れているか……全くわかっていなかった。


列車がアレキサンドリアに到着すると、父親とマートルとシルヴィアが駅で彼を出迎えた……シルヴィアは二歳になる息子を連れていた。みんなはユージン用に席をひとつ空けて自家用の馬車で来ていた。ユージンは家族に温かく挨拶して、自分の容姿に対する褒め言葉をふさわしい謙虚な気持ちで受けとめた。


「お前、大きくなったなあ」父親は叫んだ。「いまに背高ノッポになるぞ、ユージン。父さんは、お前の成長が止まってしまったんじゃないかって心配してたんだ」


「伸びてたのに気づきませんでしたよ」ユージンは言った。


「まあ、ほんとね」マートルが口を挟んだ。「あなたはずいぶん大きくなったわよ、ジーン。そのせいで少し細くなったように見えるわ。健康で丈夫になった?」


「そうなるのも当然さ」ユージンは笑った。「一日にだいたい十五から二十マイルは歩くんだ。ずっと外に出っぱなしだよ。もし今、丈夫にならなければずっとなることはないね」


シルヴィアは弟に『胃の不調』について尋ねた。ユージンはほぼ同じ話をした。良くなった思うこともあれば悪くなったと思うこともあった。医者は朝お湯を飲むように勧めたが、ユージンはそれを好まなかった。ものを飲むのがとても大変だった。


話や質問をしているうちに、家の正面の門にたどり着くと、ウィトラ夫人が玄関から出てきた。ユージンは深い夕闇の中に母親の姿を見つけると、前輪を飛び越えて会いに駆け寄った。


「小さなお母さん」と叫んだ。「僕がこんなに早く戻ってくるなんて思ってなかったでしょ?」


「こんなに早くね」母親は我が子の首に両腕を回し、それから抱きしめてしばらくそのままでいた。「大きくなったわね」母親は息子を解放するときに言った。


ユージンは古い居間に入って見回した。全く同じだった……何の変化もなかった。同じ本、同じテーブル、同じ椅子があり、同じ滑車灯が天井の中央からぶらさがっていた。客間、寝室、キッチンにも新しいものは何もなかった。母親は少し年をとったように見えた……父親はそうでもなかった。シルヴィアは大きく変わっていた……以前ふっくらしていたのに比べて顔が少し『やつれて』いた。母親になったせいだと思った。マートルは少し落ち着いた感じになって、幸せそうだった。今は本命の『決まった相手』がいた。フランク・バングスという地元の家具工場の工場長だった。とても若くて、二枚目で、いつか裕福になるだろうとみんなが思っていた。大きな馬の一頭『オールド・ビル』は売られていた。二匹いたコリーの片方のローバーは死んでいた。猫のジェイクは夜どこかで喧嘩をして殺されてしまった。


ユージンはキッチンに立ち、母親が我が子の里帰りの記念に大きなステーキを揚げたり、ビスケットやグレービーソースを作る様子を眺めていて、何だか自分はもうこの世界に属していない気がした。ここは以前思っていたよりも小さくて狭かった。通りを通過する時に町が前よりも小さくなったように見えた。民家もそうだった。それでもすばらしかった。庭はのどかで素朴だが、ひなびていた。ミシンの仕事をしている父親がやたらと小さく見えた。田舎というか、ちっぽけな町の視点で物事を考える人だった。家にピアノがなかったというも今考えてみるとおかしな話だった。しかもマートルは音楽が好きだったのに。ユージン自身も、自分は音楽が大好きなのがわかった。火曜日と金曜日の午後にシカゴの中央音楽ホールでオルガンの演奏会があった。仕事が終わってからなんとか聴きに行ったことがあった。スウィング教授、H・W・トーマス師、F・W・ガンサウルス師、サルタス教授のような立派な説教師がいた。いずれもリベラルな思想家で、街での彼らの市民向け礼拝にはいつもすてきな音楽がつきものだった。人生を探求したり孤独を避けようとしているうちに、ユージンはこういう人たちや彼らの活動を見つけた。彼の古い世界が世界でも何でもないないことを、もう彼らが彼に教えていた。ここは小さな町だった。もう二度とここへ来ることはないだろう。


かつての自分の部屋で一晩熟睡してから翌日〈アピール社〉のケーレブ・ウィリアムズ氏、バージェス氏、ジョナス・ライル、ジョン・サマーズに会いに行った。行く途中、郡庁舎広場でエド・ミッチェル、ジョージ・タップス、ウィル・グローニガー、その他学校時代の知り合い四、五名に会い、彼らから近況報告を受けた。ジョージ・アンダーソンは地元の娘と結婚してシカゴに行き、倉庫で働いているらしかった。エド・ウォーターベリーはサンフランシスコへ行ってしまった。かわいいサンプソン娘のベッシー・サンプソンは、一時テッド・マーチンウッドと大層いい仲だったのに、インディアナのアンダーソンから来た男と駆け落ちした。その時はその話題でもちきりだった。ユージンは聞く側にまわった。


しかし、どれも彼が足を踏み入れた新しい世界ほどではないように思えた。この中の誰も、今彼の頭に押し寄せている未来図を知らなかった。彼にもパリやニューヨークが、どれだけ遠いかよくわからなかった。そして、ウィル・グローニガーは二つある駅の片方の荷物係になり、それが自慢だった。やれやれ! 


〈アピール社〉のオフィスには変化がなかった。何となくユージンは、二年の歳月は多くのものを変えるだろう、と感じていたが、変わったのは彼の中だけだった。激変を遂げたのは彼だった。ストーブ磨き、不動産屋の下働き、配達員、取り立て屋を経験した。マーガレット・ダフ、クリーニング屋のレッドウッド氏、ミッチリー氏と出会った。大都市というものがわかり始めた。ヴェレシチャーギンを知り、ブグローを知り、アートスクールに入った。彼は彼のペースで進み、町は町のペースで進んでいた……ゆっくりしているが、これまでとまったく同じ速度だった。


ケーレブ・ウィリアムズは健在だった。昔と同じように跳び回っていた。愉快で、話好きで、関心を示してくれた。「よく戻ってきたね、ユージン」彼は言った。片方のいい目はユージンに釘づけで涙ぐんだ。「順調そうでうれしいよ……おめでとう。画家になるんだってな? まあ、それがきみには向いていると思うよ。すべての若者にシカゴ行きを勧めるつもりはないが、きみの居場所はあそこなんだ。女房と三人の子供のことがなかったら、私だってあそこを離れなかったさ。きみも女房や家族を持ったら……」ウィリアムズは話をやめて首を振った。「いいか! 全力でやらないとだめだからな」それからウィリアムズは行方不明の原稿を探しに行った。


ジョナス・ライルは相変わらず恰幅が良く、無気力で、冷静だった。問いただすような真面目な目でユージンを迎えて「で、どんな調子だい?」と尋ねた。


ユージンは微笑んだ。「まあ、かなり順調です」


「植字工にはならないのか、え?」


「ええ、ならないと思います」


「まあ、いいってことさ、植字工なんかいくらでもいるからな」


話をしていると、ジョン・サマーズがそばに来た。


「元気でやってますか、ウィトラさん」と尋ねた。


ユージンは相手を見た。ジョンは近いうちに死ぬのが確実だと思われた。前よりも痩せこけ、青白い灰色で、両方の肩が落ちていた。


「ええ、元気ですよ、サマーズさん」ユージンは言った。


「こっちはあまり元気じゃないんだ」老いた植字工は言った。思わせぶりに胸をたたいた。「ここがやられちまってな」


「自分で信じてないくせに」ライルは口を挟んだ。「ジョンはいつも暗いんだ。相変わらず元気なのにな。あと二十年は生きるって俺が保証するよ」


「無理だ、無理」サマーズは首を振りながら言った。「自分でわかるさ」


少しすると、いつも飲むときの言い訳にする『通りの向こうに行く』ために出て行った。


「もう一年はもつまいな」ドアが閉まったとたんにライルが言った。「彼を追い出したら面子に関わるからバージェスが置いてるだけだ。だが、もうだめさ」


「誰が見てもわかる」ユージンは言った。「ひどそうですものね」


そんな話が続いた。


正午にユージンは帰宅した。今夜、自分とバングスと一緒にパーティーに行くんだからね、とマートルは言った。ゲームと簡単な食事があるらしい。こんな町でも、行動を共にする若い男女の間にダンスがまったくなかったとか、音楽がほとんどなかったとまではユージンでも思わなかった。ここの人たちはピアノを持っていなかった……少なくとも数台は限られていた。


夕食後にバングス氏が立ち寄り、三人は典型的な小さな町のパーティーに繰り出した。参加者の年齢がかなり高い大きな点を除けば、かつてユージンがステラと参加したものと大して変わらなかった。若いうちの二年は大きな差を生じさせる。約二十二名の若い男女が、三つのかなり大きな部屋とポーチに詰めかけた。そこに通じる窓とドアは開け放たれていた。外では草が茶色くなり秋の花々が咲いていた。気の早いコオロギが鳴き、季節はずれのホタルがいた。暖かくて気持ちがよかった。


打ち解けようとする最初の努力は少しぎこちなかった。周囲では自己紹介が始まって、町のおしゃれな人たちの間で気の利いた冗談が盛んに交わされた。何しろそのほとんどがこの場にいたからだ。新顔が……ユージンがいなくなってから他の町から引っ越してきたか、成人の仲間入りをした若い娘たちが……たくさんいた。


「僕と結婚してくれたら、マッジ、すてきな新品のアザラシ皮のイヤリングを買ってあげるよ」若者のひとりが言うのが聞こえた。


ユージンは微笑んだ。その娘は笑い返した。「彼ったらいつも自分が気が利いていると思ってるのよ」


ユージンは最初の様子見気分を打ち破ることがほとんどできなかった。これは社交を楽しむあらゆる面で彼の行動を妨げた。批判されるのを恐れて少し神経質になった。うぬぼれと計り知れない利己主義が原因だった。気の利いた話題を一つ二つ用意して盛り上げようと突っ立っていた。そろそろ始めようとした矢先に若い女の子が一人部屋から部屋へ移動した。ユージンはその女と面識はなかった。将来義理の兄になるバングスと一緒にいて愛想よく楽しそうに笑っていた。その様子がユージンの注意を引いた。白いドレスを着ているのが目にとまった。キツネ色のリボンがドレスの裾の縁飾りの上の輪っかに一本通されていた。髪はすてきな灰色を帯びた黄色でかなり豊富だった……額と耳の上で大きく太く編んであった。鼻筋が通っていて、唇は薄くて赤く、頬骨がかすかだが妙に目についた。何となく彼女には独特な雰囲気があった……ユージンにはわからない個性のかすかな香りがした。それが彼には魅力的だった。


彼女を連れて来たのはバングスだった。引き締まった笑顔の青年で、樫の木のように健全で、真水のように澄んでいた。


「こちらはブルーさんだ、ユージン。ウィスコンシンの出身で、時折シカゴへも行くそうだ。きみが知り合いになっておくといいとお話したところなんだ。いつか向こうでばったり出くわすかもしれないからね」


「でも、それにはよほどの幸運がないとね?」ユージンは微笑んだ。「知り合いになれて光栄です。ウィスコンシンのどちらの出身なんですか?」


「ブラックウッドです」彼女は緑がかった青い目をくりくりさせて笑った。


「髪はイエロー、目はブルー、出身はブラックウッドだ」バングスは言った。「どうだい?」歯並びのいい大きな口に笑みが広がった。


「名前のブルーとドレスのホワイトを忘れてますよ。ずっと白い服を着ていないといけませんね」


「まあ、名前まで入っているのね?」彼女は叫んだ。「自宅にいるときは大体白い服を着ているわ。ご覧のとおり、ただの田舎娘だから、自分のものはほとんど自分で作るのよ」


「それを自分で作ったんですか?」ユージンは尋ねた。


「もちろんよ」


バングスは少し離れて品評でもするかのように女を眺めて、「へえ、ほんと、かわいいな」と言った。


「バングスさんたら、お上手なんだから」彼女はユージンに微笑みかけた。「何を言っても本気じゃないのよね。言ったそばから違うことを言うんですもの」


「正しいことを言ってますよ」ユージンは言った。「ドレスについては賛成です。髪にとてもよく似合ってますから」


「ほおーら、こいつも参っちゃった」バングスは笑った。「みんなそうなっちゃいますよ。それじゃ、私はお二人を置いて失礼します。戻らないといけないんです。きみの姉さんをライバルの手もとに置いてきたものでね」


ユージンはこの娘の方を向いて、控えめに笑った。「自分はどうなるんだろうって、ちょうど考えていたところなんですよ。二年離れていたもので、知り合いの何人かは行方がわからなくなってました」


「私の方が、もっとひどいわ。ここに来てまだ二週間しか経っていないから、知り合いがほとんどいないのよ。キング夫人がどこにでも連れ出してくれるんだけど、新しいことばかりで覚えきれないわ。アレキサンドリアはすてきだと思います」


「いいところですよ。湖には行ったんでしょ?」


「はい。釣りをして、ボートを漕いで、キャンプをしました。すてきな時間を過ごしたけど、明日は帰らなくてはなりません」


「あなたもですか?」ユージンは言った。「へえ、僕もなんですよ。四時十五分の列車に乗る予定です」


「まあ、私もよ!」彼女は笑った。「もしかしたら一緒に帰れるかもしれませんね」


「ええ、きっと。こいつはいいや。てっきり、ひとりで帰らなければならないと思ってましたから。日曜日を挟んで来ただけなんですよ。僕はシカゴで働いています」


二人は互いに生い立ちを語り始めた。彼女はシカゴからわずか八十五マイルしか離れていないブラックウッドの出身で、生まれてからずっとそこに住んでいた。兄弟と姉妹が何人かいた。父親は農家とか政治家とかいろんなことをやったようだった。ユージンはばらばらの話をよせ集めて、貧しいけど評判のいい人たちに違いないと思った。話によると、義理の兄弟が銀行家で、他に穀物倉庫のオーナーがいて、彼女自身はブラックウッドの学校の教師を……数年……やっていた。


ユージンは気づかなかったが、彼女は彼よりも五歳も年上で、機転が利き、大きな年齢差が生む年長者の強みがあった。彼女は学校で教えることにうんざりし、結婚した姉妹の赤ん坊の面倒をみることにうんざりし、理想とする結婚適齢期が急速に過ぎていくときに、仕事に追われて自宅にとどまっていることにうんざりしていた。有能な人間ばかりに目がいって、愚かな村の若者には魅力を感じなかった。このとき彼女には求婚してくる相手がいたが、ブラックウッドに住むつまらない人で、実際彼女にふさわしくはなく、満足に人を養うことができなかった。彼女は希望を持ち、悲観し、ぼんやりし、気が変になるほど、もっといいことがないかと待ち望んでいたが、まだ何も好転したものはなかった。このユージンとの出会いだって、彼女に出口を約束するものではなかった。あせって探してはいなかったし……自分の意識をねじ曲げるような紹介はしなかった。しかしこの青年は、彼女が最近出会った誰よりも彼女にとって魅力的なものをもっていた。二人は明らかに共感し合っているようだった。彼女は、ユージンの澄んだ大きな目、黒い髪、かなり青白い顔色が気に入った。ユージンは彼女が知り得た以上に良く見えたので、彼女はユージンが自分にとっていい相手になればいいと願った。





第八章



ユージンは夕方の残り時間をミス・ブルーと、正確には一緒にではなく、その近くで過ごした……女性の名前はミス・アンジェラ・ブルーだと判明した。アンジェラは十分に魅力的だったが、ユージンが彼女に興味を持ったのは、見た目のせいではなく、美味しい味が口に残るような、彼に残った気質の何かの独特さのせいだった。ユージンはアンジェラを若いと思った。そして、彼女の純真で洗練されていない、と彼が考えたものに魅了された。実際には若くて洗練されていないというより、彼女は無意識に無邪気さを模倣した。従来の感覚からすればアンジェラは徹底した良い子だった。誠実で、お金に几帳面で、平凡なすべての物事に正直に向き合い、その上、結婚と子育てをすべて女性の運命であり義務であると考える点で徹底して高潔だった。他人の子供で散々苦労してきたので、自分の子供を持ちたく、いや、少なくとも大勢持ちたくなかった。もちろん、幸運に思えたものを手にして自分が漏れ落ちることになろうとは信じなかった。自分も姉たちのように、いい仕事か職業をもつ男性の妻、元気な子供を三人か四人か五人かかえた母親、理想的な中流階級の主婦、夫の要求を満たす侍女になるものだと想像した。アンジェラの中には、決して満たされないと感じるようになっていた情熱の深層の流れがあった。どんな男性にも、少なくとも彼女が出会いそうな男性には、理解できないだろう。しかし自分には愛する大きな能力があることをアンジェラは知っていた。もし誰かがやって来て、それを呼び起しさえすれば……それに値するなら……彼女は熱烈な愛情を相手にお返しするだろう! 彼女はどんな愛し方をして、どんな犠牲を払うのだろう! しかし今のところ彼女の夢は絶対に叶わぬ運命のようだった。あまりに多くの時間が経ち過ぎていたし、ふさわしい相手に求愛されたことがなかった。こうして今、二十五歳になっても、夢を見て憧れを抱き続けていた……自分の理想の相手が偶然目の前に現れたが、これがそうだとはすぐに意識しなかった。


当事者同士がいったん引き合わされてしまえば、性的な親睦が生じるまでに時間はかからない。ユージンの方がある種の知識では年長者であり、ある意味では幅が広く、この先彼女の理解が及ばないほど潜在的な大きさがあった。それでも感情と欲望には、なすすべもなく振り回された。彼女自身の感情は、おそらく彼のものより強かったかもしれないが、違った形で呼び起こされた。星、夜、すてきな風景、自然のどんな美しい姿も、しんみりさせるほどユージンを魅了することができたのに、アンジェラと一緒だと、自然がその特徴を全開にしているのに、ほとんど見過ごしにされた。ユージンと同じで彼女も多感に音楽に反応した。ユージンは文学だとリアリズムにしか魅力を感じなかった。アンジェラの方は、必ずしも非現実的というわけではないが、わざとらしい涙もろいものに最も惹かれた。純粋に審美的な意味での芸術はアンジェラには何の意味もなかった。ユージンにとって、それは感情を理解するにあたって決定的なものだった。アンジェラは、歴史、哲学、論理学、心理学には見向きもしなかった。それらはユージンにとってはすでに開かれた扉であり、いや、もっといいもので、自らさまよう楽しい花咲く道だった。こういう事実があったにもかかわらず、二人は互いに惹かれ合っていた。


そして他にも違いがあった。伝統的な価値観はユージンには何の意味もなかった。善悪に対する彼の感覚は、常人の理解が及ぶものではなかった。ユージンはあらゆる種類と状況の人間……知的な人、無知な人、清潔な人、不潔な人、陽気な人、悲観的な人、白人、黄色人種、黒人……を好きになりやすかった。アンジェラは一定の道徳的な規範に従って行動する人をはっきりと識別して好んだ。最も一生懸命働き、最も自制心があって、善悪の普通の考え方に一致する人が一番いい人だ、と考えるように育てられた。アンジェラの考えでは現行の基準に何の疑問もなかった。それは律法の社会と倫理の記述のように、存在していた。社会の常識を外れた魅力的な人間は存在するかもしれないが、彼らでは付き合いうことも共感を得る余地もなかった。ユージンとって、人間は人間だった。彼は、大勢の落ちこぼれや、あぶれ者と一緒になって、あるいはその立場になって、楽しく笑うことができた。それが、すばらしく、気分がよく、愉快だった。時には相手がひどく彼を傷つけたりしたが、その嫌な思いや悲劇さえ価値があった。こういう状況だったのに、どうしてユージンがこんなに徹底的にアンジェラに惹かれてしまったのかは謎のままだ。おそらく、このとき彼らは、衛星がより大きな発光体を補うように、互いに補い合っていた……ユージンの利己主義は、称賛と、同情と、女性の甘やかしを求め、アンジェラは彼の気質の温厚さと優しさに誘われて火がついた。


次の日の列車でユージンは、アンジェラととても楽しい話ができた思えた約三時間を過ごした。遠くまで行かないうちから、ユージンは自分が二年前のこの時間にこの列車でどんな旅立ちをしたか、寝る場所を探し求めてどんなふうに大都市の通りを歩き回り、自分を見つけたと感じるまでどんなふうに仕事をして、遠ざかっていたか、をアンジェラに語っていた。今は絵の勉強をして、それからニューヨークかパリへ行き、雑誌のイラストを描いて、多分絵を描くつもりだった。語り始めた時……本当に共感して話を聞いてくれる人を持った時……ユージンはまさに才能を持つ華麗な若者だった。ユージンは自分を本当に褒めてくれる人に自慢するのが大好きで、ここでも褒められていると感じた。アンジェラは目をきらきらさせて彼を見た。ユージンは、彼女がこれまでに知っていた誰ともまったく違っていて、若くて、芸術がわかり、想像力が豊かで、野心家だった。彼は、彼女があこがれていたがまさか目にするとは思わなかった世界……絵の世界……へ乗り出そうとしていた。その彼がここで、これからやろうとしている絵の勉強について話し、パリについて語っていた。何てすばらしいことだろう! 


列車がシカゴに近づいてくるとアンジェラは、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール鉄道のブラックウッド行きの列車にすぐに乗らなくてはならないと説明した。夏休みが終わって、学校に戻る予定だったので、少し寂しかった。実を言うと、少し心を病んでいた。キング夫人(かつてブラックウッドにいた学生時代の友人)を訪ねて二週間滞在したが、アレキサンドリアはすばらしかった。少女時代の友人が、いろんなことが最も楽しくなるように気遣ってくれたのに、もう全てが終わってしまった。ユージンともお別れだ。彼は再会について何も言ってくれなかった。いや、今まで口にしなかった。彼が鮮やかな色彩で描くこの世界をもっと見られたらいい、とアンジェラが願っていたところへ、ユージンが言った。


「バングスさんが言ってましたけど、あなたは時々シカゴに来るんですか?」


「行きます」アンジェラは答えた。「時々劇場とか買い物に行きます」そこに現実的な家計の実利主義の要素が存在することは言わなかった。アンジェラは家族一の買い物上手と思われていたから、大量の買い物をするために家族のさまざまなメンバーからお使いに出された。家事の切り盛りという点でアンジェラは優秀であり、姉妹や友人たちからそういうことをするのが大好き人だと重宝された。彼女はただ働くことが大好きだったから、家族の駄馬の役まわりをするようになっただけかもしれない。やる以上は何事も徹底的にやる性分だった。しかしアンジェラはほとんど家事という小さなことしかやらなかった。


「次はいつ頃来ることになりますか?」ユージンは尋ねた。


「うーん、わからないわ。冬にオペラが上映されると時々行きますけど。感謝祭の頃になるかもしれません」


「その前は無理ですか?」


「無理だと思います」アンジェラはおちゃめに答えた。


「それは残念だ。この秋に二、三回会えると思ってました。来るときに知らせていただけるといいんですけどね。ぜび、劇場へお連れしたい」


ユージンはどんな娯楽にもほとんどお金を使わなかったが、ここは思い切って使ってもいいと考えた。彼女はちょくちょく来るわけではないのだ。それに、近いうちに昇給があるかもしれないと考えていた……そうなると事情は変わってくる。彼女が再びやって来る頃にはアートスクールで別の分野を自力で開拓しているだろう。人生が希望に満ちているように見えた。


「そう言ってもらえるとうれしいわ」アンジェラは答えた。「じゃ、行くときはお知らせします。私なんてただの田舎娘ですよ」ひょいっと頭を上げて付け加えた。「あまり都会に出ることなんてないんです」


ユージンは、告白がずる賢くなくばか正直だと彼が考えたもの……素朴で貧乏だと自分で認めてしまう彼女の率直さ……を気に入った。ほとんどの女の子はそんなことをしないのに。アンジェラはこういうことまで長所にしてしまった……少なくともこれらは彼女の告白としては魅力的だった。


「それ、守ってくださいね」ユージンは彼女に念を押した。


「心配は無用よ。お知らせするのを楽しみにしてますから」


駅が近づいてきた。ユージンは、彼女がステラほど美しさにおいて遠い存在でも繊細でもないことや、明らかにマーガレットほど情熱的な気質ではないことをいっとき忘れた。不思議なほど冴えない髪と、薄い唇、独特な青い目を見て、正直で飾らないところがいいと思った。ユージンは彼女の旅行鞄をひろいあげて彼女が列車を探すのを手伝った。別れ際にユージンは優しく手を握った。アンジェラはユージンにとても親切で、とても気を遣い、気が合い、関心を持ってくれた。


「じゃあ、忘れないでくださいね!」アンジェラを普通列車の席に座らせてからユージンは明るく言った。


「忘れません」


「時々手紙を書いても構いませんか?」


「いいわよ。楽しみにしてるわ」


「じゃあ、そうします」ユージンはそう言って外に出た。


外に立って、列車が走り出す間、窓越しにアンジェラを見送った。ユージンは彼女に出会ってうれしかった。清潔で、正直で、素朴で、魅力的な、理想の女性だった。これこそが最高の女性のあり方だった……よく出来た清純な人……マーガレットのような火の野性的な要素も、ステラのような無意識で冷淡な美しさもなかった。ユージンは付け加えようとしたができなかった。美しさにおいてステラは完璧であるという声が彼の中にあって、思い出すと今でも少しつらかった。しかしステラは永久にいなくなった。これについては疑いの余地がなかった。


それから数日、ユージンはこの娘のことばかり考えた。ブラックウッドってどんな町だろう、彼女はどんな人たちと過ごしているんだろう、どんな家に住んでいるんだろう、そんなことばかり考えた。きっとアレキサンドリアの彼の家族のような、親切で素朴な人たちに違いない。彼が見た都会育ちの人たち……特に若い娘たち……と、裕福な家庭に生まれた人たちに、ユージンはまだ魅力を感じなかった。彼らは、彼が望めるものからあまりにも遠くて、かけ離れ過ぎていた。ミス・ブルーのようなよく出来た女性は、世界中のどこにいても明らかに、きっと宝物に違いなかった。ユージンはアンジェラに手紙を書こうと思い続けた……このとき彼には他に女性の知り合いが一人もいなかった。そしてアートスクールに入る直前にこれを実行した。楽しかった列車の旅を思い出します、いつ頃いらっしゃいますか、とちょっとした手紙を書いた。一週後の返信に、十月の中頃か下旬にシカゴに行こうと思います、連絡を楽しみにしています、とあった。ノース・サイドに住むオハイオ・ストリートの叔母の連絡先を教えて、また連絡すると言ってきた。彼女は今、学校で一生懸命働いていて、自分が過ごしたすてきな夏のことを考える余裕さえなかった。


「かわいそうな()だ」ユージンは思った。彼女ならもっといい運命に巡り合ってもいいものを。「彼女が来たら、きっと会いに行こう」ユージンは思った。これには思うところが多かった。すてきな髪だったよな!


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