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ヒロインになろうか!(1)

 犬を散歩させている中年女性がすれ違いざまに声をかけてきた。

「おはようございます」

「おはよう、ござい、ます」

 真夜は息を切らせながら、どうにか挨拶を返した。

「がんばってねー」

 背後からの声援に対して、真夜は走る速度を落として振り返り、笑顔で中年女性に会釈した。彼女の連れているコーギーと目が合う。応援されたのだと思うことにしよう。真夜は再び前を向き、速度を上げた。

 真夜は朝の住宅街をジャージ姿で走っている。ついこの間までは考えられなかったことだ。土曜日の朝なんて、九時過ぎまでごろごろしているのがお決まりのパターンだった。

 事務所に正式に所属した先月から、真夜の生活リズムは劇的に変わった。まず、デビューまでの準備としてダンスのレッスンとボイストレーニングにそれぞれ週三回通うことになった。平日は学校の後で毎日スタジオに行ったうえで、土日もどちらか一方は必ずレッスンを受ける計算になる。

 社長の浦戸の要求はそれだけではなかった。

「話を聞いていると、神村くんは運動不足のようだね」

「ええ、スポーツが苦手というわけではないんですけど、体力はあまり……」

「じゃ走ってもらおうか、毎日。デビュー前の今のうちに基礎体力をつけておかないと後々困るぞ」

 有無を言わさぬ口調だった。真夜としてもその必要性は理解できるので、言われた通りに毎朝近所を走るようにしている。

 肩で息をしながら、真夜は自宅のマンションに帰り着いた。三月に入って暖かくなってきたこともあり、顔も体も汗だくだ。二月頭に事務所に入り、浦戸の指示で走り始めてから約一ヶ月が経っている。当初、家に辿り着く頃にはふらふらして倒れそうになっていたことを思えば、多少は体力がついたことが実感できる。走るコースを変えて、距離を伸ばしてもいいかもしれない、と思う。


「ただいまー」

 マンションの七階にある自宅へ戻ると、母が出迎えてくれた。

「お疲れ、真夜。今日は昼から事務所に行くんだっけ?」

「うん、どういう活動をしていくかみんなで話し合うの。大事な打ち合わせだよ」

「そんな日くらい、走るのお休みしても良かったんじゃないの?」

「毎日走るって決めたから」

「そういうものなの?」

 真夜の母……神村ユーディットの口調はのんびりしていたが、心配してくれているのはわかる。

 ドイツで生まれ育った母・ユーディットはおっとりした性格で優しく、真夜自身はきつく叱られた記憶など無いが、一度だけ鬼のような形相をした母を見たことがある。『天使の学園』での騒動の後、芸能界の仕事を辞めたいと言い出した真夜を引き留めるために、当時真夜が所属していた事務所の人間が自宅へ押しかけて来たときだ。せっかくドラマでブレイクしたのだからなんとしても芸能活動を続けるべきだ、と真夜と両親への説得を試みる事務所スタッフに対して母は、

「うちの子はあんたたちの道具じゃないんだよ。汚らわしい言動をこれ以上真夜の目と耳に入れないでもらえますか。娘の前から消えてください。今すぐ、永遠に」

 と静かに怒りながらドイツ語で言った(普段は日本語で話すが感情が高ぶるとドイツ語が出るらしい)。言葉は通じなかっただろうが、事務所の人間はその迫力に圧倒されて退散していった。隣で見ていた真夜としては嬉しくもあったが、心底恐ろしくもあった。

 母は美しい金髪と青い瞳をしている。怒っていた顔を思い出すと、吸血鬼に見えなくもない……気がする。となると、その容姿を受け継いだ自分もそう見えるのだろうか。

「じゃあ、シャワー浴びて一休みしたら、事務所行ってくるね」

「ええ」

 母はニコニコしている。その様子からは、真夜の芸能活動に反対はしていないとしか思えない。真夜が浦戸に事務所に入りたいと伝えた後、すぐに浦戸たちが自宅に来て両親へ挨拶したときも、母は意外なほど何も言わなかった。『天使の学園』のことがあったから、浦戸に釘を刺すくらいのことはするかと思っていたのだが。

「ねえ、ママ。……ママはどう思ってるの、私がアイドルになるってこと」

 ズバッと質問してみることにした。

「ええっ? 今聞いちゃう? そういうこと」

「うん。今日の打ち合わせで社長さんたちと大事なことを話し合うからさ、ママの気持ちも聞いておきたいなって」

「そうねえ……。あの社長さんは前の事務所の人よりは信用できそうだけど……それでもやっぱり心配よ、本音を言えば」

 でもね、と母は続ける。

「ママが賛成とか反対とか、大事なのはそこじゃなくてね。大事なのは、真夜が本当にやりたいことをやるのであれば、ママもパパも絶対に真夜の味方だってことよ」


「いいお母さんじゃないっすかあ! ……むぐむぐ」

 ハンバーガーにむしゃぶりつきながら、真夜の話を聞いた流歌が言った。

「食べるのかしゃべるのかどちらかにしろ。口からぽろぽろこぼれている」

「すいませんっ」

 フランに注意されて、流歌が素直に勢いよく謝る。

「ははは……」

 真夜は苦笑した。一ヶ月ともにレッスンを受けるうち、すっかり慣れっこになった光景だった。

 三人は赤坂駅前のハンバーガー店で昼食をとっていた。流歌の呼びかけで、駅で集合して一緒に食事を済ませてから事務所に向かうことになったのだ。

 事務所に入ってから、三人は随分親しくなったと真夜は思う。やはり、ともにきついレッスンを受けるうちに連帯感が出てきたのかもしれない。レッスン後には、毎回ではないが三人で食事やちょっとした買い物に行くようになった。

 遊びに行く際の言いだしっぺは、もっぱら最年少の流歌だった。デビューしたらますます忙しくなるかもしれないし、なにより顔が売れてしまったら人目につきやすい場所に揃って行くことは難しくなるだろう。だからみんなで気軽に遊びに行けるのは今のうちなのだ……というのが流歌の主張だ。デビューしてもすぐに人気になることはないだろう、と真夜は冷静に考えているのだが、遊びに行くこと自体は楽しいので黙っていた。

 この一ヶ月、雑談の中である程度お互いの考え方や趣味についての理解も進んだが、あまり触れられない話題もあった。家族のことだ。流歌やフランの家族について、真夜はいまだに詳しく聞いていない。自分の母親の話題が出たこともあり、真夜は少しつっこんでみることにした。

「フランちゃんのご家族は? どんな感じなの?」

「フランはお父様とお母様と一緒に暮らしている」

 『お父様』『お母様』ときた。

「兄弟はいないんだ?」

「…………一応、そうなる」

 なんだろう、今の間は。

 フランは謎が多い。本名が塩田芙蘭しおたふらんだということは以前教えてもらったが、本人は「一応、本名と言うことにしている。フランの本当の名前はフランだ」と言っていた。……よく意味がわからない。

 フランが人造人間だということについても、具体的にどういうことなのか真夜は聞かされていなかった。流歌もよく知らないらしい。五〇〇円玉を指で折り曲げた怪力を見れば普通の人間ではないということは理解できる。『人造人間』というからには文字通り『造られた』人間なのだろうか。

 社長の浦戸は事情を熟知しているらしいが「デビューするまでには、フランの了解を得たうえで教えるよ」と言っていた。……気になるが、急いで踏み込まない方が良いのだろう。

「ルカちゃんは? 今は社長のお宅で暮らしてるんだよね」

 真夜は流歌に話を振ってみた。

 長野から上京してきている流歌は、浦戸の家に世話になっているのだ。

「そうっすよ」

「実家はどんな感じなの?」

「父ちゃんと、母ちゃんと、ばあちゃんと、兄ちゃんと、弟が二人いますねー」

「けっこう多いねえ。でも、やっぱり実家を離れるのってさびしくないのかな」

 言ってから、しまったと思った。さびしいのは当たり前じゃないか。流歌は真夜より二つも年下の、中学二年生なのだ。だが、流歌の反応は予想と違っていた。

「あっはっは、ないっすないっす! むしろ家を出られてせいせいしたっす!」

 ぶんぶんと手を振り、笑ってそう言った。

「まあ、弟たちはかわいいから流石にちょっとさびしいですけど。父ちゃん母ちゃんとはいろいろありまして。今は社長と奥さんを親だと思ってるっすよ。お子さんがいないこともあって、自分のことを子どもみたいにかわいがってくれますし」

「そうなんだ……」

 地雷を踏んだかと思ったが、流歌が気を遣って明るい素振りをしてくれているのか。あまり急いで距離を詰めるわけにもいかないけれども、これから一緒に頑張っていく仲間なのだからお互いのことをよく知っておきたいという気持ちもある。

(難しいな……)

 ちょっと反省。

「そうそう真夜さん、社長といえば、今日の打ち合わせでマネージャーになってくれる人を連れてきてくれるっておっしゃってましたよ」

 流歌が強引に話題を変えてきた。

「マネージャーを? どんな人なのかな。男の人だとか、女の人だとか、聞いてる?」

「いやー、全然教えてくれなかったっす。仕事はできるからその点は安心してくれっておっしゃってましたけど」

 仕事はできるから安心してくれということは……裏を返せば他の点で何か問題があるという意味ではないだろうか。真夜は少し心配になった。


『デミヒューマン』の事務所は赤坂に立つビルの五階に入っている。昼食を終えて事務所へ向かった三人を出迎えてくれたのは、白井ふぶきだった。

「ごめんなさい、社長はちょっと外に出ているんです。あなたたちのマネージャーになる人と一緒に来るはずなんだけど……」

 ふぶきは申し訳なさそうに言った。白井ふぶきは特定のタレントを担当するマネージャーではなく、『デミヒューマン』の事務の大部分をこなしているという。社長である浦戸の秘書のような役割も担っているようだ。

 真夜はふぶきの年齢を知らないが、二〇代半ばに見える。かと思えば、真夜とそう変わらない歳に思えるときもあるし、三〇歳以上のような雰囲気を感じるときもある。浦戸に対して敬語を使いつつもズバズバと物を言っているし、謎の多い女性だと思う。

「とりあえず、先に会議室に入って待ってもらってていいですか?」

「オッケーっす!」

 流歌の元気のいい返事を聞くとふぶきは微笑んで、

「さっきいらっしゃったゲストの方も、会議室で待っていますから。お話されていたらどうでしょう」

「ゲスト?」

 三人は顔を見合わせた。


 会議室と言っても事務所の中にある部屋なので、せいぜい十五人程度しか入れない小さなものだ。テーブルが口の字の形に配置されている中、三人がよく知る女性が椅子に座り雑誌を読んでいた。

羽後うご先生!」

 会議室のドアを開けた真夜は驚きの声をあげた。

「おおー。来たね、君たち」

 小柄なボブカットの女性が三人に気が付き、右手を上げた。羽後なお美は、三人のボイストレーニングを担当している講師だ。二月の初めから、発声の基礎や歌唱法、それ以前のストレッチ等にいたるまで、熱心に指導してくれている。

 羽後なお美の本業は声優だ。事務所に所属せずフリーで活動しているが、ボイストレーニングの講師も副業として行っているのである。

「なんで先生が会議室にいらっしゃるんですか?」

「なんだかねー、浦戸社長に呼ばれたんだよね。アドバイザーの一人として会議に出てもらえないかって。こういうのは、事務所外の人間の視点があったほうがいいんだってさ」

 流歌の問いに、羽後は笑顔で答えた。

「それと、あなたたちの講師としてだけじゃなく、声優としてもアドバイス欲しいんだってさ。あなたたちのキャラ作りのことがあるからだろうね」

 真夜はこれから吸血鬼という『設定』でアイドルデビューすることになる。それほどアニメに詳しいわけではない真夜でも、羽後が過去に出演した作品は見たことがあった。実力ある演者であることはよくわかっている。確かに羽後のアドバイスは参考になるかもしれない。

「それは……ありがたいです!」

 真夜は素直に気持ちを口に出した。羽後は嬉しそうに、

「いえいえ、あたしで出来ることなら手伝わせてもらいますよ」

 その時、浦戸が会議室に入ってきた。

「いやー、遅れてすまん!」

 謝罪を兼ねた挨拶を大声でしてくる。

「おはようございます」

「おはようございます!」

「ああ、申し訳ない申し訳ない、君たち。羽後さんも!」

「ええ。今日はよろしくお願いしますね、社長」

 挨拶している間に、ノートパソコンを脇に抱えた白井ふぶきもやってくる。さらに続けて、スーツ姿の見知らぬ若い男性が入室してきた。……もしかして、この男性がマネージャーだろうか。

「まあまあ、適当に座っちゃってくれたまえ。ざっくばらんにいこう」

 浦戸に促され、真夜たち三人は隣り合った席に固まって着席した。見知らぬ若い男性は、浦戸の隣に座っている。真夜は男性を観察した。普通の若手サラリーマン、といった印象を受ける。年齢は二〇代半ばか後半といったところだろうか。整った顔立ちをしている。それにしても、どこかで見たことがあるような顔をしている……。一瞬悩んだが、その疑問は浦戸の言葉によってすぐに解消された。

「みんな、彼のことが気になるようだね。まあ彼だけが初顔合わせになるからね。そりゃ気になるだろう。紹介しよう、今日から神村くんたちの担当マネージャーとして働いてもらうことになる浦戸史郎(しろう)だ。私の甥っ子だよ」

 甥っ子! 見たことがあるも何も、隣によく似た顔がいたのだ。言われてみれば、浦戸を二〇歳若返らせれば確かにこうかも……と思える。

 浦戸史郎は伯父に紹介されると、椅子から立ち上がった。

「浦戸史郎です……。本日から神村真夜さん、フランさん、森山流歌さんを担当させていただくことになりました……。よろしくお願いします……」

 緊張している様子はないが、覇気が一切無いボソボソとした声だった。よろしくお願いします、と三人揃って挨拶を返しながら、きっと三人とも同じことを考えているんだろうな、と真夜は思った。

 浦戸史郎は、伯父である浦戸賢一郎によく似ているが……暗い。圧倒的に暗い。元気が服を着て歩いているような伯父とのテンションの差が激しすぎる。

(この人がマネージャーで大丈夫かな……)

 真夜は急に不安になってきた。が、今更どうしようもない。落ち着かない気分のまま、三人のデビューに向けての打ち合わせが始まった。

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