青春のいじわる(1)
豚だ。豚がいる。
目の前に座る男を見て、来栖蛍はそう思った。
「いやあ、やっと会ってくれて嬉しいよ、来栖蛍さん。しばらく見ないうちに、成長したねえ。すっかり美人さんになっちゃって」
男は制服に身を包んだ蛍の全身を舐め回す様に観察してくる。
「……ありがとうございます」
蛍は長い黒髪をかきあげ、不快感をなるべく表に出さないよう意識しながら礼を言った。
まるまると太った眼鏡の中年男は馴れ馴れしく話しかけてくるが、蛍とは初対面だ。だが、この男……冬月悟は蛍のことをよく知っている。そして蛍もまた、冬月のことをよく知っている。お互いにテレビを通して、だ。
来栖蛍は小学生時代、子役として忙しい日々を送っていた。ブレイクのきっかけは四年生の時に出演したチョコレートのテレビCMだった。いったん人気に火がつくと、次々と仕事が回ってくるのが芸能界だ。ドラマに映画にバラエティに、蛍は引っ張りだこになった。周囲は天才子役ともてはやしたが、蛍は冷静だった。
(私はかわいいし実力もある。が、この成功はそこへさらに幸運が重なった結果に過ぎない。いつまでもこの状況が続くはずがない。大衆は飽きっぽいから)
この子どもらしからぬ冷めた思考は、選挙で当選と落選を繰り返す父の様子を見聞きしてきたことに起因するのかもしれない……と蛍は自らを分析している。
六年生の時にはついにテレビドラマで初主演を果たした。ドラマは大きな話題を呼び成功を収めたが、同時に蛍は自らの人気のかげりも敏感に察知した。
(この人気も今がピーク。後は落ちるだけだ、きっと。だったら、鮮やかに引退しよう。人生は長い。芸能界で顔と名前を売ったことをせいぜい利用してやる)
小学校の卒業とともに、蛍は学業への専念を理由に芸能界を引退した。もともと蛍は女優志望などでは無いのだ。別に芸能界に嫌気が差したわけではないが、もっと大きな夢がある……。
「開愁高校で生徒会の副会長やってるんだってねえ。すごいねえ。ゆくゆくは生徒会長の座も狙ってるのかな」
「……そうなるかもしれませんね」
「ふうん。開愁の生徒会長なんていったら、もうエリートコース一直線じゃない。学業への専念を理由に引退した時は嘘だと思ったけど、本当に勉強してたんだねえ。素晴らしい」
冬月はひたすら蛍をおだててくる。別に悪い気はしないが、さっさと話を終わらせたい蛍としては苛立ちも感じていた。
冬月悟は作詞家・放送作家として以前から知られている人物である。一方で、近年ではアイドルグループ『3×3CROSS』のプロデューサーとしての活動が目立っている。その冬月が蛍に接触を求めてきたのは、二週間ほど前のことだった。以前蛍が所属していた事務所から情報を入手するのは、冬月ほどの大物からすると造作も無いことなのだろう。
どうせ芸能界復帰の話を持ちかけてくるのだろうということは想像がついた。蛍にその気は全く無いが、冬月があまりにしつこいので両親に相談したところ、一度は会って話を聞くだけ聞いてやったうえで断ってはどうかと提案されたのだった。それも、蛍が自らの口できっぱりと断ることが重要だという。そうすれば、相手もあきらめがつくだろうというのだ。
蛍は学校の許可を得たうえで、冬月と会う場所を蛍が通う高校の生徒会室に設定した。いわば蛍のホームグラウンドだ。相手は芸能界の表も裏も知り尽くした化け物のような男だが、これで雰囲気に流されることはないだろう。
蛍と向き合って座る冬月は蛍をまっすぐ見つめたまま、
「早く本題に入れって顔をしてるね、蛍ちゃん」
当たり前だろうがこの豚! 勝手にちゃん付けするな気持ち悪い! ……と心の中で冬月を罵倒しながら、
「ええ、お願いします」
蛍はにこやかに言った。
「……どうか、君の力を『3×3CROSS』に貸していただきたい。新メンバーとして加わってほしいんだ」
ある意味では日本の芸能界を象徴する人物が、蛍に頭を下げている。その事実に蛍は快感を覚えた。だが、今の蛍には芸能界に復帰する気などさらさら無い。
「そんなことだろうと思っていました。申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「即答だねえ。厳しいなあ」
冬月は落ち込む様子も見せず、ニヤニヤしている。
「もう少し話を聞いてくれないかな。今、人気メンバーが続けざまに卒業しちゃって大変なんだ、『3×3CROSS』も。ここらで新しい刺激が欲しい。実力、経験、ルックス、知名度、すべてを兼ね備えた君になんとしてもメンバーに加わって欲しいのさ」
「評価していただいているのはありがたいですが、芸能界を離れた私には関係の無いことですよ。もう興味もありませんし。……あきらめて、お帰りいただけませんか」
蛍は微笑をキープしたまま冬月を追い返そうとした。だが、冬月は席を立たない。
「興味が無い、か。他にやりたいことでもあるのかな?」
しつこいぞ、豚が。とっと豚小屋へ帰れ。蛍は舌打ちを我慢しながら、、
「あったとしても、あなたに言う必要がありません」
「ああ、その通り。その通りさ。僕に言う必要なんて無い。なぜなら……僕は君の夢をすでに知っているからね」
「……?」
(何を言ってるんだ、この豚)
蛍が怪訝な顔をすると、冬月は楽しそうに言った。
「言い当ててみせようか。……女性初の内閣総理大臣」
「……っ!?」
「ぶははははっ、いい表情だ。いい表情だよ、蛍ちゃん。さっきまでの作り物の顔とは違う。素の表情だ」
冬月が巨体を揺らして笑う。
(こ、この豚……)
蛍は動揺を抑えるのに必死だった。人生の大目標を周囲に語ったことなど、数えるほどしかない。それも、確か幼稚園児の頃ではなかったか。蛍の夢はその頃から現在に至るまで変わっていない。だが公言すると反応がいちいちうるさいことがわかってきたので、小学校に入学した頃から家族にも話していない。まして芸能界で活動していた時期には、どんなインタビューでも決して漏らしていない。
なのに、何故この男は知っている?
「不思議そうだね。今もいろいろ考えているようだ。お父上が国会議員で、その一人娘だということは知ってるだろうから当てずっぽう言っただけじゃないか……とか。本当に幼い頃は周囲に話したことがあるから、それを調べたんじゃないか……とか。でも、どちらも違う。いたってシンプルな理由だ」
冬月は勝ち誇った顔で言った。
「僕はね、他人の心が読めるんだよ」
「……」
「あ、信じてないね。さっきから僕のことを豚だなんだと心の中で罵ってくれちゃってるのも、お見通しなんだよ」
「……!」
「まあ、そんなのは慣れっこだから、今さら何とも思わないけどね」
冬月は一転して無表情で蛍を見つめている。
心を読める? そんな馬鹿な。だが、そう考えたほうが整合性がある。いや、そもそも……冬月が心を読めるということが真実だろうが出まかせだろうが、それがどうした。
蛍は早くも落ち着き始めていた。冷静に状況を判断し、現在重要なことについてだけ考えればいいのだ。
「冬月さんが他人の心を読めて、私の夢をご存知だとして……それが私がアイドルをやらないといけない理由にはなりませんよ」
「そう、そりゃそうだ。さすが、頭が回るね」
冬月は再び笑顔になった。
「でも政治家になると言ったって蛍ちゃんがお父上の地盤を引き継ぐのは、早くとも三〇代になってからでしょう。当然それまでは社会経験を積むことを考えているんだろうけどね、アイドルを選択肢に入れてくれてもいいじゃないの。かつての人気子役ってだけよりも、アイドルとしてさらにもう一度大衆にアピールしておいても損は無いと思わないかい? 政治の勉強はその後からでもできるでしょ、君の頭脳なら」
一理はあるかもしれない、と蛍は思った。だが、今このタイミングでわざわざ芸能界へ復帰するメリットは無いだろう。
「私は高校二年生です。来年は大学受験ですよ。勉強時間を削ってまでアイドルをやりたくはないです」
「そうだね。当然の答えだ。でも、これから僕が伝える情報を聞いても、その答えは変わらないかな?」
「……情報って、なんですか」
いちいちもったいつけるな、豚が。
「はっはっは、心を読むという話を聞いてもまだ豚と罵るんだ! すごいね! じゃあ教えてあげるよ。……神村真夜ちゃんが、アイドルとして再デビューするらしい」
蛍は思わず立ち上がった。椅子がガタンという音を立てて床に転がったが、気にもならない。
「お、これまでに無い反応だね」
冬月は嬉しそうに、
「彼女に対する思いはなかなか複雑みたいだね。六年生の時に、満を持して主演したテレビドラマ『天使の学園』。世間でも話題になり大成功したが、その話題の中心は主演の君では無く、いじめっ子役の神村真夜ちゃんだった。完全に彼女に食われた格好だ。しかし、彼女は一部の悪質なバッシングに傷付き、とっとと芸能界を去った。それから程なくして、君も引退したんだね。君からすれば、勝ち逃げされたような意識があるのかな?」
蛍は冬月を見下ろした。芸能界に長年巣食う化け物と目が合う。
「どうだろう。もう一度、真夜ちゃんと同じ土俵で戦ってみる気はないかな? もちろん、勝つためのサポートは惜しまないよ」
蛍は椅子に座る冬月を見下ろしたまま言った。
「……詳しい話を聞かせてもらえますか」
蛍は常に上から見下ろす側の人間でなければならない。相手が冬月であっても、大衆であっても、神村真夜であっても、だ。




