外伝第1話:無糖峰の視点:透明な背中
本編で描かれた、一万円札・佐藤駆の奇妙で切ない旅路。
その裏側で、かつての宿敵であり、唯一無二の存在だった「無糖峰」は何を思い、どんな日々を送っていたのか。
常に周囲から天才ともてはやされながらも、心にぽっかりと穴が空いていた冷徹なエリートの視点から描く、外伝第1話。
それでは、外伝第1話「無糖峰の視点:透明な背中」の本編をどうぞ!
無糖峰にとって、佐藤駆という存在はいつだって予測不能のノイズだった。
勉強をすれば、一歩遅れて必ず食らいついてくる。スポーツで圧倒的な差を見せつけても、翌日には新しいアザを作って同じ土俵に立とうとする。
周囲の人間は無糖のことを「天才」と持てはやし、何でも完璧にこなす人間だと評した。
無糖自身はその評価に冷ややかな醒めた目を向けていた。生まれ持った記憶力や効率的な思考回路は、ただの「初期ステータス」に過ぎない。この世界の不条理なルールの中で、効率よく立ち回っているだけのハリボテの優等生。
そんな無糖の仮面を、いつも剥ぎ取りそうになるのは、隣の席で必死に鉛筆を走らせる駆の「熱量」だった。
お前は、なぜそこまで必死になれるのか。
恵まれた環境に胡坐をかいているだけの自分とは違い、三件のバイトを掛け持ちし、すり減ったスニーカーで泥臭く生きる駆の背中は、無糖にとって眩しすぎると同時に、奇妙な劣等感を抱かせるものだった。
――だが、その背中は、ある朝突然に消えた。
「佐藤くんが、事故で……」
学校の教室に流れたその知らせを聞いたとき、無糖の頭の中は真っ白になった。
葬儀の席で、母親の泣き崩れる姿を見た。棺の中に眠る駆の顔は、いつも授業中に眠気をこらえていたあの顔のまま、あまりにも静かだった。
涙は出なかった。ただ、胸の奥にぽっかりと、二度と埋まらない大きな穴が空いたような、強烈な喪失感だけが残った。
あいつはいつも、自分の数歩後ろを走っていた。
いつか追いついてこいよ、と言葉に出さずともそう思っていたのに、あいつは勝手に、二度と追いつけない遠い場所へ行ってしまった。
それからの無糖の人生は、猛烈なスピードで加速していった。
駆の死をきっかけに、無糖はこの世界の構造的な理不尽さに鋭い怒りを抱くようになった。生まれついた環境の差で、努力する権利すら奪われる人間がいる。駆のような人間が、なぜこんな不条理なシステムに押しつぶされなければならないのか。
無糖は復讐するかのように勉強し、経済を学び、社会の仕組みの頂点へと這い上がるための道を突き進んだ。冷徹なエリート、感情のない天才――周囲がどう評そうと関係なかった。無糖の心にあったのは、かつて自分の背中を睨みつけていたあの熱い瞳への、ある種の「答え合わせ」だったからだ。
そして、数年の月日が流れた。
無糖は二十代半ばを迎え、社会を動かす立場の一人となっていた。
その日、いつものように高級車の後部座席で書類に目を通していた無糖は、ふと、愛用の特製革財布を取り出した。
取引先での支払いを済ませるため、財布を開き、中から現金を抜き取ろうとしたときだった。
――ざわ、と。
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
何気なく手にした一万円札。
その表面に描かれた福沢諭吉の肖像画の目が、ほんのわずかに、こちらを見据えたような気がしたのだ。
気のせいだ、と頭では理解している。科学的に、紙幣に意識があるはずがない。だが、その一万円札から発せられる手触り、微かなインクの匂い、そして言いようのない「熱量」は、無糖の記憶の底にある感覚と完全に一致していた。
(まさか……)
心臓がうるさいほどに鳴り響く。
無糖は自身の合理的な思考のすべてをかなぐり捨てて、その一万円札をじっと凝視した。
児童養護施設での寄付のときも、重要な契約のときも、そのお札はいつも自分の財布の特等席に収まっていた。肌身離さず持ち歩くうちに、無糖はそのお札がただの紙切れではないことを、本能で確信し始めていた。
あの日の事故の朝。
赤信号を見落とし、トラックに跳ね飛ばされた駆。
もしも、人間の魂というものが存在し、形を変えてこの世界を巡ることができるのだとしたら。
お前は、人間の欲望の泥水をすすり、この世界の裏も表もすべて見た上で、最後に俺のところへ戻ってきたのか――?
車が地下駐車場に滑り込み、エンジンが切れる。
無糖がノートを広げたとき、ふわりと一万円札が滑り落ち、かつて駆が残した落書きの文字の上に重なった。
――『いつか、追いついてこいよ』
その文字を見た瞬間、無糖の目から、熱いものがこぼれ落ちた。
泣くまいとどれだけ強がっても、どれだけ冷徹なエリートを演じ続けても、心の奥底にあった少年の日の感情が、一瞬で決壊した。
両手でその一万円札を包み込み、胸に引き寄せる。
冷たいはずの紙幣の束は、驚くほど温かかった。
「……遅いんだよ、駆」
車の静寂の中で、無糖は誰にも見せない子供のような顔で、そう呟いた。
勝てなかった。最後まで、あいつの生き様の泥臭さには追いつけなかった。
だが、このいちばん遠い場所で、二人の少年は再び同じ教室の机を並べたように、静かに心を通わせていた。
冷徹な天才の仮面の下で、無糖の胸に確かな火が灯る。
お前が見てきたこの世界の痛みも、温もりも、すべてを背負って、俺はこの世界を変えてみせる。
財布の奥で、駆の気配が優しく応えたような気がした。
ふたりの旅路の終着点で、最強の幼馴染たちの本当の勝負は、ここから始まっていた。
外伝第1話「無糖峰の視点:透明な背中」をお読みいただき、ありがとうございました!
本編では語られなかった、無糖側の喪失感と、一万円札となった駆と再会した瞬間の内面を描きました。
次は外伝第2話「千円札の彼女:その後の空」をお届けします。どうぞお楽しみに!




