第1話:凡人、赤信号に散る
初めまして、あるいはこんにちは。
このたびは『凡人、一万円札になる。』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
本作は、「もしも死んだ人間が『一万円札』に転生したらどうなるのか?」というちょっと風変わりな着想から始まった物語です。
主人公の佐藤駆は、欲しいものも満足に買えず、いつも財布を空っぽにしながら必死に生き、そしてあっけなく死んでしまった少年です。そんな彼が、かつて自分が喉から手が出るほど欲しかった「お金」そのものになり、さまざまな人間の欲望、業、そして温もりに触れていく――そんなロードムービーのような、少し痛くて少し温かい人間ドラマを目指して執筆しました。
笑いあり、シリアスあり、そして幼馴染である無糖峰との因縁の行方あり。
紙切れとなった少年が、果てしない旅の果てに何を見るのか。最後までお付き合いいただければ幸いです。
それでは、第1話「凡人、赤信号に散る」の本編をお楽しみください!
佐藤駆、十七歳。
欲しいものは数え切れないほどあった。最新型のスニーカー、毎日のように買い食いするコンビニの新作スイーツ、友達が持っているワイヤレスイヤホン、そして何より、将来への安心感。しかし、現実の財布はいつだって薄っぺらく、中身は空っぽだった。
母子家庭の家計を支えるため、駆は放課後も休日もなく働き詰めていた。コンビニの深夜シフト、ファミレスのホール、そして早朝の新聞配達。三件のアルバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削って稼いだ金は、瞬く間に生活費や弟の学費へと消えていく。
「はあ……今日も眠い……」
早朝の冷たい空気を吸い込みながら、駆は自転車のペダルを踏みしめていた。
過酷な労働と勉強の両立。そんな生活の中で、駆の唯一にして最大のアイデンティティは「学年順位二位」という座だった。
だが、その誇りさえも、駆にとっては苦痛の源泉でしかなかった。
なぜなら、学年一位はいつだって無糖峰だったからだ。
無糖峰。幼馴染であり、幼稚園からの腐れ縁。
あいつは勉強をすれば全国模試のトップを余裕で掠め取り、たまに参加した部活の大会では運動部をごぼう抜きにして優勝し、顔を合わせれば女子生徒から黄色い歓声を浴びる。それだけではない。実家は太く、お年玉の額から持っているペンのブランドまで、何もかもが違った。
勉強も、スポーツも、恋も、そして金までも。
あらゆる勝負で、駆はあいつに勝ったためしがなかった。何をどう足掻いても、努力の物差しが違うと言わんばかりに、無糖はいつも数歩先を軽々と歩いていた。
「腹立たしいほどうらやましい、まったく……」
吐く息が白く白濁する。自転車のハンドルを握る手のひらは、連日のバイトでマメが潰れ、硬く荒れていた。
あいつのようになりたい。一度でいいから、あの涼しい顔をした無糖の奴に「参った」と言わせてみたい。
それが、駆のありふれた、そして切実な日常だった。
――その日の朝は、いつもと少しだけ違っていた。
前夜の深夜バイトが長引き、睡眠時間はわずか二時間。脳の奥が鉛のように重く、視界の端がチカチカと点滅していた。思考のスピードが著しく落ちているのを自覚しながらも、駆は朝の配達を急いでいた。締切時間に遅れれば、給料から天引きされてしまう。ただでさえ軽い財布が、さらに軽くなってしまうという恐怖が、疲労困憊の身体を無理やり動かしていた。
交差点に差し掛かる。
信号機は、赤色だった。
だが、疲労に蝕まれた駆の脳は、その「赤」を認識し損ねた。あるいは、脳内で別の計算――今日のシフトの穴埋めと、来週の参考書代のやり繰り――に意識が奪われていたのかもしれない。
ブレーキを握る指に、力が込められることはなかった。
突帯を抜ける風の音が変わった。
――ごうっ、と。
常軌を逸した巨大な質量が、視界の側面から猛烈な勢いで迫ってくる。
大型トラック。ドライバーの必死のクラクションが響き渡るよりも早く、鉄の塊は駆の自転車を跳ね飛ばした。
浮き上がる、身体。
世界がスローモーションのように引き伸ばされる。
宙を舞いながら、駆の目は青空を捉えた。どこまでも高く、どこまでも冷たい、どこにでもある秋の空だった。あぁ、綺麗だな、となぜか冷静に思った。テストの答案用紙の白さに似ているな、とも。
ドン、と鈍い衝撃が全身を貫いた。
工事現場の足場を組むための、無数の鉄筋が積み上げられた一角へ、駆の身体は投げ出された。
激痛が走るはずだった。意識が闇に落ちるはずだった。
しかしその瞬間、不運にも、積み上げられた鉄筋の最上部に無造作に置かれていた重い鉄のハンマー――トンカチが、不安定なバランスを崩して落下した。
ガツン、と。
人間の頭蓋骨が砕けるには十分すぎる硬質な音が、周囲の喧騒にかき消されるように響いた。
——死んだ。
あまりにも呆気なく、あっけなく。
十七年分の人生は、たった一つの見落としと、一本のトンカチによって、呆気なく幕を閉じた。
痛みは、不思議となかった。あるのは、すべての電源がプツリと切断されたような、途方もない静寂だけだった。
どれほどの時間が流れたのだろう。
秒なのか、何百年なのかもわからない。時間の概念が溶けて消えたような闇の中で、ふと、意識が浮上した。
「……れ?」
声を出そうとしたが、声帯の震えがない。そもそも、口も喉も、肺すら存在しない感覚だった。
あるのは、驚くほど平らで、薄い、奇妙な手触りだけだった。
視界のようなものが、ぼんやりと開ける。
自分の身体を見下ろそうとしたが、首も目玉もない。ただ、視界の端に、複雑な線の網目と、見慣れた、しかし絶対に自分のものではない「顔」が映り込んでいた。
――威厳に満ちた、ヒゲを生やした老人の顔。
見覚えがありすぎる。日本の通貨の最高峰、誰もが財布の奥底に大切にしまい、あるいは一刻も早く手放したくないと願う、あの肖像画だった。
「……は?」
言葉にならない思考が、平面的な頭脳の中を駆け巡る。
ここはどこだ。いや、それ以前に、俺はどこにいる?
身体が軽い。いや、軽いどころの話ではない。厚みがない。紙のように薄く、パリッとした質感の繊維の束になっている。微かに香るのは、真新しいインクと、何人もの人間の手を渡ってきた独特の匂い――手垢と、生活の匂いだった。
視野が、ふわりと持ち上がる。
誰かの指が、自分を摘み上げていた。
端っこがピンと張られ、世界が反転する。目の前に広がっていたのは、薄暗い部屋の天井ではなく、見慣れたコンビニエンスストアのレジスターの光景だった。
「はい、一万円のお預かりですね。お釣り九千円になります」
アルバイトの店員の声が、妙に響く。
自分の身体――いや、この「お札」は、レジのトレイの上に置かれ、そして他の数枚の千円札や五千円札と一緒に、ガサリと無造作にまとめられた。
嘘だろ。
死んだはずの佐藤駆は、トラックに跳ね飛ばされ、頭を打って死んだはずだった。
それなのに、今、俺は――。
一枚の一万円札になっていた。
福沢諭吉の肖像画の顔のまま、駆は呆然と(もちろん表情筋などないのだが、魂の底から)その事実を受け止めるしかなかった。
死後、天国に行くわけでも、地獄に落ちるわけでもなく、物質としての「お金」に成り果ててしまったらしい。
ひんやりとした空気の中、お札同士が擦れ合うカサカサという音が耳元(のような場所)で響く。
財布の狭い空間に押し込められ、真っ暗な闇が再び訪れる。
これから、どこへ行くのだろう。
何人もの人間の手を渡り、どこへ流されていくのだろう。
欲しいものは数え切れず、いつも財布が空っぽだった少年は、皮肉にも「その財布の中身そのもの」になって、底知れぬ旅の始まりを迎えていた。
十七年間の人生の終わりと、紙切れとしての果てしない旅路の境界線で、駆の新しい「生」が、音もなく動き出し始めていた。
第1話「凡人、赤信号に散る」をお読みいただき、ありがとうございました!
いかがでしたでしょうか。まさかの展開で一万円札(福沢諭吉)になってしまった駆。
これまでの人生では「金がない!」と頭を抱えていた彼が、今や自分が「金そのもの」として扱われるという、なんとも皮肉でシュールなスタートとなりました。
次回、第2話「最初の財布と、レジの温もり」では、初めて人間の財布に収まった駆が、コンビニを訪れる客たちのリアルな懐事情や、お金としての初めての「手ざわり」を体験していきます。果たして、彼の財布の持ち主はどんな人物なのか……?
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それでは、次回の第2話でお会いしましょう!




