魔王との朝食
――コンコン。
扉を叩く軽やかな音で、蓮はまどろみの中から引き戻された。
「蓮様。お目覚めでしょうか?」
柔らかな声に、蓮はゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井。
豪華な天蓋。
ふかふかの寝具。
暖炉の残り火。
数秒ぼんやりしたあと――。
「あ。」
昨日の記憶が一気によみがえった。
魔王。
異世界。
運命の人。
帰れないかもしれない現実。
「夢じゃなかった……。」
思わず顔を覆う。
夢であってほしかった。
心の底からそう思う。
「蓮様?」
再びノックが響く。
「あっ、はい! 起きてます!」
慌てて返事をすると、扉の向こうからくすりと笑う気配がした。
「朝食のご用意が整いました。ご案内いたしますね。」
「す、すぐ行きます!」
ベッドから飛び起きる。
昨夜は混乱したまま眠ってしまったが、こうして朝になると現実感が増してくる。
窓の外には見たことのない景色が広がっていた。
見たことのない草花。
遠くに見える巨大な森。
空を飛ぶ鳥のような影。
日本ではない。
どう見ても日本ではない。
蓮は小さくため息をついた。
「帰りたいなぁ……。」
呟いても状況は変わらない。
身支度を整え、扉を開けた。
そこにはミレーヌが立っていた。
「おはようございます、蓮様。」
「お、おはようございます。」
朝日に照らされたミレーヌは、昨夜以上に幻想的だった。
緑の髪は宝石のように輝き、淡い花の香りが漂う。
「よく眠れましたか?」
「それなりに……。」
正確には眠ったというより気絶したに近い。
ミレーヌは察したように微笑んだ。
「突然のことでしたものね。」
「はい……。」
蓮はミレーヌの後ろを歩き始める。
長い廊下には大きな窓が並んでいた。
外には城下町らしき景色も見える。
外を歩く人々は――。
「角……。」
「はい?」
「いや、角生えてるなって。」
窓の外には角のある人。
翼のある人。
尻尾のある人。
昨日は混乱していたが、改めて見ると本当に魔界らしい。
ミレーヌが楽しそうに笑った。
「魔族ですから。」
「ですよね。」
蓮は頭を抱えたくなった。
やがて大きな食堂へ案内された。
長いテーブル。
高い天井。
豪華な装飾。
まさに王城そのものだ。
そしてその奥には――。
「おはよう。」
レナトスが座っていた。
「うわっ!」
思わず声が出た。
「そんなに驚くか?」
「驚きますよ!」
昨日の衝撃がまだ抜けていないのだ。
レナトスは少し困ったように笑った。
「そうか。」
その反応が妙に普通で、蓮は逆に戸惑う。
もっと偉そうな人物だと思っていた。
しかし目の前の男は、どちらかというと不器用な上司のような雰囲気だった。
「座ってくれ。」
促されるまま席に着く。
すると次々と料理が運ばれてきた。
焼き立てのパンにスープ。
色鮮やかな果物。
香草の香る肉料理。
どれも美味しそうだ。
「……いただきます。」
恐る恐るスープを飲む。
「おいしい。」
思わず声が漏れた。
レナトスの表情が少しだけ柔らかくなる。
「それは良かった。」
「これ誰が作ってるんですか?」
「城の料理人だ。」
「すごい。」
純粋な感想だった。
しばらく食事を続けたあと、蓮は意を決して口を開いた。
「聞きたいことがあります。」
レナトスは頷く。
「何が聞きたい?」
「私、どうやったら帰れるんですか?」
空気が静かになった。
レナトスは少しだけ目を伏せる。
「帰る方法自体はある。」
蓮の顔が上がる。
「本当ですか!?」
「ああ。だが、ミレーヌから聞いた通りだ。」
「……数か月先。」
「星の位相が整う必要がある。」
蓮は肩を落とした。
やはり簡単ではないらしい。
レナトスは静かに続ける。
「それに、私は君にここにいてほしいと思っている。すまない。」
その謝罪は昨日と同じだった。
言葉だけではない。
本当に申し訳なく思っているように見える。
だからこそやりづらい。
「……謝られても困ります。」
「だろうな。」
「私、向こうの世界に仕事もあるんです。」
「教師だと言っていたな。」
「そう、私の教えを待っている生徒もいます。」
「そうだな。」
「無事に帰れても、怒られるかもしれません。」
「それは大変だ。その時は一緒に言い訳を考える。」
真面目に返されてしまい、蓮は思わず吹き出した。
「なんですか、それ。」
レナトスも少しだけ口元を緩めた。
食堂の空気がほんの少し和らぐ。
その時だった。
勢いよく扉が開いた。
「陛下ー!」
元気な声と共に飛び込んできたのは、小柄な少年だった。
頭には小さな角がある。
「あ。」
少年は蓮を見つけて固まった。
蓮も固まる。
数秒の沈黙。
そして。
「運命の人だーーー!!」
「やめろ。」
レナトスの低い声が飛んだ。
だが遅かった。
少年は目を輝かせている。
「本当にいた!」
「黙りなさい。」
「城中で噂になってます!」
「黙れ。」
「昨日の賭けも――」
「黙らぬか!」
三度目でようやく少年は口を閉じた。
蓮はゆっくりレナトスを見る。
レナトスは額を押さえていた。
ミレーヌがそっと顔を逸らした。
怪しい。
非常に怪しい。
蓮は半目になった。
「もしかして城中に広まってるんですか?」
誰も答えない。
沈黙が答えだった。
「うそでしょ……。」
頭を抱える。
異世界に来た翌朝。
知らない城。
知らない人たち。
そしてなぜか。
『魔王の運命の人』として有名になっていた。
「帰りたい……。」
思わず本音が漏れる。
するとレナトスが真顔で言った。
「努力はする。」
「何をですか。」
「噂の鎮静化だ。」
「こんなに広まってたら、もう無理でしょ!」
食堂に笑いが広がった。
蓮はため息をつきながらも、少しだけ思った。
昨日よりは、ほんの少しだけ。
この場所が怖くなくなっているかも。




