暴かれた面、示された理
空気がようやくほぐれ、各陣営がそれぞれの席で控えの間のように談話を始めていた。
それでも、互いに相手の一挙手一投足を警戒するような、薄氷の上の休息だった。
給仕たちが静かに動き出す。
蓮も銀盆に湯気の立つ茶を並べ、所作を乱さぬよう一歩一歩、第一皇子セリオンの席へと歩を進めた。
細身の体を包む黒衣、ヴェールの下から覗く視線を決して上げない。
――ただ、見つからぬように。
――ただ、給仕として、通り過ぎるだけに。
そう願った矢先だった。
「……お前。」
低く響いた声に、蓮の足が止まる。
トレイの上のカップがわずかに揺れた。
セリオンの紅の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
その瞳に宿るのは、明確な記憶。昨夜――歓迎の宴の席で、遠巻きに彼を見つめていた視線を思い出しているようだった。
「お前、昨夜のパーティーで俺を観てた奴だな。」
背筋が凍る。
蓮は即座に膝を折り、深く頭を垂れた。
「申し訳ありません。給仕係として、殿下方に不都合がないか注視しておりました。」
「ほぅ。」
セリオンがわずかに唇を吊り上げる。
「それにしては、熱い視線だったがな。……どんな面をしているのか確認したい。ヴェールを取れ。」
「滅相もございません。また、ヴェールを取るのは殿下に対して大変失礼になるかと存じます。」
「給仕の分際で、俺に逆らうのか。」
その声が鋭く低くなり、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
誰も口を挟めず、ただ見守るしかなかった。
蓮は唇を噛み、深く息を吸った。
「……畏まりました。」
指先が震える。
ヴェールの端をつまみ、ゆっくりと持ち上げる。
白布の下から現れたその顔を見た瞬間、セリオンの表情が変わった。
「……人間が、なぜここにいる。」
その言葉に、蓮の心臓が跳ねた。
逃げ場のない沈黙。
「それは……」
答えを探す前に、周囲の兵がざわつく。
「そいつは……! あの時の補給兵士だ!」
叫んだのは、セリオンの護衛の一人。
ソラの件で塔に捕らえられた時、蓮を見た兵だった。
ざわめきが広がる。
参謀たちが顔を見合わせ、騎士団長ロウガが腰の剣に手をかけかける。
セリオンはゆっくりと立ち上がり、
蓮の顔を見下ろした。
その瞳には、冷たい警戒と――何かを確かめようとする光。
「……どういうことだ、魔王。
まさか、我が兵を――人間を、使って諜報させていたのか?」
その言葉に、レナトスの席の空気が一変した。
背後の侍従たちが一斉に動こうとするが、
レナトスは片手を上げてそれを制す。
「落ち着け、皇子よ。
彼女は我が庇護下にある者だ。」
「庇護? 貴様が人間を庇うだと?」
セリオンの声がわずかに震えた。
「ふざけるな。裏切り者を抱えて“和平”などと――」
「彼女は裏切ってなどいない。」
レナトスの声が重く響く。
「命を賭して我らの地を救った。それだけは事実だ。」
沈黙。
誰もが息を飲む中、蓮は俯いたまま手を握りしめる。
――弁解すればするほど、事態はこじれる。
レナトスの立場を、悪くするだけ。
その沈黙を破ったのは、扉を叩く控えめな音だった。
会議場の全員の視線がそちらへと向く。
「魔王陛下。」
扉の外から、兵士の声が響く。
「捕虜であるルシアン=エルヴァード第二皇子をお連れしました。引き渡しの件につき、お伺いに参りました。」
わずかな間。
レナトスはゆるやかに視線を向け、短く言葉を返した。
「入れ。」
扉が静かに開かれる。
鎖の音が、硬い床に淡く響いた。
セリオンがはっと顔を上げ、思わず立ち上がる。
入ってきたのは、拘束具に繋がれた青年――第二皇子ルシアンだった。
彼は俯くこともせず、まっすぐに会議の中心を見据えていた。
その瞳には恐れよりも、確かな覚悟の光があった。
「……魔王陛下。」
ルシアンはまずレナトスの前で深く頭を下げた。
「このような場を設けてくださり、そして捕虜である私に過分な待遇を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。」
続いて、兄のセリオンへと視線を向ける。
「兄上。……不甲斐なく捕らえられ、恥を晒しました。心よりお詫び申し上げます。」
セリオンは腕を組んだまま、低く鼻を鳴らした。
「恥じるなら最初から余計な真似はするな。
まあいい――魔王よ、弟の解放条件は何だ? まさか、無償というわけではあるまい。」
淡々とした口調の裏に、焦燥が滲む。
――グランへの進軍を、ここで止めねばならぬのか。
そんな苦渋が、彼の瞳の奥に揺れていた。
ルシアンは静かに一歩進み、鎖の擦れる音が場の空気を切った。
「兄上、陛下。……捕らわれの身の分際で無礼を承知のうえで、ひとつお願いがございます。」
その場の誰もが息を潜める。
レナトスがわずかに顎を動かし、続きを促した。
「申してみよ。」
ルシアンは深く息を吸い込み、凛とした声で告げた。
「東の辺境都市グランに、双方の監視役を置き、交易と知識の交流を行う“交流所”を設けてください。
互いを拒むのではなく、理解する場を。
技も文化も、恐れ合うのではなく、学び合う形で残すのです。」
静寂。
長い沈黙が落ちる。
セリオンが嘲るように笑った。
「捕らわれの身で、夢想を語るか。人間の地で魔族が共に働くなど、あり得ぬ。」
ルシアンはその冷笑を正面から受け止め、穏やかに首を振る。
「あり得ぬと思ってきたからこそ、今のような争いが絶えぬのです。
人と魔が共に暮らした時代があったことを、魔王陛下もご存じのはず。」
レナトスの瞳がわずかに細まる。
彼の中で、かつての記憶がかすかに疼くようだった。
「……続けろ。」
「開戦ではなく、共存を選ぶ道を試すべきです。
もしそれが偽りであるなら、いずれ崩れるでしょう。
けれど、もし真に通じ合えるなら――それこそが、和平の礎となります。」
再び静寂。
だが今度の沈黙は、先ほどとは違っていた。
凍てつくものではなく、揺らぎを孕んだ沈黙だった。
レナトスはゆるやかに立ち上がり、階段を降りる。
鎖に繋がれたまま膝をつくルシアンの前に立ち、その冷たい金の瞳でまっすぐに見下ろした。
「……面白い提案だ。グランに“交流所”を設立する可否、検討に値する。」
ざわめきが起こる。
セリオンがわずかに顔をしかめた。
「だが、ルシアン。」レナトスは低く言い放つ。
「お前の提案が偽りであれば、その命はその場で絶つ。それでも構わぬか。」
ルシアンは迷いなく頷いた。
「はい。覚悟の上です。」
その言葉に、重い空気が解けていく。
蓮は給仕の列の奥で、静かにその光景を見つめていた。
――この瞬間、確かに何かが変わったのだと感じながら。




