離したくない
午後の議題は、第二皇子ルシアンの提案した「交流所」設立についての具体的な検討に移った。
各地の物流、監視の配置、人間と魔族の立ち入り制限――重苦しい空気の中にも、わずかな希望の光が差すような議論が続いた。
蓮はただ静かに、隣で意見を交わす彼らを見つめていた。
それがこの国にとって、どんな意味を持つのか——まだすべてを理解しているわけではない。
けれど、目の前で未来を語る彼らの姿には、どこか希望のような光が差していた。
結論こそ出なかったが、誰もが感じていた。
あの一言がなければ、この会談は血の匂いで終わっていたかもしれないと。
やがて夕刻、会議は一旦の閉会を迎える。
空には薄紅が溶け、夜の帳がゆっくりと降りていった。
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その夜。
蓮はひとり、自室のバルコニーから庭を見下ろしていた。
「……蓮」
振り返ると、レナトスがいた。
その眼差しは柔らかく、昼の厳しい表情とはまるで違っていた。
「今日も、無理をさせたな。」
「大丈夫です。……皆さん、真剣でした。見ていて少し胸が熱くなりました。」
蓮がそう微笑むと、レナトスの目がわずかに細まった。
ほんの少し近づき、彼は低く囁く。
「ここで、昼のことを考えていたのか?」
「はい。あの交流所のことを。」
蓮が答えると、レナトスはゆるく頷く。
その目には、どこか遠くを見つめるような光があった。
「人間の中にも、あのように“魔族の視点”を考える者がいるとは思わなかった。
――少し、嬉しかったのだ。」
レナトスの声が、夜風に溶ける。
その響きには、長く続いた戦いの果てに見た、わずかな希望のような温度があった。
「第二皇子の護衛から報告を受けている。
昨日、お前が彼と話したそうだな。……その会話が、彼に勇気を与えたのだろう。」
蓮は驚きに目を見開いた。
まさか、そんなところまで伝わっていたとは思っていなかった。
「私はただ……彼の中に迷いが見えたから。戦いを望まないなら、それを言葉にしてもいい、と伝えただけです。」
「それで充分だ。」
レナトスはやわらかく笑う。
「お前の言葉は、戦を止めかけた。剣よりも強い力だ。」
「……蓮がいると不思議と全てがうまく回り出す。
停滞していた歯車が、おまえの一言で動き出すように——
気づけば、俺の世界までも整っていく。まるで、長い冬に差す春の光のようだ。」
「そんな……私なんて、何もできていません。」
「できていない、と思うのはおまえの優しさだ。だが——」
言葉の途中で、レナトスは彼女の頬に触れた。
指先がかすかに震えているのが伝わる。
蓮は驚いて息を呑んだが、拒むことはできなかった。
「——俺は、おまえに救われている。」
その一言に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
沈黙の中、ふたりの距離がわずかに縮まる。
蓮は少し顔を伏せ、静かに息を吐いた。
「……レナトス。私、思ったの。
もし本当に交流所を作るなら、人間側の代表にはルシアン殿下がふさわしいと。
そして――私も、そこへ行って、人と魔をつなぐ手伝いができるのではないかと。」
その言葉に、レナトスの瞳が一瞬だけ強く揺れた。
風が止み、静寂が落ちる。
「……お前が、ガランに?」
「はい。戦を止められるなら、怖くはありません。」
レナトスは何も言わず、蓮を見つめた。
その視線の奥は、王としての理性と、ひとりの男としての感情がせめぎ合っていた。
やがて、彼は小さく息を吐き、低く囁いた。
「……蓮、抱きしめたい。」
その声は、かすかに震えていた。
次の瞬間、レナトスの腕が蓮を強く抱きしめる。
蓮は驚きつつも、彼の胸に腕を回した。
肩越しに見えるレナトスの瞳――琥珀と藍が混じる光が、揺らめくように切ない。
「レナトス……どうしたの?」
「分からない。ただ……こうしていないと、落ち着かない。」
蓮はそっと彼の背を撫でる。
大きな体の奥で、鼓動がわずかに早く打っているのが伝わった。
「私は蓮と片時も離れたくない。放したくない。
だが――未来を考えるなら、お前がガランへ行くべきだとも分かっている。
王としては、そう決断すべきなのだろう。」
レナトスは目を閉じ、深く息を吐く。
そして、胸の奥に隠していた想いを絞り出すように言った。
「……それでも、私は誰にもお前を取られたくないのだ。」
蓮は目を見張り、ゆっくりと顔を上げる。
レナトスの頬に指を伸ばし、静かに囁いた。
「……大丈夫です。私は、どこにいても陛下の隣にいます。」
その言葉に、レナトスの表情がわずかに緩む。
彼は蓮の額に口づけ、静かに囁いた。
「ならば……もう少し、このままでいさせてくれ。」
夜は静かに、更けていく。
ふたりの間に流れる温度だけが、確かにそこにあった。




