フォルトゥナ城、はじめての夜
「とりあえず、今日はもう遅い。ここで泊まるといい。」
玉座から立ち上がったレナトスが、黄金がどこか淡い琥珀に揺らめいたな瞳で淡々と言った。
魔王レナトスが軽く指先を振ると、控えていた一人の女性がすっと進み出た。
淡い緑の髪がふわりと広がり、花弁のようなドレスが月光を浴びて淡く光る。
花の香りを纏ったその姿は、まるで夜に咲く大輪の花だった。
「ミレーヌ。彼女を客間まで案内してくれ。今夜はゆっくり休ませてやれ。」
「かしこまりました、レナトス様。」
ミレーヌは優美に一礼すると、蓮に向かって花がほころぶように微笑んだ。
その瞳は淡い桃色で、見つめられるだけで心の緊張がほどけていくようだ。
「きれい……」
思わず呟く蓮に、彼女は柔らかな笑みを浮かべる。
「ようこそ、召喚のお客様。私はミレーヌ。お部屋までご案内いたしますね。」
廊下に足を踏み入れると、どこからともなく甘い花の香りが漂う。
ミレーヌの足取りに合わせ、床の石畳の隙間から細い蔓が伸びて道を示す。
まるで彼女自身の意思で建物が息づいているかのようだった。
「……あの、ここは一体どこなんですか? さっきから頭が追いつかなくて。」
蓮が恐る恐る口を開くと、ミレーヌは振り返り、柔らかい笑みを浮かべる。
「ここは〈フォルトゥナ城〉。レナトス様が治める魔族の都です。
――そして、あなたはその“特別なお客様”」
「特別……?」
「ええ。主が自らの意志で呼び寄せた方は、そう多くありませんから。」
その言葉に蓮は足を止め、思わず問い返した。
「自らの意志で? じゃあ、偶然じゃなくて……レナトスさんが?」
ミレーヌはにっこりと微笑んだまま、答えを曖昧にする。
「詳しいお話は、主から直接お聞きになるとよいでしょう。
でも――“選ばれた”というのは確かです。」
選ばれた。
その響きが、蓮の胸の奥で小さく波を立てる。
まるで何かを暗示するように。
部屋に着くと、重厚な扉が静かに開かれ、思いのほか温かみのある室内が現れる。
厚い絨毯、柔らかなベッド、暖炉には穏やかな火。
「わあ……お城って、もっと冷たいイメージだった。」
蓮が目を丸くすると、ミレーヌがくすりと笑った。
「レナトス様のお城は、居心地を大切にしていますから。さ、どうぞ。お茶もすぐお持ちします。」
蓮がベッドに腰を下ろすと、質問した。
「帰る方法は……あるんですか?」
ミレーヌの瞳が一瞬だけ揺れた。
しかしすぐに柔らかな笑顔を取り戻し、静かに首を傾げる。
「方法が全くないわけではありません。ですが、召喚の術式を逆にたどるにはレナトス様の協力と、星の位相が整うタイミングが必要で……すぐにというわけにはいきません。」
蓮は小さく息をのむ。
「その星の位相が整うのっていつですか?」
「一番近くて数か月先でしょうか。」
「そんなに先なの!?」
(しかも彼の協力も必要か……)
「……けれどね、お客様。レナトス様は自らの意志で召喚されたので、その目的を達成するまで帰還はさせないと思います。それに、もし意に背くようなことをすれば、帰す手間より――『存在ごと消す』方が早いと、お考えになるかもしれないわ。」
「ひぃ!」
(確かに魔王だもんね。あー困ったな。)
「兎にも角にも、今夜は召喚され、お疲れのご様子。
何かありましたら、いつでも呼んでいただいて構いません。。
どうかごゆっくりお休みください、お客様。」
ミレーヌは目を細め、ふわりと尾を揺らし、退室していった。
月明かりが薄く差し込む客室。
静かな息遣いと、かすかな草木の匂い。
レナトスは足音を飲み込みながら、ベッドのそばまで近づいた。
シーツに包まれた蓮は、幼さを残した顔で眠っている。
その頬は柔らかく光を帯び、黄金だったレナトスの瞳は
心のざわめきに応じてゆっくり琥珀色に変わった。
――少しだけ。
心の中でそう呟き、指先で髪をかき上げる。
あまりに無防備な唇が、すぐそこにある。
触れた瞬間、
時が止まったようだった。
羽の先でそっと触れるように、レナトスはキスを落とす。
その刹那――
蓮のまつ毛がかすかに震えた。
吐息が、微かに熱を帯びる。
レナトスは息を呑み、
動けないまま、その瞳が開くのを待った。
――開くのか、夢の揺らぎなのか。
月光だけが、ふたりを淡く照らしていた。




