幸せの秘密
あっという間に約束の土曜日が来てしまった。
私はどんよりとした気持ちを抱えながらも、約束した時間ぴったりに、
店の前に到着していた。定休日なので、当然「縁」の暖簾はないけれど、
店の戸に鍵は掛かっていなかった。
「こんにちはー…」
返事はないが、厨房の奥からゴトゴトと音がする。私は緊張しながら、
初めて奥にある厨房に近づいた。
そこには、本物の仕事場があった。清潔に保たれた厨房には、一般家庭には
無いような設備が揃っていて、整理整頓された道具類がピカピカと輝いている。
そして静かに、一基さんが料理を始めていた。
とても真剣な表情だった。初めて見た、真っ直ぐ仕事に向き合うその姿に
諭されるようにして、気づけば私の心は少しだけ大人になる。
「こんにちは」
私は声を掛けると、彼は顔を上げて
「こんにちは、荷物はカウンターに置いてきてください」と言って、
再び視線を手元に移す。私はカウンターにバッグを置いて、
持ってきたエプロンを身に着け、気持ちを切り替えるように
「よし!」と気合を入れつつ厨房に戻った。
準備が整うと、彼が今日のメニューについて説明してくれた。
「クリスマスらしい簡単にできるものということで、
ローストビーフ丼を作りたいと思います」
「ローストビーフ丼!美味しそうですね!」
(ん?この会話ってテレビの料理番組の料理人とアナウンサーっぽい?)
そう思いながら、私は彼の指示で、用意してもらった牛もも肉の塊に
下味をつける。彼が隣で、料理について色々私に説明してくれて、
ただそれだけで楽しかった。
正直、一人で料理をしてもつまらないけれど、誰かと一緒にすると
違うものだなと嬉しくなっていたけれど、もしかしたら、一基さんと
するから楽しいのかもしれないと思い当たると、あたふたして胡椒を
かけ過ぎてしまう。
けれど、彼はそんな私を気にする素振りもなく、淡々と仕事をするように
料理を進めていく。
「これくらい焼き色がついたら常温でアルミホイルに包んで15分寝かせます」
私が「へぇー」と感心しながら、アルミホイルに包まれたお肉を眺めていると、
彼はすぐに別の料理に取り掛かる。隣で見ていると、鍋にはキャベツとわかめ、
プチトマトが入ったスープ。
見ていると、彼は味噌を取り出して入れた。
「…トマトが入ったお味噌汁…」
驚いた私がそう呟くと、彼は「大丈夫です美味しいので」と答え、
小口ねぎを加えて火を止めた。
「みそ汁もできたので、ご飯を盛りましょう」
そう言って、彼は食器を私に選ばせてくれた。棚には綺麗な焼き物の器が
たくさん並んでいて、思わず見とれてしまいそうになる。
焼き魚が映えそうな、深い緑色の綺麗なお皿。淡い色合いの、まるで
宝石みたいなお皿。そして、ホッとするような素朴な色合いをした、
肌触りがザラザラとする陶器らしい丼ぶりを見つけて、それを
使わせてもらうことにした。
土鍋でほかほかと炊き上がったお米を器によそり、丁度よく
火の通ったローストビーフを丁寧に切って並べる。そして、長ネギ、
醤油、みりんなどで作ったタレを、上質な脂が滲むお肉の上にかけた。
「最後に、卵の黄身の醤油漬けとすだちを乗せます」
そう言って彼はタッパーを取り出し、ピカピカと輝く黄身をお肉の上に
乗せた。仕上げに輪切りのすだちを乗せて、それは完成した。
私は完璧な仕上がりのローストビーフ丼を目の前にして、思わず
「これは絶対美味しい…豪華なクリスマス感がありますね」と、
再びアナウンサー的コメントをしてしまうほどの出来栄えだった。
彼はお味噌汁をよそって、私達は食事をテーブルに運ぶ。
席は、私がいつも座っている場所。今日は独りではなく二人。
「「いただきます」」
そう言って手を合わせると、数字。
私はふふと笑って、目の前に座る一基さんに、
「私がお手伝いしても大丈夫でした」と伝える。
彼は目を逸らし、「それは食べてから言ってください」と
素っ気なく答えた。
まずはお椀のお味噌汁を一口。
トマトの酸味と、味噌の風味がすっきりとしていて優しい。
「トマト、お味噌と合いますね」
彼もお味噌汁を飲み、「よかった」と頷いた。
今度は赤身がきれいなローストビーフを箸でつまむ。
口にすると柔らかくジューシーで、さっぱりとした和風のタレが
よく合っている。すだちを絞り、もう一枚食べると、ほどよい酸味が
爽やかにお肉の味を引き立てる。
箸が止まらず、中央の黄身を崩して、今度はご飯とローストビーフを
一緒に口にすると、醤油の風味がしっかり染みた黄身の深いまろやかさと、
肉汁が口の中に一緒に広がって、白いご飯にぴったりだった。
どんどん食べられそうだけれど一息ついて、私は一基さんに
「ローストビーフ丼もとっても美味しいです」と改めて伝えた。
彼はゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ後、私を見て
「そうですね」とだけ答えた。
その姿がなんだか可愛らしくて、私はふふと笑って、また食べ始めた。
彼は無口で、考えていることが私にはさっぱり分からない。
今だって、本当は一緒に食事をしても全然つまらないと感じている
かもしれない。けれど、彼がポーカーフェイス過ぎて少しも気持ちが
読めないので、むしろ気楽だった。
もし迷惑だったならそのうち言うだろうくらいの心構えで、
なんとなくこうして近づいてみるだけ。
これは紛れもなく恋だけれど、今までの恋と違って、
清々しいほど自分勝手で、自由な形をしている。
(…片想いでも楽しいなんて思えたの、初めてかも)
また新しい発見ができて、ご飯も美味しいなんて幸せだ。
それは今までの悲しい出来事も、この幸せを知るためにあったのなら
仕方ないな、と許してしまえるほどの、まっさらな感情。
これは自分の長所兼短所の適当な性格のお陰なのだろうか。
それとも、この出会いがあったから、変われたのだろうか。
「ごちそうさまでした」
食べ終わり、満足感に浸りながら手を合わせていると、
不意に、彼が話を始めた。
「今日の料理はとても簡単なものです。時間と温度に気をつければ、
きっと、お一人でも上手く作れると思います」
「そうですね」
「全然特別ではないでしょう?」
「え?特別ですよ?」
「え?」
ここで、お互いが「?」と目が合う。私はどうして彼が
分かってくれないのか分からないので、そのまま伝えることにした。
「確かに私一人で作っても美味しくできると思いますけど、
これは一基さんと作ったから、特別ですよ?」
彼は何も言わなかった。けれど、言いたいことは分かった。
彼の顔が、すごく真っ赤だったから。
(もしかして私って、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言っちゃった?
でも別に失礼なこと言ってる訳でもないし…まあ、いっか)
そんなことをのんきに考えていると、彼は小さな声で呟く。
「…特別には、なれません」
「…え…」
「もう、僕の料理が特別だなんて、言わないでください」
彼は苦しそうに、はっきりとそう言った。
言葉が、出てこなかった。
突き付けられた明確な「拒否」に、頭が真っ白になってしまう。
彼のことを、私は何も分からない。私が知っていることは、一基さんが
このお店の息子さんで、平日には料理人として働いているということだけ。
たった、それだけ。
左手の薬指に指輪をしていないし、奥さんらしい人も見かけないので、
結婚はしていないと決めつけていたけれど、もしかしたら婚約済みの恋人が
いるかもしれない。そもそも、私のことをうっとおしいと感じているのかも
しれない。
彼の気持ちは、全然分からない。
それでも、ここで伝えず、終わりにしたら、
全部、意味が無くなってしまう気がした。
料理に数字が見えること。そのせいで美味しいという感情が
ぐちゃぐちゃになってしまったこと。食べることに臆病になって、
泣いてばかりだったこと。
そんな私を、彼の料理が救ってくれたこと。いつの間にか、
彼を好きになっていたこと。やっと気づけたのに、
その全てに意味が無いなんて、そんなの絶対に嫌だった。
はっきりと分かるのは、たったそれだけ。
だから、私はそれを信じることにした。
「迷惑だったなら言ってください…だけど、誰がなんて言おうと、
たとえ一基さん本人が否定しても、一基さんが作った料理は絶対に
特別ですから!それだけは、譲れませんから!
でも…本当に私のことが迷惑だったら言ってください」
きっと一基さんよりも顔を真っ赤にしながら、
私は必死になって自分の想いをぶつけた。
嫌われたくないけれど、今どうしても伝えられずにはいられなかった。
「…今ならまだ、諦められますから、本当のこと言ってください」
これ以上彼に悲しい顔をさせたくなくて、
私は泣きそうな声でそう呟いた。
しばらくの沈黙があって、彼は大きく息を吸い込み、答えた。
「迷惑じゃないです」
彼はきっぱりとそう言った。
気づけば彼は、既に落ち着きを取り戻していて、
いつものポーカーフェイスになっていた。
「僕にとってあなたは、迷惑なんかじゃありません」
どこか吹っ切れたように、彼は言葉を続ける。
「ですが、あなたにとって、僕は迷惑になります。
だから、もう特別だなんて、言わないでください」
彼は冷静にそう言ったけれど、意味がよく分からなくて、
私はまた少し泣いてしまった。
一基さんが慌てているのが分かったけれど、
涙が止まらなかった。
彼のことをちっとも知らない、無知で感情的な自分を
恥ずかしいと思いながらも、
「恋人とか、奥さんが居るんですか」と、ぐだぐだになりながら尋ねた。
「居ません。むしろ、恋人が居たことすらありません」
嘘なんてついてなさそうな実直な答えだった。本当のことなんて
分からないけれど、単純に嬉しかった。でもそれじゃあ、どうしてこんなに
私のことを拒絶するのだろうと、さらに分からなくなって、悔しくて泣いた。
彼は理由を答えず、私のすすり泣く声だけが店に響いていた。
しばらくして私が落ち着いてくると、彼が呟く。
「明日」
私が顔を上げると、彼は言葉を続ける。
「明日の日曜日、一緒に、行きますか」
「…どこに…ですか?」
「僕が、小さい頃からお世話になっているお寺があるんです。
土日は、そこに居させてもらっているんです」
私は少し驚きつつも、彼のスキンヘッドを見て、なんとなく納得した。
「…じゃあ、行きます」
私が不機嫌そうにそう答えると、彼も少しだけ、微笑んだ。
一瞬のその笑顔に、私は見とれてしまう。
そして、慌てて目を逸らして
(あぁ、やっぱり私、この人のことが好きなんだ)と改めて気づかされた。
本当は悲しくて悔しくて、怒ってもいるはずなのに、
なぜか心のどこかに、清々しい光が射し込む。
その後は、お互いぽつりぽつりと話をしながら片づけをして、私はお店を出た。
☆
次の日、私は約束の時間ぴったりに駅に到着した。
彼は既に待っていて、私を見つけると「おはようございます」と
大きな荷物を持って近づいてきた。私も「おはようございます」と
頭を下げて、彼を見つめる。
落ち着いた色合いの、いたって普通の服を着ていた。
(お坊さんっぽい着物姿が見られると思ったのに、残念…)
心の中で一人そう思いながら、私は彼の後ろを付いていく。
特に会話もなく、なんだか透明人間になったような気持ちで彼と電車に乗り、
私達は2つ離れた駅で降りた。
ゆっくりと目的地を目指す彼の後ろ姿を眺めながら、
ただただ歩いた。
普段の休日は、友達と会う予定が無ければ、家にいることが多かった。
平日で溜まった家事をしたり、昼寝をしたりを繰り返すだけで、
何もしないことが幸せだと思っていた。
でも今週は、一基さんと料理もして、お出掛けもしている。
こうやって、好きな人と一緒に過ごす時間も楽しいのだと知った。
彼の気持ちはよく分からないままだけれど、不思議なくらい幸せな気分になれた。
15分ほど歩くと、景色に緑が多くなり、お寺が見えてきた。
こじんまりとした門をくぐり中に入ると、手入れの行き届いた
境内が広がっていた。
枯山水の庭園や、草木の自然な色の中にいると、
次第に心が安らいでいくのが分かる。
「こっちです」
彼が「こんにちは」と言いながら入った建物は、お寺というより
古民家のようだった。
玄関で待っていると、奥から人がやってきて、
その人はまさにお坊さんっぽい風貌の方だった。
「いらっしゃい。あぁ、お連れの方もどうぞ、あがってください」
一基さんは慣れた様子で、どんどん奥へと進んでいく。
そして台所の前で彼は立ち止まり、「僕はやることがあるので」と、
大きな荷物を持ったまま、私を置いてさっさと行ってしまう。
ぽつんと残された私は、お坊さんに案内されて、
隣に建っているお堂の中を見させてもらった。
話を聞くと、この穏やかなオーラの溢れる住職さんは、
一基さんを中学生の頃から知っているらしい。
一基さんのお父さん、つまり縁の店のおじさんと住職さんは
古い友人で、最初は一基さんも、気軽に遊びに来る感じだったそうだ。
けれど、一基さんは年を重ねるにつれて、自発的に
ここを訪れるようになり、他のお坊さん達と同じようにして
過ごすことが多くなったらしい。
その理由を、住職さんは語らなかったが、新しい彼の一面を
知ることができて、私はなんだか嬉しくなる。
さっきまで、一基さんがあまりに説明不足のまま、
自分を放置したことで心はモヤモヤとしていたが、
「仕方ないか」と諦めるように落ち着いていく。
お堂の中はとても静かで、時折、お坊さんが通りがかっては
「こんにちは」と挨拶を交わした。
一人のお坊さんがやってきて、「食事の用意ができました」と
住職に声を掛ける。
「今日はお客様もいることだし、外を見ながら食べましょうか」
私は慌てて遠慮しようとしたが、住職に
「昨日、一基君から話は聞きましたので、ぜひ一緒にどうぞ。
私達は土日の昼はいつも、彼の料理を頂いているのです。
あなたの分の料理も用意していますから」
と言われてしまう。
外、と聞いたので庭でお花見のように食事をするのかと思ったけれど、
最初に訪れた古民家に案内された。
広々とした部屋には美しい食事が一列になって配膳されていて、
私を含めた5つが、障子戸の前に並べられていた。
一番端に腰を下ろすと、障子が開かれて、ガラスの向こうに、
言葉も出ないほど見事な庭園が広がっていた。
手入れの行き届いた枯山水は岩や樹木を彩り、
まるで澄み切った池を見つめているかのような、
なんとも言えない不思議な気持ちになっていた。
住職は嬉しそうに庭園を眺めながら
「私の唯一の趣味は、庭造りなんです」と、満足そうに笑った。
静かに時が止まった水面に、鮮やかな緑と、紅葉した葉が揺れている。
もうすぐここに雪が降り、積もるとまた違った美しさがあるのだろうと
思いを馳せると、穏やかな心持ちになった。
支度を終えた一基さんが私の隣に座り、みんなで
「いただきます」と手を合わせて、その美しい景色を見ながら食事をする。
一基さんの作った料理は、赤い器で一段と際立って、食事という行為は
大切なものだと、改めて気づかせてくれるようだった。
口にすると、どれもほんの少し薄味で、以前、休みの日に食べさせて
もらった料理を薄く感じた理由が分かった。
(この人達に食べてもらう料理を、あの時出してくれたんだ)
私はまた一つ、彼の謎が解けて嬉しくなる。
ちらっと窺うと、隣に座って食事をとる彼は凛々しく、
言葉を交わさなくても心が満ち足りた。
好きな人が居るだけで私の世界は色づいて、
小さなことで大きく心が揺れていた。
悲しいこともあるけれど、ご飯はとても美味しいし、
こうして一緒に食事をするだけで、世界で一番幸せになれる。
もう一度だけ、一基さんをそっと見ようとすると、
彼もそれに気づいた。
眼鏡の向こうの彼と目が合って、私は「ふふ」と思わず笑ってしまった。
すると、彼はなぜか驚いたような顔をして、一瞬固まった。
「…っ…!」
一基さんは何かを言おうとして、そして、泣き出しそうな顔になる。
それは、初めて見る顔だった。
だが、彼はすぐに立ち上がって、どこかに行ってしまった。
(え、どうしたの…?)
あっけにとられたまま、私はお茶碗とお箸を持ったまま硬直する。
すると、彼の隣に座っていた住職さんは箸を置き、私に
「ごめんなさいね」と謝る。
「少しだけ、彼を一人にさせてあげてください」
「…はい」
私は力なく頷き、箸を置いた。
近づこうとすると、どうして彼が遠くに行ってしまうのか、
自分は知らないから分からない。
けれど、自分から強く尋ねてはいけない気がしていた。
(…この気持ち…私、どこかで知ってる…そうだこの前観た、
プロポーズを待っている女性が恋人にヤキモキするドラマの話だ。
きっとあの女の子も、力ずくで相手の気持ちを変えることは
難しいって分かっていたから、今の関係を壊さないように、
我慢してその時が来るのを待っていたんだね…。
…まだ完結していないから、それが正解なのかは分からないけれど…)
相手に好意を伝えることは、躊躇いたくない。
けれど、相手を傷つけることはしたくなかった。
(…結局は、拒絶されるのが怖いだけなのかもしれない。
好きな人には嫌われたくない、好きで居させてほしい…)
そこまで考えて、惚れたら負けというのもあながち
間違っていないなと、私は諦めるように小さく微笑んだ。
住職さんは、一基さんの話を聞かせてくれた。
「彼がこの寺を訪れてから、もうすぐ20年が経ちます。人はそれぞれ、
生まれ持った宿命、とでも言うべき試練を背負い、生きています。
彼も幼い頃から、投げ出すことを許されない試練を背負い続けている
ということを、どうか理解してあげてください。
背負ったそれの重さを知っているからこそ、自分を支えてくれる人まで
潰してしまうのではないかと、誰よりも不安になってしまうのです。
…彼のことを私から詳しく話すことはできませんが、
きっと彼の心が定まれば、あなたにもお話しすることでしょう」
そう言って、お坊さんはにこりと笑顔を見せる。
それはとても穏やかなものだった。
私も、彼も、自由に生きることを勧められているような気がした。
「…彼を傷つけることは、したくないんです。
でも彼のこと、私は何も知らなくて…」
思わず悩みを口に出すと、住職は頷き、答える。
「そういう時は、ノックをするといい」
「ノック…?」
「法話でもないのですが、これは私の好きな曲の歌詞にありまして、
人の心を扉に例えたものです。背負っている苦しみ、試練の内容を
誰かに見せるのは、とても勇気がいることです。
だから、まずはこちら側からノックをして、自分もそれを
見つめるだけの気持ちがあるよ、と伝える必要があると思うのです」
「…もしも、ノックをし過ぎてその扉を壊したら、怒られます、よね…?」
「過ちだったと後悔しても、覚悟さえあれば、人は前へと歩いて行けます」
(覚悟…)
私は自分の心の中で、それを探す。
彼と、彼の料理と出会ってからまだ半年くらいしか経っていないし、
ただのお客さんでしかない私は、彼のことをほとんど知らない。
それでも、不思議な覚悟があることに気づく。
彼の笑顔が見たい。彼の隣に居るのは私でありたい。
彼の作る料理をこれからもずっと食べていきたい。
とても欲深い私、だけど、その気持ちでは誰にも
負けない私が、そこには居た。
(…あれ?もしかして私って、重たい女かも?)
けれど、彼の背負っているものを知ったら、その時の私は、
彼を受け入れることができないかもしれない。
その時は、また考えよう。
もしも、私の選択のせいで不幸になりそうだったら、
また必死になって、幸せになる選択肢を探してみせる。
幸せになることを諦めない。
それが、私の覚悟だった。
(あれ?やっぱり私って、軽い女かな?)
私はまた諦めたように笑って、住職さんに尋ねる。
「私、一基さんに会ってきます」
住職さんは頷いて、「外に出て、左の階段を上っていくと、
小さなお堂があります。彼は昔から、一人になりたい時には
そこにいました」と、教えてくれた。
「ありがとうございます!」と私は立ち上がると、
そのお堂へと向かった。
階段を上っていくと、他の建物よりも古そうなお堂がぽつんとあった。
中を覗くと、たくさんの花がお釈迦様に向かって咲いていて、
その花の一輪のように、一基さんは静かに手を合わせていた。
私は彼の隣に腰を下ろして、同じように手を合わせた。
気づいた彼がこっちを見ている気配がしたけれど、
私はそれに気づかないふりをして、自分の気持ちが済むまで、
静かに目を閉じた。
そして、ふと思い浮かんだ疑問を、一基さんに投げかけてみた。
「…どうして祈る時だけでなく、食事をする時も、手を合わせるんでしょう?」
彼は少しの沈黙の後、話をしてくれた。
「…右手が自分、左手が仏様、それが一つになるということを表して、
食事の時も、食材の命と、自分の命が一つになるということを、
両手を使って表しているそうです」
この言葉で、一基さんの料理が私にとって特別な理由を、
また一つ、知ることができた気がした。
私は頷いて、彼と一緒にお堂を出た。
その後は、彼と一緒に片づけを手伝い、
住職さん達にお礼を言って帰った。
電車に乗って、夕暮れの町を眺めていた。
時折映る、私と彼の並ぶ姿。
今はこれだけでいい、そう考えながら電車を降りた。
言葉も交わさないまま一緒に歩いて、縁の店の前に着いてしまった。
私の家はもう少し先だから、ここでお別れだった。
「今日はありがとうございました、お休みなさい」
彼の顔を見ないようにしながら私はそう言って、頑張って笑う。
覚悟を見つけたはずなのに、何も話してくれない、遠いままの
彼が悲しくて、泣いてしまいそうだった。
そんな弱い私を見せたくなくて、くるりと背中を向けて、
歩き出そうとした、その時だった。
「待ってください」
彼の声に振り返ると、何かを差し出している。
「これ、読んでくれますか」
一通の手紙を差し出されて、私がそれを受け取ると、
なぜか彼は夕陽に溶け込むような、少しだけ悲しい顔で微笑んだ。
「桜さんが、僕の料理を特別だと言ってくれて、本当に嬉しかった。
ありがとうございました」
彼はそれだけ言って、深く頭を下げると、振り返ることなく
店の中へと入っていった。
私は手紙をコートのポケットに入れて、握りしめながら、帰り道を歩いた。
家に帰り、着替えを済ませてから、私はその手紙を開いた。
そこに書いてあったのは、私の知らなかった彼の試練のこと。
彼が病気のこと
治療で完治するようなものではないこと
生きる意味を毎日問い続けていたこと
私と出会ったこと、私が料理を特別だと言ったこと
お店に食べに来てくれることが、何よりもの幸せになっていたこと
そして、最後にこう書かれていた。
「僕は、あなたからたくさんの幸せをもらいました。けれど僕がこの先、
あなたにあげられのは、幸せよりも、不幸ばかりになってしまうでしょう。
あなたには、そんな辛い未来を見てほしくない。だから、もう僕のことは
忘れてください。勝手なことを言うようですが、僕のことを想ってくれるのなら、
どうか、僕の知らないところで、誰よりも幸せになってください。
あなたの幸せを祈りながら、あなたが特別だと言ってくれた料理を、
僕は作り続けます。どうか、幸せになってください」
何度も書き直した形跡のあるそれには、彼の想いそのものが詰まっていた。
そして、なんとなく、これはずっと前に書かれていて、渡せずにいた手紙の
ような気がした。
私は布団に包まって泣いた。
(朝なんて、来なければいいのに)
ぼんやりとそう思いながら、化粧も落とさず、こんこんと眠り続けた。
☆
次の日、起きても体調が悪かったので、午前中だけ休みをもらって、
体を引きずるようにして仕事に出掛けた。
社会人として情けないけれど、朝から何も食べていない私は、
仕事を終えると買い物に行く気にもならず、やっと家に着くと、
夕飯に、棚に仕舞いっぱなしにしていたカップラーメンを食べることにした。
なんとか気力を振り絞ってお湯を注ぎ、ぼんやりしていたら
10分くらい経っていて、蓋を開けて、手を合わせる。
0
「…はは…」
その数字に、乾いた笑いが込み上げる。
けれどすぐに、色々な感情が溢れて、私は子どものように声をあげて泣いた。
もし願いが叶うとしたら、今すぐに、一基さんの作ったご飯が食べたい。
1億円の価値が無くてもいい。だからどうか、私の側に居て、
料理を作ってほしかった。
「…私って、本当にわがまま」
そう呟いて、ぽろぽろと涙が落ちていくカップラーメンを口にする。
あまりにもカッコ悪くて馬鹿馬鹿しい自分に、ちょっと笑えたけれど、
やっぱり駄目で、何に怒ったらいいのかも分からなくて、
ただただ悲しいという感情を無理やり飲み込むようにしながら
カップラーメンを食べた。
☆
(…あれ?!今何時?)
カップラーメンを食べ終えて、いつの間にか眠ってしまった桜は、
慌てて起き上がる。
だが、そこは明らかに自分の部屋ではないことに気づき、ぼんやりと、
まだ夢を見ているのかと理解する。
ロウソクの灯だけが燈るその部屋は薄暗く、
歴史ある洋館の一室のようだった。
夢の中ではあったが、感覚的にまだ朝ではない気がして、
桜は少しずつ落ち着きを取り戻す。
「これが明晰夢ってやつかな?」
そう呟きながら、明日も仕事なのだから早く目を覚まして
化粧を落とさなければと、意識を覚醒させようと試みる。
けれど、桜は椅子に座ったまま動けず、一向に現実に戻れる気配がない。
(…私、相当疲れているのかな…それか、起きたくないだけなのかもしれない…)
弱い自分に笑いながら、また泣きそうになる。
涙が零れ落ちそうになって顔を上げると、視界の端、
灯りから離れた場所に、一人の女性の姿があった。
それは黒い服を着た、髪の長い女性だった。
その人は、桜が気づくのをずっと待っていたようで、
深いお辞儀をしていた。そして、ゆっくりと顔を上げてこう言った。
「最後に食べたいもの屋さんへ、ようこそいらっしゃいました」
その女性はとても美しく、穏やかな微笑みを浮かべていた。
まるで女優さんのようなその美貌と自然な振る舞いに、桜は驚いた。
自分の夢のクオリティに感動したが、すぐにハッと我に返る。
(やばい、これが怖い夢だったら私、トラウマになるかも)
だが女性は、急に緊張し始めた桜を気にする素振りもなく、
静かに言葉を続ける。
「ここは、あの世とこの世の境目にある、最後のレストランです。
今夜は異例ですが、まだ旅立たれる予定ではないお客様に、
最高の一品をご提供いたします」
レストランと聞いて、桜の心は沈む。
夢の中でも辛い思いをしなければならないなんて、
神様はどこまで自分のことが嫌いなのだろうと、もう、
乾いた笑いも出てこなかった。
「ここは本来、人生を全うされた方々をお見送りする
レストランです。ですが今回は謝罪の意味を込めて、
お客様に最高の料理をお出しするようにと言われております」
なんて都合が良い夢だろうと、桜は腹立たしく思った。
ある日突然、食べ物に数字が見えるようになってから半年が経つ。
そして、何にも代えがたい価値のある料理を作ってくれた人とも
上手くいかないというのに、どうしてそんな提案をするのだろうと、
夢の住人のデリカシーの無さに苛立つ。
「もう食事はいいから、起きていいですか」
その言葉に、女性は真っ直ぐ、桜の瞳を見つめた。
「…お客様、人の見る夢は、いつだって正直です。
あなたの心が作り出す夢だからこそ、
本当のあなたの気持ちが見えてくるのではないでしょうか」
女性のその言葉に、桜はそれ以上、何も言えなくなる。
一基との関係をどうするべきか、桜は迷っていた。
「…分からない…私、もう何を食べたらいいのか、よく分からない…
こんな変なことが起きて、ご飯が食べられなくなって…
でも、この能力が無ければ、一基さんとは出会えなかった。
…それなのに…あんな手紙…」
「お客様、とてもお腹が空いていらっしゃいますね」
「え…」
「人にとって空腹は、感情を揺れ動かすほどの苦痛です。
その状態が意識を覚醒させる場合もありますが、
幸せな未来を考える場合には、不向きかと」
桜は、まるで海のように美しく揺らめく、
女性の瞳から目が離せない。
「私どもは、お客様が心の奥底で『本当に』最後に食べたいと
思っているものをお出ししております。
そこには嘘や偽り、打算や不安も混ざっておりません。
皿の上にあるのは、お客様の純粋な願いです」
そう言って、女性は消えた。
桜は意味深な言葉にドキドキとする胸の鼓動を感じながら、
ただただ、その言葉の意味を繰り返し考えていた。
「お待たせいたしました」
再び現れた女性はそう言って、テーブルの上に、
銀色の蓋の付いた皿を置いた。
桜は覚悟を決め、目の前に置かれたその蓋を取ろうとしたが、
伸ばしたその手が大きく震える。
再び数字が見えてしまうことが怖くて、体が、上手く動かせない。
次第に呼吸が荒くなっていき、桜は苦しくて、喉を押さえる。
空気を吸っているはずなのに、水の中で溺れるように、
息ができなくなっていく。
涙を零す桜に、女性はいつの間にか近づいて、そっと
「大丈夫ですよ」と語りかける。
「大丈夫ですよ、人生は一度だけなのですから。
枯れ果てた後悔も、腐り落ちる懺悔も、溶かしてしまった憎悪も、
全て、この部屋で終わります。
命は最後の食事を終えて、平等に旅立っていくのを、私はずっと見てきました。
大丈夫ですよ、どんなに時が経とうとも、私が見ていますから」
桜は顔を上げるが、既に女性の姿は無かった。
不思議と気持ちが落ち着いていき、桜はもう一度、蓋へと手を伸した。
皿の上には、何も無かった。
桜は込み上げてくる悲しみに耐えられず、持っていた蓋を落とす。
「危ない!」
その声は、桜が落とした蓋を受け止めた。
桜は急に現れたその人を見て、驚いた。
「…一基さん…」
「…こんばんは」
一基の気まずさを誤魔化すような挨拶に、桜は感情を露わにした。
「なんで私の夢に現れるの?あなたが私を遠ざけたのに、どうして」
桜が両手で顔を覆って涙を流すと、一基は宥めるように、
その肩に手を添えた。
「…聞いてほしいことがあります。僕はこの夢に、料理人として
呼ばれて来ました。そして君がもう一度食べたい料理を僕が作って、
夢が覚めるはずだった。…けれど、君が本当に食べたいのは、
僕が作ってきた料理じゃなかった」
少しだけ、一基の声が震えていることに、桜は気づく。
「君は、僕が『これから』作る料理を食べたいと願った。
この場所では、その人が食べたことのない料理は出せないという
決まりがあるらしい。
君は、僕との未来を心の底で、望んでくれていた。
だから、この皿には何も無い。それが君の答えだった」
一基は笑った。
それは桜が別れの時に見た寂しい微笑みではなかった。
晴れた空のような清々しい光が、彼女の胸に射し込む。
「料理を作れなかった代わりに、僕は今、こうして言葉を伝えることができる。
あの時、僕の料理を特別だと言ってくれてありがとう…君を愛しています」
彼の言葉に、彼女は静かに顔を上げると、そっと、彼の手を握る。
「…温かい」
彼女はそう呟いて、もう離すことのないように、両手でその手を強く握った。
生きていてよかったと、どちらかが言って、二人は泣きあった。
お互い落ち着いてくると、一基は今まで伝えられなかった想いを
形にするように、ぽつりぽつりと話を始めた。
「君に料理を特別だと言われて、僕はどんどん欲張りになった」
「けれど、寺で一緒に食事をした時に、君は、僕と目が合って、微笑んだ」
「その姿があまりにも美しくて、僕は、全てを許せてしまった」
「悔いが無くなって、別れ際にようやく手紙を渡すことができて、
君を不幸にせずに済んだと思った」
「けれど本当は、君の指のささくれを、僕の料理で治してあげたかった」
「これからもずっと、君に特別だと言ってほしかった」
「僕は…」
一基の言葉を、桜はキスをして遮る。
「…続きは、目が覚めてから、きちんと言ってください」
彼が微笑み、頷くと、ケータイのアラームが鳴った。
音を止めて、そっと目をこすると、桜は自分が泣いていたことに気づく。
長い夢を見ていたような気がしたけれど、どんな内容だったかは
さっぱり思い出せなかった。
時間は待ってはくれないので、桜はいつもの流れ作業のように
テレビをつけて、朝食を準備する。
今朝も、インスタントのみそ汁と、納豆と、ご飯。
それらをテーブルに運び、あくびをしながら座る。
「いただきます」
そう言って手を合わせる。
その瞬間、いつもと違う気がしたけれど、桜には思い出せなかった。
何かが足りないような、でもそれが普通のような、不思議な感覚。
代わりに、温かな湯気を見つめていると、ふと、彼の笑顔を思い出す。
その笑顔は、手紙を渡された時の寂しいものではなく、いつどこで
見たのか分からない、太陽のように眩しい笑顔だった。
桜は、その笑顔を想うだけで、ご飯が美味しく食べられるような気持ちになる。
テーブルの上には、何の変哲もないご飯。
忙しない食事だけれど、なぜか、涙が込み上げてくる。
今夜、彼に会おうと決めて、桜は仕事を急いで終わらせて、
息を切らして縁の暖簾をくぐる。
「…いらっしゃい」
出迎えた一基の笑顔に、桜は見覚えがあった。
彼女の迷いを晴らす、幸せになるための勇気が湧くような
眩しい笑顔だった。
桜はまた一つ、一基が自分にとって「特別」である理由を見つけた。